突然、毛色の違うシリーズなので不思議に思われる方は、「非常に個人的な昔話」シリーズを書こうと思った訳をお読み下さい。
出身の宇和町は予讃線が通っている。卯之町駅は今でも特急が止まる駅である。卯之町は、開明学校、高野長英の隠れ家や江戸時代の街並みが残っていたりして、昔から栄えた宿場町である。確か二宮敬作が開業医をしており、オランダお稲も暮らした事がある街である。
小さい頃、汽車(小さいときに蒸気機関車が走っていたかどうかは記憶が無い、でも今でも電車ではなくディーゼル機関車)に乗るのは、母の里帰りのとき位である。母の出身は北宇和郡(現宇和島市)三間町で、歯長峠を挟んで山一つ向うなのだが、当時はバス、汽車しかないので、予讃線、予土線を乗り継いで行っていた。明間から国鉄バスで卯之町に出て、卯之町駅で汽車に乗るのである。(四国遍路すると、42番(仏木寺)から43番(明石寺)の途中で、歯長峠を越える事になる)
さて、みのり食堂は、駅から歩いて数分の商店街(昔の目抜き通り?)から、ちょっと入ったところにある。この食堂に知恵遅れの子供(私が子供の時には、既に大人だったと思う)がいた。彼が「みのりのかっちゃん」だ。
卯之町駅を使う度にかっちゃんを見かけたので、毎日のように駅に行っていたのだろう。かっちゃんは、自分が卯之町駅の職員だと思い込んでいたのではないかと思う。駅員さんも心得たもので、そんな彼を優しく扱っていた。あとで聞いた噂では、卯之町駅から宇和島までの汽車は只で乗っていたらしい。沿線駅の職員も心得たもので、それを許していたようだ。のんびりした時代であった。かっちゃんも、掃除などの簡単な頼まれ事を喜んでやっていたと思う。(JR四国になって、無賃乗車は出来なくなったと言う噂も聞いた)
国鉄時代であったので、職員は凛と(田舎なので威張っている感じは無かった)した感じがあり、当時の駅の持っている威厳と秩序を、かっちゃんは好きだったのだと思う。(勿論汽車も)
私のかっちゃんをの思い出は強烈である。どうも私はかっちゃんが大切にする駅の威厳を無視したようなのである。年に1回か2回しか汽車に乗る子供が、駅でじっとしているわけは無い。改札の横に柵があったのだが、これが丁度遊ぶのにもってこいだったので、弟とジャングルジムのようにして遊んでいると、かっちゃんに大声で怒られたのである。
それ以前にかっちゃんを知っていたかどうかは覚えてないが、変な感じ(知恵遅れ独特の風貌と言うと分かってもらえるかなー)のおじさんが、真剣な顔をして怒っているのである。本能的に危険を感じて母親のもとに逃げた。このときは本当に怖かった。
その後、町内に一つしかない卯之町にある中学校に通うようになって、みのり食堂の近所に住む同級生から、上記の様なかっちゃん情報をいろいろ教えてもらう事になった。
私にとっては怖いだけの存在だったが、近所ではそういう人と言う認識で受け入れられていたようだ。かっちゃん、男の人に呼びかけるときは、必ず「あにきー」というので、これは友達内ではギャグにしていた。その後も、街でかっちゃんを見かけると、友達は普通に接していたが、私はどうしても恐怖心が抜けきらず、接近遭遇はついに無かった。
しかし、こんな人が普通にいた時代や場所の経験は、心の奥の大事なところにあるような気がする。
昔から私にとっては年齢不詳であったが、もう亡くなっていると思う。4年程前、家族で帰省したときに、みのり食堂に行ったのだが、さすがにかっちゃんの聞く事は出来なかった。
みのり食堂は、正統派の田舎の食堂だ。味も田舎風だが悪くない。(4年前から変わっていなければだが)
追記:3-13-10
早速、地元の友人からメールを貰った。みのりのかっちゃんは健在だそうだ。友人は、人生の大先輩なので語る時は【「みのりのかっちゃん」(さん)】と敬称をつけなければダメと言われてしまいました。
尚,健在と言う事もあり「知恵遅れ」の表現は不適当との指摘も受けました。エッセンスが失われる様な気がするので本文の訂正はしませんが、後は本人や関係者にご迷惑が掛からない事を祈るばかりです。
出身の宇和町は予讃線が通っている。卯之町駅は今でも特急が止まる駅である。卯之町は、開明学校、高野長英の隠れ家や江戸時代の街並みが残っていたりして、昔から栄えた宿場町である。確か二宮敬作が開業医をしており、オランダお稲も暮らした事がある街である。
小さい頃、汽車(小さいときに蒸気機関車が走っていたかどうかは記憶が無い、でも今でも電車ではなくディーゼル機関車)に乗るのは、母の里帰りのとき位である。母の出身は北宇和郡(現宇和島市)三間町で、歯長峠を挟んで山一つ向うなのだが、当時はバス、汽車しかないので、予讃線、予土線を乗り継いで行っていた。明間から国鉄バスで卯之町に出て、卯之町駅で汽車に乗るのである。(四国遍路すると、42番(仏木寺)から43番(明石寺)の途中で、歯長峠を越える事になる)
さて、みのり食堂は、駅から歩いて数分の商店街(昔の目抜き通り?)から、ちょっと入ったところにある。この食堂に知恵遅れの子供(私が子供の時には、既に大人だったと思う)がいた。彼が「みのりのかっちゃん」だ。
卯之町駅を使う度にかっちゃんを見かけたので、毎日のように駅に行っていたのだろう。かっちゃんは、自分が卯之町駅の職員だと思い込んでいたのではないかと思う。駅員さんも心得たもので、そんな彼を優しく扱っていた。あとで聞いた噂では、卯之町駅から宇和島までの汽車は只で乗っていたらしい。沿線駅の職員も心得たもので、それを許していたようだ。のんびりした時代であった。かっちゃんも、掃除などの簡単な頼まれ事を喜んでやっていたと思う。(JR四国になって、無賃乗車は出来なくなったと言う噂も聞いた)
国鉄時代であったので、職員は凛と(田舎なので威張っている感じは無かった)した感じがあり、当時の駅の持っている威厳と秩序を、かっちゃんは好きだったのだと思う。(勿論汽車も)
私のかっちゃんをの思い出は強烈である。どうも私はかっちゃんが大切にする駅の威厳を無視したようなのである。年に1回か2回しか汽車に乗る子供が、駅でじっとしているわけは無い。改札の横に柵があったのだが、これが丁度遊ぶのにもってこいだったので、弟とジャングルジムのようにして遊んでいると、かっちゃんに大声で怒られたのである。
それ以前にかっちゃんを知っていたかどうかは覚えてないが、変な感じ(知恵遅れ独特の風貌と言うと分かってもらえるかなー)のおじさんが、真剣な顔をして怒っているのである。本能的に危険を感じて母親のもとに逃げた。このときは本当に怖かった。
その後、町内に一つしかない卯之町にある中学校に通うようになって、みのり食堂の近所に住む同級生から、上記の様なかっちゃん情報をいろいろ教えてもらう事になった。
私にとっては怖いだけの存在だったが、近所ではそういう人と言う認識で受け入れられていたようだ。かっちゃん、男の人に呼びかけるときは、必ず「あにきー」というので、これは友達内ではギャグにしていた。その後も、街でかっちゃんを見かけると、友達は普通に接していたが、私はどうしても恐怖心が抜けきらず、接近遭遇はついに無かった。
しかし、こんな人が普通にいた時代や場所の経験は、心の奥の大事なところにあるような気がする。
昔から私にとっては年齢不詳であったが、もう亡くなっていると思う。4年程前、家族で帰省したときに、みのり食堂に行ったのだが、さすがにかっちゃんの聞く事は出来なかった。
みのり食堂は、正統派の田舎の食堂だ。味も田舎風だが悪くない。(4年前から変わっていなければだが)
追記:3-13-10
早速、地元の友人からメールを貰った。みのりのかっちゃんは健在だそうだ。友人は、人生の大先輩なので語る時は【「みのりのかっちゃん」(さん)】と敬称をつけなければダメと言われてしまいました。
尚,健在と言う事もあり「知恵遅れ」の表現は不適当との指摘も受けました。エッセンスが失われる様な気がするので本文の訂正はしませんが、後は本人や関係者にご迷惑が掛からない事を祈るばかりです。
追記で出てくる友人(山田薬師の関係者、といったら個人が特定されますが、別の所で本名を著者として紹介(書評にあります)しているのでOKでしょう)の奥さんの車を覚えていて、手を振ってくれるそうです。
かっちゃん以外と女性好きかも。
でも私のトラウマは一生消えそうにありません。
が気になって 全部読ませてもらいました
『みのりのかっちゃん』 と呼ばれていたことにはビックリ!
私の頃は 『駅前かっちゃん』 でしたから。。
かっちゃんは 顔を見たら必ず挨拶をしてくれる人気モノで
挨拶をするだけでも忙しそうでしたね
少し前に見かけたときは白髪にはなっていましたが
いつも歩かれているので 足腰が丈夫らしく
昔のままの元気な姿を見て
『かっちゃんは 年をとらないね~』
と母と話しをしていたところです
同じ共通の思い出話を読ませてもらって
思わず懐かしいキモチになりました (*´ー`*人)。
Willyさんと掛け合い漫才でご多忙のところコメントありがとうございます。いつも寄り添う様なコメント(池田信夫の件でも)で感謝してます。(私も2次元系ですが、これは3次元方程式が解けないという数学的な意味です。誤解なき様)
Lilacさんが仰る通り、このような人との経験がないのが当たり前になってきていると思います。それ以上の考えはハッキリないのですが、何かのヒントになれば望外の幸せです。
もしかしたら東部・西部だけの事情かもしれませんが。
日本じゃ障害者優先の場所とかに平気で車を止めたりしますが、こちらでは絶対にやってはいけない行為とされている気がします。
でもそれだけ実際に障害を持った方を見かけるので、なるほど、と納得しております。
日本にも同じ割合でいるはずなのに、一体どうしているんだろう?と思ったのですが、昔はこうしてひとつのコミュニティに受け入れられて普通にいたんですね。
今の世の中では自閉症の方も外に出られないのだろうか、と海部美知さんのブログを読みながら思ったりします。
懐古趣味ではないですが、いろんな人が普通に暮らしていた頃への郷愁でしょうか。(映画は、なんか辛そうですね)
ときどき、義母と話すのですが、私の生まれた育った頃、つまり昭和40年くらいまでは、日本の田舎は基本的に江戸時代からの社会と同じだったと思います。
たった40年で、日本の地域社会が崩壊している事は、アメリカにいる私でさえ、実感としてあるのですが、未だにまともな再生論、もしくは、破壊論にお目にかかった事がありません。
田舎から逃げ出した分際なので、自分の郷愁だけのために嘆くのではないのですが、何とかならならないものかと、思います。地元の人の悩みは、もっと深いようです。
山本周五郎 季節のない街を映画化した
黒澤明の どですかでんに出てくる六ちゃんとそっくりだと思いました。六ちゃんの家は天ぷら屋でデズニーワールドの浦安近辺の季節のない街が舞台です。