昨日の礼拝説教 テキストは「列王記下」5章8節~14節 と 「マタイによる福音書」18章1節~5節
タイトルは「幼な子のようになれ」でした。
物語は・・・・・
重い皮膚病を患っているアラム王の軍司令官ナアマンは「サマリアの預言者エリシャのところに行けばその重い皮膚病を
いやしてもらえるでしょう」というイスラエルから連れてきた捕虜の召使の少女の助言を聞いてエリシャを訪ねました。
エリシャは自らナアマンに対応することなく、使いの者に「ヨルダン川で七度、身を洗い清めれば体はもとに戻り
清くなります」と言わせました。
エリシャ自身から診てもらえなかったナアマンは怒ってダマスコに帰ろうとしますが(賢い)家来たちは
「そんな簡単なことなら試してみたらよいではありませんか」とナアマンを諌めます。
それもそうだ、と思った(のか)ナアマンはヨルダン川に七度身を浸すと、体は元に戻って子供のような皮膚になり
清くなった・・・・・・という話です。
これは単なる奇跡物語ではなく、プライドを捨てて神の言葉に従った者の話です。
ナアマンはい召使の少女の話も、家来の忠告も受け入れる元々素直な人でした。
エリシャの対応にナアマンのプライドは傷つきましたが、それは、エリシャの言ったいやしの方法があまりに
単純だったから、それに従えなかったのです。
キリストの教えも簡単なことで、福音のメッセージは極めて単純で平易です。
単純なゆえにかえって幼な子ように信じるのが難しいのではないでしょうか。
日本ではキリスト教は難しく、インテリの宗教と言われますが、二千年の歴史はそうは示していません。
ナアマンはエリシャの言うことがあまりに簡単なので怒りましたが、賢い家来の言葉を受け入れます。
これは主の御心がそうさせたのです。
キリスト教の中心メッセージはあまりに安易に見えますが、主の御心でそれを信じさせていただいているのがクリスチャンです。
いただいた信仰を神の賜物として一生涯大切にしなくてはなりません。
マタイによる福音書18章3節4節に「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
自分を低くしてこの子供のようになる・・・」とありますが、自分を低くするというのは、謙遜などの道徳的な意味ではありません。
幼な子のようにというのは天真爛漫ということでもありません。
幼な子は両親の保護のもとにあります。
私たちもまた神の子として神に祈り求め感謝すべき存在だ、ということです。
また幼子はその状態を喜んで受け入れ、その境遇に何一つ不満を持ちません。
私たちもそれと同じように神への思いを持ち続けることです。
私たちクリスチャンが幼な子の心をもって社会で過ごす方法はどうすることなのでしょうか。
それは、決して二通りの生き方があるのではなく、幼な子のような心で神に向う、その上に実生活があるのです。
神の義を求めるなら神はそれに加えて与えてくださいます。 (以上、文責はゆうゆうにあります。)
「列王記下」8章17節~19節
僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。
ただし、このことについては主が僕を赦してくださいますように。
わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。
そのとき、わたしもリモンの神殿にひれ伏さねばなりません。
わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。
エリシャは彼に、「安心して行きなさい」と言った。
異教の偶像を拝む儀式に参加しなくてはならないことを赦してほしいと願うナアマンの言葉です。
仏教形式の葬式などの儀式に参加することの多い日本人に直結しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/c8/b41a63d4926c7f6ba1bbac160d21bef7.jpg)
公園の<キジバト>
美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
タイトルは「幼な子のようになれ」でした。
物語は・・・・・
重い皮膚病を患っているアラム王の軍司令官ナアマンは「サマリアの預言者エリシャのところに行けばその重い皮膚病を
いやしてもらえるでしょう」というイスラエルから連れてきた捕虜の召使の少女の助言を聞いてエリシャを訪ねました。
エリシャは自らナアマンに対応することなく、使いの者に「ヨルダン川で七度、身を洗い清めれば体はもとに戻り
清くなります」と言わせました。
エリシャ自身から診てもらえなかったナアマンは怒ってダマスコに帰ろうとしますが(賢い)家来たちは
「そんな簡単なことなら試してみたらよいではありませんか」とナアマンを諌めます。
それもそうだ、と思った(のか)ナアマンはヨルダン川に七度身を浸すと、体は元に戻って子供のような皮膚になり
清くなった・・・・・・という話です。
これは単なる奇跡物語ではなく、プライドを捨てて神の言葉に従った者の話です。
ナアマンはい召使の少女の話も、家来の忠告も受け入れる元々素直な人でした。
エリシャの対応にナアマンのプライドは傷つきましたが、それは、エリシャの言ったいやしの方法があまりに
単純だったから、それに従えなかったのです。
キリストの教えも簡単なことで、福音のメッセージは極めて単純で平易です。
単純なゆえにかえって幼な子ように信じるのが難しいのではないでしょうか。
日本ではキリスト教は難しく、インテリの宗教と言われますが、二千年の歴史はそうは示していません。
ナアマンはエリシャの言うことがあまりに簡単なので怒りましたが、賢い家来の言葉を受け入れます。
これは主の御心がそうさせたのです。
キリスト教の中心メッセージはあまりに安易に見えますが、主の御心でそれを信じさせていただいているのがクリスチャンです。
いただいた信仰を神の賜物として一生涯大切にしなくてはなりません。
マタイによる福音書18章3節4節に「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
自分を低くしてこの子供のようになる・・・」とありますが、自分を低くするというのは、謙遜などの道徳的な意味ではありません。
幼な子のようにというのは天真爛漫ということでもありません。
幼な子は両親の保護のもとにあります。
私たちもまた神の子として神に祈り求め感謝すべき存在だ、ということです。
また幼子はその状態を喜んで受け入れ、その境遇に何一つ不満を持ちません。
私たちもそれと同じように神への思いを持ち続けることです。
私たちクリスチャンが幼な子の心をもって社会で過ごす方法はどうすることなのでしょうか。
それは、決して二通りの生き方があるのではなく、幼な子のような心で神に向う、その上に実生活があるのです。
神の義を求めるなら神はそれに加えて与えてくださいます。 (以上、文責はゆうゆうにあります。)
「列王記下」8章17節~19節
僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。
ただし、このことについては主が僕を赦してくださいますように。
わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。
そのとき、わたしもリモンの神殿にひれ伏さねばなりません。
わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。
エリシャは彼に、「安心して行きなさい」と言った。
異教の偶像を拝む儀式に参加しなくてはならないことを赦してほしいと願うナアマンの言葉です。
仏教形式の葬式などの儀式に参加することの多い日本人に直結しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/c8/b41a63d4926c7f6ba1bbac160d21bef7.jpg)
公園の<キジバト>
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