暘州通信

日本の山車

◆益田繩手 三

2018年01月14日 | 日本山車論
◆益田繩手 三

 これは仮説である。

 飛騨川の上流は、益田川であったが、古くは、この一帯が旧益田(郡、こおり)だったのではなかろうかと推察する。現在は高山市になったが、合併まえの久々野町、朝日村、高根村がおおむね含まれる。文献にみられる「益田・ました」の名称は、貞観一二年(八七〇)に飛騨國、大野郡の南部を分割したのにはじまる。
 この地に居住した斐太ノ工が、【益田繩手】である。
 旧萩原町(現在は下呂市)の国道四一号線沿いには、「久津八幡宮」が鎮座するが、朝鮮半島(韓半島)から渡来した「久津氏・クツ氏」ゆかりの神社である。
 越前は早くから、の渡来があり、若狭から滋賀県北部にかけて、朽木、沓掛、久津野、沓水などクツ氏にちなむ姓がみられる。
 大仏殿建立の益田繩手は越前國足羽郡出身とされるが租の出自は飛騨國益田郡を出自とする斐太ノ工だったとかんがえる。
 国道四一号線から離れ東部に向かうと、高根村にいたるが、ここで道はおおきく二つに分かれ、野麦峠を経て、奈川、薮原をとおり中山道に出る。上ケ洞、中之宿はその宿場であった。
 もう一つの道は木曾御嶽を仰ぎながら、開田を経て木曾福島(きそふくじま、ふくしまとは言わなかった。)で中山道と合流し松川を経て【伊那谷(委奴)】に至る道で、古くから飛騨の斐太ノ工と、信州の斐太ノ工の交流するみちであり、越中國で水揚げされた【寒鰤・かんぶり】は越年には欠かせない出世魚で、歳末の進物として飛騨高山を経由して信州伊那に贈られた。伊那地方ではこれを【飛騨鰤】とよんで珍重した。

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