暘州通信

日本の山車

◆花里神社の由緒 一四

2018年09月08日 | 日本山車論
◆花里神社の由緒 一四

 江馬輝盛の母は、三木自綱の父である三木直頼の妹であり(異説あり)、輝盛と自綱は従弟の間であった。
 しかし、輝盛は死去し、その居城であった「諏訪城」も陥落したのであった。

元亀四年(一五七三)年四月 武田信玄死去。
天正六年(一五七八)三月 上杉謙信死去。
天正一〇年六月 織田信長死去
天正一三年(一五八五)、富山の役にて、佐々成政は秀吉に降伏して富山藩を出る。

 飛騨に大きな関わりのある戦国時代の英雄らは相次いで世を去り、飛騨北方の雄であった、江馬氏が滅亡し、
あるいは、佐々氏の敗北で、三木氏の飛騨での安泰は確かなものとなったかに見えた。

◆花里神社の由緒 一三

2018年09月08日 | 日本山車論
◆花里神社の由緒 一三

 天正一〇年(一五八二)、織田信長が死去すると、江馬輝盛と三木自綱と争いが生じ、高原郷の諏訪城を出て、大坂峠を越え、現、高山市国府町八日町に陣を布き、三木自綱と戦うことになった。伝えるところ、この戦は輝盛勢が優勢であったが、壊走する三木勢を深追いしすぎたため、三木氏の伏兵に本陣を襲われて輝盛は最期を遂げた。三木兵を追い散らして意気揚々と本陣に戻った
江馬勢は、大将が討ち取られた様を見て仰天したがもはや取り返しがつかず、総崩れとなり、十三人の陪将らは、主君の後を追って自害した。
 その十三人の陪将らの霊を祀った大坂峠は、「十三墓峠」ともよばれる。

 また、この戦役で死去した無名兵士の遺骨は、飛騨の歴史研究で偉大な功績のあった岡村利平氏宅の北側に四角く区画した区域に集められて集団墓苑となっている。