◆0325 【花里八幡宮】
▲長尾畑総(高山市営長尾畑地総合整備事業)地内には、古く三木氏の創祀にかかる【花里八幡宮】
が鎮座していた。宇佐系の八幡宮で、南飛騨の萩原町(現在は下呂市)の【久津八幡宮】とほぼ同時期の創祀と伝わる。
▲天正時代、金森長近が豊臣秀吉の命により飛騨入り。金森氏と三木氏の合戦で三木氏が敗れたことから、祀られていた【花里八幡宮】も兵火にかかり炎上したと伝わる。
▲現在は金森氏により遷座となって、二キロほど離れた地に移っているが、その旧境内地は現在もそのまま残されている。花里八幡宮は、高山市の東部の、大八郷地区にやはり三木氏の出城があったことから、花里八幡宮から分祀された八幡宮が鎮守として祀られていました。ここにもやはり花里八幡宮の旧境内地が残される。古くは善應寺が別当寺となっていて、和良村の戸隠神社にあった大般若心経が、三木氏により奉納されていた。
▲花里八幡宮は、金森氏の反目する敵将の鎮守だったと言うこともあり、その後の高山市の発展から取り残されてきた。
▲金森氏と三月氏の争いにより、花里町に鎮座する花里八幡宮も鎮守地には長らく民家がなくわずか数戸の氏子により奉齋されてきた。そのようなわけで、神官はおらず、長らく【當屋(とうや)】により維持され、戦後間もなくころまでは旧地でも秋の収穫祭が齋行されていた。
▲長尾畑総(高山市営長尾畑地総合整備事業)地内には、古く三木氏の創祀にかかる【花里八幡宮】
が鎮座していた。宇佐系の八幡宮で、南飛騨の萩原町(現在は下呂市)の【久津八幡宮】とほぼ同時期の創祀と伝わる。
▲天正時代、金森長近が豊臣秀吉の命により飛騨入り。金森氏と三木氏の合戦で三木氏が敗れたことから、祀られていた【花里八幡宮】も兵火にかかり炎上したと伝わる。
▲現在は金森氏により遷座となって、二キロほど離れた地に移っているが、その旧境内地は現在もそのまま残されている。花里八幡宮は、高山市の東部の、大八郷地区にやはり三木氏の出城があったことから、花里八幡宮から分祀された八幡宮が鎮守として祀られていました。ここにもやはり花里八幡宮の旧境内地が残される。古くは善應寺が別当寺となっていて、和良村の戸隠神社にあった大般若心経が、三木氏により奉納されていた。
▲花里八幡宮は、金森氏の反目する敵将の鎮守だったと言うこともあり、その後の高山市の発展から取り残されてきた。
▲金森氏と三月氏の争いにより、花里町に鎮座する花里八幡宮も鎮守地には長らく民家がなくわずか数戸の氏子により奉齋されてきた。そのようなわけで、神官はおらず、長らく【當屋(とうや)】により維持され、戦後間もなくころまでは旧地でも秋の収穫祭が齋行されていた。