鹿島アントラーズ原理主義

愛する鹿島アントラーズについて、屈折した意見を述べていく場です。

全力の男・岩政大樹

2008年07月26日 | Weblog
すべてに力を抜かずに全力で取り組むことを習慣づけられたことが大きかった
08.7.25 UPDATE
― 小学生時代(大島サッカースポーツ少年団)
サッカーが好きでしたので、小さい頃からボールを蹴ってはいたのですが、住んでいたところにサッカークラブがなかったので、正式にクラブに入ったのは4年生の頃でした。そのクラブは僕が行っていた小学校でやっている少年団ではなく、別の小学校でやっていた少年団だったのですが、他の地域の子も受け入れていることをその小学校に赴任していた母が知ったんです。その話を母から聞いてから、どうしても入りたくなってしまって、入れてもらいました。大島サッカースポーツ少年団は周東リーグにあるチームだったんですが、僕は周東リーグの選抜である周東FCにも選ばれて、周東FCで県大会に出ていました。多い時には、少年団に水、土、日、周東FCに火、木、土、日と練習に出ていました。火水木そして土日は2部練でサッカーばかりしていました。周東地区は日本サッカーリーグだった永大産業サッカー部が数年間あった地域だったんです。そこでフォワードをしていた二人が大島サッカースポーツ少年団と周東FCの監督だったんですね。だから、田舎にしては指導者にすごく恵まれていた環境でした。その二人は技術もありましたので、すごく憧れていました。指導はすごくスパルタでしたよ。2時間の練習だったら6~7割は走っていました。当時、多々良学園より厳しいって言われていましたからね(笑)。厳しくとも人間的に素晴らしい人でしたので、僕は尊敬していました。

周東FCは僕の一つ下まで県大会で6連覇している強いチームでした。おかげで、僕は6年生の時によみうりランドの全国大会に出場しました。隣ではプロ選手が練習していたんです。当時はヴェルディがすごい時代で、ちょうどカズさんやラモスさんたちが紅白戦していたんですね。「ああ、すごいなあ」って思った記憶があります。全国大会ではグループリーグの初戦が優勝した浜松JFCだったんですが、その試合に引き分けたので、やや慢心したのか、その後調子に乗れず、敗退してしまいました。
― 中学生時代(大島JSC)
大島JSCは僕が中学校に上がる時に出来たチームです。というのも、大島サッカースポ少に所属する子どもたちが中学校に上がった時にサッカーをする環境がなかったので、指導者の方が作ってくれたんです。僕は中学校に上がる時にサッカーを止めるつもりだったんですけど、大島JSCが出来ると聞いて続けることを決めました。僕がいた地域の中学校では必ず部活に入らなくてはならないので、大島JSCの練習は土日だけでした。僕は陸上部に入りました。…というか、陸上部しかなかったんですけどね(笑)。大島は年に一度、大島駅伝という大会があって、駅伝が盛り上がる地域だったんです。僕がいた中学校は全校で30人くらいしかいない学校だったんですけど、伝統的に陸上が強い学校だったために、男子は強制的に全員陸上部に入るようになっていました。男子が全員入ると言っても、20人もいませんから、誰に勝ったか負けたかという世界なんです。学年の中では僕が一番速かったんですが、僕に勝とうとするヤツが出てくるんですよね。そいつらには絶対に負けられないから、帰宅してから隠れて走ったり、朝も走ったりしていましたね。夏休みとかでも午前中に陸上の練習で走って、午後にサッカーの練習をしてなんてやっていました。とにかく忙しかったです。生徒会長でしたし、陸上部のキャプテンでしたし、サッカークラブのキャプテンでもありました。勉強もしなくてはいけなかったですし。おかげで走る能力というよりは、忍耐力が磨かれました(笑)。
まだ山口県にはクラブチームは10チーム程度しかない時代だったので、チームの順位は上の方でした。大島JSCは土地柄もあってか、頑張るチームでした。他のクラブチームは都市部のチームだったので、上手い選手はいるんですね。でもウチは頑張って勝つチームでした。それで、3年生の時にはなんとか県で優勝できるくらいまでにはなりました。
― 高校への進学
大島の高校にも大島から少し先の高校にもサッカー部がなかったんです。だから、サッカーを続けるのは無理かな、と思っていたんです。そんな時に転機が訪れました。大島JSCが県のクラブチームの大会で優勝したので、中体連の優勝チームと中国大会に出るチームを決める試合に出たんです。相手とは力の差はあったんですけど、その試合での僕の出来が良かったんですね。見にきていた多々良学園の方が好待遇で僕をスカウトしてくれたんです。「多々良がそんなに誘ってくれるんだったら、高校でもサッカーできるだろう」と思い始めたんです。ただ、両親が教師で、その姿を小さい頃から見て育ってきたから、サッカー一本で進路を決めて行くことには違和感がありました。勉強もしっかりやれて、高校サッカーがだめになっても大学に行くという選択肢を残せるところ。岩国高校だったら、片道1時間半あればギリギリ頑張れば通える。ということで岩国高校を志望しました。大島から橋を渡ったところにある駅から電車で通うんですが、その駅まで自転車で40分くらいかかるため、毎日親に送り迎えしてもらいました。こんなに大変だけれど、それでも行くのかと散々言われましたね。僕の気持ちは決まっていたのですが、親を説得するのは大変なことでした。
― 高校生時代(岩国高校)
何にも調べずに入学したのですが、岩国市でサッカーをしている一つ上の世代にいい人材が豊富で、その人たちが運よくみんな岩国高校に来ていたんです。指導者の方も山口県のトレセンに関わっている先生でした。おかげで僕が通った3年間はなかなか強かったですね。先生が厳しかったので反発する人たちもいたんですが、僕の性格上、指導者の声に耳を傾けてしまうタイプなので、ヘディングの仕方から、細かい技術まで、いろいろなこと素直に学ぶことができました。1年上の代では県大会決勝で多々良学園と戦うまでには行っていたんですけど、ちょうど高松(大分)がいたりして多々良も強かったので、結局、その壁は破れませんでした。
3年の時に国体選手に選ばれました。多々良が15人中11人いて、残り4人の中の1人でした。まあ、多々良の選手に遠慮しながらやっていましたね(笑)。でも、彼らはやっぱり目指しているものが違ったんですよね。僕らは多々良を目指していてやっていましたが、多々良の選手は全国を目指していて、質も要求も違いました。そういう意味ではためになったと思います。予選ではメンバーとして出場していたんですが、国体の本大会に出かける前日に中足骨(足の甲の外側)を折ったんです。久しぶりに出る全国大会で自分の力を試して高校サッカーを終えるんだと思っていたのに。登録変更は1週間前までしかできませんでした。痛いし、出られなくて悔しいし。僕は行きたくなかったんですよ。でも、両親も祖父母も県の代表として国体に選ばれたことには間違いないんだから、国体選手として行ってこいと言ってくれたんです。その言葉に背中を押されて行ってきたんですけど、集大成になるはずだったのが見学で終わったことが、その後の進路を変えることになったんです。

それまでは大学に入ったらサークルとかではやろうと思うくらいで、本格的なサッカーはやめるつもりだったんです。そうやって自分の気持ちを抑えようとしていたんだと思います。国体の2週間後に選手権予選があったんですけど、もやもやしていて、まだ骨はくっついていないのにギプスをつけたまま出てしまったんです。そしてかなり上まで行くだろうと思っていた僕の代は2回戦で負けてしまったんです。国体に出られなかったこと、選手権予選の結果。自分が全力を出したかったことがこんな結果になってしまった。これで終わるのか。そう思って、翌日の模試の日に、親が校門まで送ってくれたんですけど、その模試を受けずに一人で考えこんてしまったんです。その帰りの車に乗った瞬間に「やっぱりサッカー続けるわ」と言ったことを覚えています。最初は中国地方にあって教師になるという自分の希望が達成できる大学に行くつもりだったんですけど、関東の大学に行くということを決めました。
東京学芸大を選んだのは教師になりたいという希望に即した大学だったこと、行こうと思っていた大学とほぼ同じレベルにあったこと、関東一部リーグだったことが大きな理由です。筑波大学という選択肢もあったんですが、体育学部に入るつもりはなかったんですね。体育学部じゃなくて筑波でサッカーできるのだろうか、と思ったんです。それで普通に受験をしました。センター試験次第では私立も考えなきゃなと思っていたんですけど、センターがなかなか良かったんです。また学芸大の場合、数学科だと後期は数学だけでいいんです。私立の場合、2~3科目必要だったので、それよりも数学に集中した方が行けるかなという気持ちもありました。
― 大学生時代(東京学芸大)
初めてアパート暮らしをするんですが、今思うとひどかったですよね(笑)。僕のところが学校に一番近いアパートだったんです。それがいけなかった。1年の時は完全にみんなのたまり場になってしまいました(笑)。僕の部屋のカギがサッカー部の仲間の中で出回っているんです。おかげで授業の合間には必ず誰かがいました。炊事、洗濯、掃除も慣れなかったですし、人もいっぱいいたから、どんどん汚くなっていましたね。部活の方は、高校卒業の日に中足骨骨折を再度やってしまっていたので、プレーできるようになったのは5月からだったんです。だから練習は見学していましたし、学部もみんなと違ったので、なかなか仲間に入れなかったんですね。みんなはお昼を学食で食べるんですが、僕だけアパートに戻って、インスタント食品を食べて、午後の授業を受けていました。1~2 か月は寂しかったですね。
チームにはいい選手がたくさんいました。ただ、全体のレベルは高くはあっても、集めているわけではないので、驚くほどではありませんでした。僕は中足骨骨折から復帰して1週間でスタメンに入りました。センターバックをしていた方が卒業したため、最初は真ん中が安定しなかったんですね。それで僕を試す形で使ってくれたんです。僕もなかなか安定していなかったと思います。最初の練習試合でオウンゴールをしてしまい、終わったな…って思ったんですが、それでも我慢して使ってもらえたんです。そんな状況だったので、僕自身ここで生き残っていきたいという気持ちでプレーをしていましたから、周囲を見回す余裕はありませんでした。
学芸大はサッカーをいろいろと考えるチームでした。学芸大よりもタレントが揃っている筑波や国士舘にどうやって打ち勝っていくかを考え、それが瀧井先生のゾーンプレスだったので、ゾーンプレスに関してはすごかったですね。監督は卒業生の方だったこともあって、受け継がれたものをさらにみんなで話し合って擦り合わせていました。特に全体での守備の動かし方は高校まではあまり考えていなかったことでしたし、考えすぎて、むしろ頭でっかちになるような感じでもありました。

1 年のリーグ戦終了時に大学選抜に選出されました。監督が瀧井さんだったので、将来性を見込んで入れてもらっていたんだと思うんです。だから、ひどかったですよ。ヘディングに関してはリーグ戦で巻さん(千葉)や曽田さん(札幌)のような高さに強いという人たちと競っていく中で、多少はできていたので、けっこう自信がついていたんです。でも大学選抜に行くと、周りは市船や帝京というサッカー有名校出身の上手い選手ばかりで、ミスとか全然しないんですよ。ミスしないことが当たり前の世界に、全国初心者の僕がポンと入ってしまったんです。コーチからも集中攻撃を受けて。いやあ、落ち込みましたよ。合宿から帰ってきて「絶対にみんなのレベルの追いつくんだ」と徹底的に練習をしました。その後、大学選抜には入ったり入らなかったりしましたが、大学選抜の練習に追いつくために次はなにをしよう、ということの繰り返しでした。僕たちの頃は大学選抜に入っている選手がJに行けるという世界でしたので、なんとかそこに入っていけるようにすればプロ選手になれるんじゃないかと思いながらやっていました。そういう意味で大学選抜がひとつの目標であったし、ものさしでもあったと思います。
ユニバは2年生の時に、最後の合宿まで連れて行ってもらって、最後に落とされる3人の中に選ばれました(笑)。今思うと、落ちて当然なんですけど、落ちると悔しいので、落ち込んでいましたね。特に上手い人たちを見て、こういうこともしなければいけないんだ、ということを考え始めていた時期でした。また、落ちてすぐに3度目の中足骨骨折をして、リーグ戦に復帰したと思ったら4度目の中足骨骨折をしたので、リーグ戦にはほとんど出場できていないんです。だから 2年生の時は厳しかったですね。1学年下にいい選手がどんどん出てきていて、周りの評価が落ちてきたように思えていたんです。ああ、やばいな…って思っていました。ライバルは戸川(横浜FC)でした。すごいなって思っていて。選抜で一緒にやっていても、こいつはすごいなって思っていました。新しい大学選抜が発足した時に僕らの代が一番上だったんですが、僕が最初にキャプテンになったんですね。僕の中では戸川がふさわしいんじゃないかなって思っていたくらいです。そこに村山(大宮)とか、下だと深谷(大分)とか江添(C大阪)とか長野(福岡)とか、僕らの代と1学年下にはいい選手がたくさんいましたね。
3年の5月に大学選抜のスイス遠征があったんです。U-20で1学年下だったんですが、僕は早生まれだったので入れたんです。その遠征で掴めたことがあったんです。自信を取り戻したというか。20分ハーフの試合を一日何本もやっていく大会だったんですけど、自分が良かったこともあるし、監督とコーチが僕のことを信頼してくれて、あとはお前に任せたぞ、と言ってくれたことが大きかったと思います。そこからプレーが落ち着いてきたのは自分でもよくわかりました。
後期リーグは、巻さんと深井さんが二人で高得点をあげて、駒沢大学がダントツだったんです。駒大は巻さんにどんどん上げて深井さんが拾うというスタイルだったんですが、僕が巻さんに勝てるかどうかが大きなポイントになったんです。そんな駒大に学芸大は2連勝したんです。これで周囲の目も変わってきたんです。おかげでプロの誘いもいただくようになりましたし。3年生の秋はすごく良かったと思います。
3年生の秋に山本昌邦監督のU-22代表候補に入りました。その1月の合宿でJ所属の選手たちとプレーをして距離をすごく感じてしまったんです。質も要求もレベルも技術も違ったんですね。でも、一番違ったのは大学生に対しての見る目が違うんです。僕が何かを言ったとしても「いや、お前は大学生だから出来るんじゃないか」って言われました。ムッと来たけれど、言い返せなかった自分がいたんです。そこで、もしJに行くんだったら早めに慣れておいた方がいいなと思って、瀧井先生にどこかのチームに練習に行かせてほしいとお願いをして、いろいろなチームの練習に参加させてもらいました。

鹿島に決めた理由としては、正直、鹿島というチームが好きだったんです。ジーコも好きでしたし、小さいころには鹿島のユニフォームとかも持っていたんです。それで鹿島に入れたらいいなって思っていたんですが、3年の終わりの天皇杯で鹿島と対戦して0-4で負けてしまったんです。ああ、これで鹿島はないな、とあきらめていたら、4月に呼んでいただいたので、この時点で「行くなら鹿島だな」と思ったように記憶しています。だから話が来た時にははしゃいだり、ガッツポーズをしたりしていたと思います。夏に練習に参加しました。思ったとおり、すごいメンバーでした。僕は左のセンターバックで出たんですが、右が秋田さんで、左が相馬さんだったんです。このお二人が練習中けっこう言い合うんですよ(笑)! 鹿島はやっぱりすごいなあって思ったことを覚えています。こんな勝者のメンタリティを持っているチームに入れば、人間としても学べるものがあるんだろうなって思いました。
― プロになれた一番のポイントは?
プロになれたということだけではなく、プロで試合に出場し続けていられるのは、中学校の頃にすべてに力を抜かずに全力で取り組むことを習慣づけられたことが大きかったと思います。生徒会、勉強、陸上部、サッカー…。本当に時間が足りなかったんです。朝練で走って、昼休みにはサッカーの練習をして、授業を終わって生徒会の練習をして、遅れて陸上部の練習をして、帰ると真っ暗で、夕飯を食べると疲れてどうしようもなくなるんですけど、少しでも勉強をしなくちゃいけないから勉強をして。何にも負けたくないという精神です。おかげですべてに100%全力を尽くせるようになりました。それはセレーゾ監督もアウトゥオリ監督も強調していることで、プロになったこと、プロになってから、双方において良かったことだと思います。

【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫

岩政がどのような半生を歩んできたのかが良く伝わってくる。
単なるサッカー人生は歩んでおらぬ。
努力することを怠らぬよう幼少の時期から培われてきたのであろう。
これは周囲のサポートがあってこそである。
よほど人間との出会いに恵まれてきたのだと思う。
これからもそうであって欲しい。
人材登用に積極的な長州ならではである。

ダニーロ負傷

2008年07月25日 | Weblog
マルシーニョ、首位決戦で初先発も
 新加入の鹿島のブラジル人MFマルシーニョが27日の浦和戦で初先発する可能性が出てきた。2日連続で行われた紅白戦で、ともに主力組の右MFでプレー。スピードあるドリブルで何度もチャンスを演出した。MF青木は「サテライトも(20日の)横浜戦も出ているから問題ない」と連係に太鼓判を押した。一方、MFダニーロは右足内転筋に張りを訴え別メニューで調整した。
[ 2008年07月25日 ]

マルシーニョが二日連続で主力組に入っているとのこと。
彼のスピードで浦和ディフェンス陣を切り裂く所存であろう。
そのマルシーニョはともかくダニーロの負傷は痛い。
今季のダニーロは攻撃ではもちろん、守備での貢献も大きい。
高さもあり、まさにスーパーな選手であった。
27日には間に合うのであろうか。
とはいえ、ここでジタバタしたところで始まらぬ。
我等の中盤にはきら星の如く人材が集まっておる。
一人二人欠いたところで戦力に差はない。
本山、野沢、誓志、ヤス、修人、小谷野、誰が出ても遜色はない。
惜しむらくは船山が起用出来ないこと程度である。
中盤で圧倒することは目に見えておる。
しかしながらゴールを奪えなければ意味がない。
最終的には得点に至るプロセスとして中盤があることを忘れるではない。
最後に笑う者はより多くの得点をしたチームなのである。
未亡人となった篤姫は落飾して天璋院となるのであった。

篤人の爆発的上がり

2008年07月25日 | Weblog
内田が同点起点!フル代表の貫禄見せた

<日本・オーストラリア>前半41分、同点ゴールを決めた香川(右)と喜ぶ内田
Photo By 共同

 【U―23日本代表2―1U―23オーストラリア代表】昨年11月以来の五輪代表での実戦となった内田が、フル代表仕込みのプレーで勝利に貢献した。前半41分には右サイドを駆け上がり、パスで同点ゴールのおぜん立て。「失点はしたが、自分たちのゲームをして逆転できた。今後につながる形だった」と手応えを口にした。左サイドバックの長友もフル代表からの合流組。攻撃的な内田を見ながら守備優先でプレーし「右の内田が前にいっていたのでバランスを重視した」と、冷静さが光った。
[ 2008年07月25日 ]

「得点シーンは狙い通り」内田篤人=サッカー五輪代表
 サッカー男子の五輪代表(U-23日本代表)は24日、ホームズスタジアム神戸で壮行試合の第1戦となるU-23オーストラリア戦に臨み、2-1の逆転勝利を収めた。
 以下は試合後の、内田篤人(鹿島)のコメント。

「(A代表に招集されていて)このチームに長くいなかったので、やれることは(全部)やろうと思った。途中で交代するのかなと思っていたけれど、(後半も決勝)点が入るまでは攻めようと思っていた。今日はお客さんが結構入ってくれて、後押しもあって良かった。リズムを(相手より)先につかみたかったので、仕掛けていった。コンディションは鹿島でも試合に出させてもらっているので、こっち(代表)に来てできないというのは言い訳にならない。

 1点目は、(ボールを中に)入れた後にFW2人で崩して、最後に(香川)真司が絡んできたところが、あいつの特徴かなと思う。(前半、中盤の選手にしきりに話し掛けていたが?)相手のプレスはあまりかかっていなかったのに蹴ってしまっていたので、もっとつないでいこうと話をした。
(失点の場面については?)ミスは仕方がない。あそこから2点、3点と取られずに、逆転できたことはかなり良かった。(同サイドの本田圭とは?)左利きなのでパスを渡しやすかった。真司も中に入ってくるので、サイドチェンジを使おうと話をしていた。得点シーンは狙い通りだと思う。真司が左で(本田)圭佑君が右なのも、意図があるんだと思う。(右サイドからの攻撃が多かったが)もう少し向こう(左)からも攻められると良かった。ちょっとこっちが忙しかった。(29日に対戦する)アルゼンチンはもう少し良いプレスをかけてくると思う。

 少し裏を狙い過ぎていると思う。でも、今うまくいきすぎるより、ミスでの失点を本番でやってあたふたするよりいい。(体格差は感じなかったか?)センターバックがしっかり跳ね返してくれていたし、中盤の前の選手もしっかりディフェンスをしてくれたので(差は)感じなかった。あれだけ密度の濃いディフェンスをすれば、なかなか崩されることはない」

[ スポーツナビ 2008年7月24日 23:25 ]

往年の名良橋を彷彿させるプレイであった。
フル代表ではここまでの上がりは見せていないように思える。
ここに来てやっと反町氏が篤人の使い方がわかって来たように思える。

青木剛代表を見極める

2008年07月24日 | Weblog
J1 青木、代表定着に意欲
2008/07/24(木) 本紙朝刊 スポーツ A版 15頁
 鹿島からはMF中田浩二とともに、MF青木剛が初選出された。世代別の代表経験はあるが、フル代表は合宿も含めて初めての選出。それでも、今回は五輪代表とG大阪勢が呼ばれてないため、「候補の候補。大穴の大穴ですよ」と照れ笑いを浮かべた。

 鹿島では昨季からスタメンに定着し、ボランチとしても成長。運動量とカバーリングで定評がある。
 岡田監督のサッカーについては「攻守の切り替えの早さなどが似てる」と鹿島との共通点を挙げ、「チャンスはチャンスなんで、しっかりアピールしたい。3日間と短いが、どんなサッカーをするのか見極めたい」と代表定着に意欲を見せた。


青木がフル代表候補に初選出され、意欲を見せているとのこと。
やはり、耐えに耐え掴んだレギュラーでチームが好調となりタイトルも得た。
次は代表と着実なるステップアップである。
このように一つ一つ積み上げた人間は強い。
日本人のメンタリティに合った人物である。
青木は努力の人として崇められる存在となるであろう。
イキガミ様である。
インドのサイババと並び称されるであろう。
そして我等は平伏すのである。
青木剛様に。

日本代表DFユダ

2008年07月24日 | Weblog
即戦力期待!中田、代表にも帰ってきた
 鹿島のDF中田がオシム前監督時代の07年6月のキリン杯以来、1年ぶりの代表候補入りで岡田ジャパン初選出となった。20日の横浜戦で鹿島に復帰後は初めて先発。センターバックに入ったがDF、MFの複数のポジションをこなす能力に、岡田監督は即戦力として期待している。久しぶりの代表入りに「日本に帰ってきたので、日程に関係なく参戦できる」と意気込んでいた。
[ 2008年07月24日 ]

ユダはMFではなくDF登録での招集である。
今回の招集メンバーを見る限りユーティリティとは申すものの左SBのテストでは無かろうか。
いろいろなポジションができるとのコメントの裏に便利屋の意図が読み取れる。
体の良い紅白戦要員である。
また、あくまで左サイドバックの専門選手を呼ばない姿勢にはほとほと呆れる。
今季、これだけ好調の新井場に目もくれぬ姿には眼鏡の曇りを通り越して、悪意すら感じるところである。
とはいえ、岡田氏の人間としての器の小ささ、監督としての鑑識眼の無さを嘆いたところで何も始まらぬであろう。
我等は気持ちを2010南アフリカを諦め2014ブラジルW杯へ向けようではないか。

本山イレブンミリオン・プロジェクト

2008年07月24日 | Weblog
でも目指していかなければならないと思います。
08.07.23 UPDATE
― イレブンミリオン・プロジェクトを達成するために、選手として出来ることはどんなことでしょうか。
本山 鹿嶋市は人口が少ないので、たくさんの地域の人に来てもらえるよう、今以上に地域に密着したチームにしていかなければいけないと思います。選手としてはサインをする場所を明確にして、できるだけたくさんの人にサインを出来るように心がけていますね。

― 地域密着についてはどのような取り組みをしていますか。
本山 ホームタウンの子どもたちとの距離を縮めるために、クラブと選手会が合同で小学校訪問に取り組んでいます。今年は忙しいのですが、それでも全選手が1度か2度は訪問できるようにしようと思っています。
― 全選手が訪問するのですか?
本山 そうですね。去年は全選手が3度か4度訪問したんですが、今年はACLなどもあってなかなか時間が取れないのが実情です。それでもチームと協力して試合に関係ない時にはどんどん訪問して行こうとしています。
― 小学校では具体的になにをするのでしょうか。
本山 小学校側と話しあって…のことなのですが、授業の1時間をもらって小学生と触れ合うことが一番の目的となります。大体が体育の授業です。サッカーをしたりドッジボールをしたりもします。鬼ごっことかもやりましたね。時間があれば、質疑応答の時間もあって、みんなの質問に答えています。ユメセンのようなものですね。
― 授業をするという印象はどうですか。
本山 自分たちも子どもたちと一緒に楽しめますし、学校訪問を行うことによって、少しずつですが距離が縮まっている感触があります。最後には「今まで観に行っていなかったけど、今度、試合を観に行くね!」って言ってくれたりする子どももいるんですよ。父兄の方も小学校訪問の時に来ていらっしゃるので、家族の方たちとの距離も縮まっているんじゃないかと思います。

― 選手会としてはピッチの外での活動に対して積極的に取り組んでいるということですね。
本山 僕たちは積極的に取り組んでいます。必要なことであれば、選手のみんなも「やりたい」と言ってくれます。
― イレブンミリオン達成には1.3倍の集客を見込まなければいけません。
本山 カシマスタジアムを中心にして円を描くと、そのうちの半分が海になってしまうんです。茨城県には水戸にもクラブチームがありますし、県全体を捉えると利便性から考えても厳しいように思うんですね。でも、鹿嶋の人たちが全員来てくれると満席になると思うんです。僕たちはそこを目指していかなければいけないんじゃないだろうか、と思います。
― 高い目標ですよね。
本山 でも目指していかなければいけないと思います。それに対してクラブと選手会と合同で積極的に活動していければと思っています。
― 頑張ってください。ありがとうございました。

本山が地域密着活動を語る。
確かに鹿嶋は人口が少なく動員も少ない。
存在こそ奇跡と呼べるクラブなのである。
その奇跡が存在だけに飽きたらず、スターダムに上り詰め、常勝軍団となり得ておる。
奇跡中の奇跡と言えよう。
更なる奇跡を生み出し続けるべく我等は戦う。
ゴールという一つの奇跡を積み重ねる為に。

ユダ・青木剛代表候補合宿選出

2008年07月23日 | Weblog
日本代表候補メンバーに中田・青木選手が選出
7月28日から30日に行われる日本代表候補トレーニングキャンプメンバーが発表されました。

鹿島アントラーズからは、中田浩二選手・青木剛選手の2選手が選出されました。


もっとも恐れていた現実である。
遂に我等の青木剛が代表候補に選出された。
攻守に絡み、疲れを知らぬ運動量で好調鹿島を支えている屋台骨である。
ここまで選出されなかったことが不思議でならぬ。
とはいえ、この日本代表候補合宿に参加したところで得るものはあるのであろうか。
些か疑問である。
岡田氏の采配には腑に落ちぬことが多く、今回選出基準にも疑問がつきまとう。
しかしながら、ここで耐え、実績を作っておけばいずれ役に立つ日も来よう。
2010南アフリカは遠いが、2014ブラジルに行けるやもしれぬ。
青木はそのとき32歳である。
ボランチとして最も脂ののる時期と言えよう。
更なる成長が見込める。
しかし、その成長は日本代表ではなく鹿島で培われるものである。

平常心で挑め

2008年07月23日 | Weblog
首位鹿島が浦和戦へはやくも実戦練習
 首位鹿島が2位浦和との頂上決戦に燃える。23日の調整は紅白戦形式で実施。27日の浦和戦まで日にちはあったが、通常よりも早く実戦形式の練習を敢行した。浦和との一戦は4月のアウェー戦で0-2と敗戦。それだけにMF本山は「1シーズンに2敗は厳しい」と連敗阻止を誓い、MF青木も「1位対2位という最高の対決。首位を維持する新たな狙いもある」と力強かった。
 [2008年7月23日14時45分]

ニッカンが珍しく鹿島に注目しておる。
弱い相手に2敗は避けねばならぬ。
ここでたたくことに意味もある。
とはいえ、ここで気を引き締め、挑戦者として戦う心構えも必要だと思われる。
変に上位意識を持ち、首位を明け渡したくないという気持ちに陥ることが怖い。
その気持ちをマネージメントして平常心で戦う必要があろう。
単なる34分の1でしかない。
ただの通過点なのである。
我等も通常の試合と同様に声を出して応援したい。
「負けたくない」ではなく、ただ一つ勝利を積み重ねるためだけに。

ユダ、浦和をたたく

2008年07月23日 | Weblog
鹿島首位独走へDF浩二がFW高原止める
 首位に立つ鹿島DF中田浩二(29)が、27日の2位・浦和戦(カシマ)でFW高原を止めて独走態勢に入る。20日の横浜戦でスタメン復帰したばかりで、まだ痛めていた右ひざは完治していない状況。「とにかく今たたいておくのが大事。勝てば勝ち点が離れるわけだし、タカ(高原)を波に乗らせたくないから」。センターバック出場が濃厚で、高原とは何度も試合中にぶつかることになる。ユース時代からの代表仲間を抑え、浦和の息の根を止める

 チームも浦和戦に向け、25日に非公開練習を決めた。欧州で3年半プレーし、鹿島に合流して間もない中田にとって非公開は初めてで「オレはその意味がよく分からない」と言うが、MF青木は「次の試合は大事だという監督からのメッセージ」と話す。オリベイラ体制になった昨季から非公開練習は過去6度実施し、直後の試合は4勝1分け1敗。縁起のいい非公開後の実戦で、中田が高原を止め、チームを勢いづかせる。

 [2008年7月23日6時51分 紙面から]

ユダの左SB起用案は却下となった。
当然の選択であろう。
せっかくの屈強な欧州ボディをセンターラインで起用せねば宝の持ち腐れである。
そのユダであるが、非公開練習の意味がよく分からぬとのこと。
確かに特別な練習を一日程度行っただけですべてがひっくり返るようなことはなかろう。
しかしながら、結果が付いてきているように意味はあるのである。
青木の申す監督からのメッセージがより大きく伝わり、精神面に与える効果は絶大だと言えるのではなかろうか。
少なくとも非公開練習を行った試合は注目度も高く周囲の雑音や選手へのプレッシャーのかかる試合であった。
若い選手が多い鹿島としてはそれをシャットアウトし、集中力が上がったことは事実であったと思う。
ユダのように常人とは異なるメンタリティを持つ男には無意味かもしれぬ。
しかしながら誰もが同じ人間ではないのである。
我等は育成をしながら優勝していくクラブである。
効果の出ている手法は取り入れて勝利しようではないか。

断固反対

2008年07月23日 | Weblog
Jリーグが10年から秋春制に変更を検討
 日本サッカー協会の犬飼基昭会長は22日、Jリーグの開催時期を現行の春から年内までの「春秋シーズン制」から欧州で一般的な秋に開幕して翌年春に閉幕する「秋春シーズン制」に2010年秋から変更する方向で検討していることを明らかにした。

 Jリーグのシーズンを欧州に合わせることは、外国人選手の獲得や日本人選手の海外移籍の面で利点がある。当初は06年をめどに「秋春シーズン制」に移行する方針を01年に固めていたが、積雪地帯にあるクラブの試合会場や練習場の確保、春に卒業する高校生や大学生の受け入れなどでの問題が解決できずに導入が見送られてきた。

 犬飼会長は10年のシーズンを同年7月に閉幕するW杯南アフリカ大会後にスタートさせる意向。「日本協会とJリーグでプロジェクトを組み、かなり進んでいる。問題はたくさんあるが、手はあると思う。解決していけばいい」と話した。

 09年シーズン後からのはざまとなる10年春にトーナメント方式のカップ戦を実施することなども今後検討する。

 [2008年7月22日20時38分]

さっそく犬飼改革!J「秋春制」検討
 日本サッカー協会の犬飼基昭会長(66)は22日、Jリーグ開催時期を欧州で一般的な秋開幕・翌年春閉幕の「秋春シーズン制」に2010年から変更したい意向を示した。「Jリーグのシーズンを欧州に合わせたい。10年で検討を進めている。サッカーは夏にやるものではない。選手も動けないし」と理由を説明した。

 秋開幕に移行すれば、外国人選手の獲得、日本人選手の海外移籍などで利点がある。01年の理事会では06年をめどに移行する方針を固めたが、寒冷地にあるクラブの試合会場や練習場の確保、高校生や大学生の受け入れなどの問題が解決できずに導入が見送られた。犬飼会長は「問題はたくさんあるが、手はあると思う。解決していけばいい」と積極姿勢。10年シーズンは同年のW杯南アフリカ大会後にスタートさせたい考えで、開幕までの期間はカップ戦を実施することなども検討している。

 この問題は現在、Jリーグ将来構想委員会の議題の一つ。Jリーグの鬼武チェアマンは「当初は10年までにできないと思っていた。10年になるのか14年になるのか、やらない方がいいのかも含めて考えていきたい」と話した。

[ 2008年07月23日 ]

Jリーグ2010年から秋開幕へ…犬飼会長明かす
 日本サッカー協会の犬飼基昭会長(66)は22日、Jリーグの開催時期を現行の春から年内までの「春秋シーズン制」から欧州で一般的な秋に開幕して翌年春に閉幕する「秋春シーズン制」に2010年秋から変更する方向で検討していることを明らかにした。当初は06年をめどに「秋春シーズン制」に移行する方針を01年に固めていたが、積雪地帯にあるクラブの試合会場や練習場の確保、春に卒業する高校生や大学生の受け入れなどでの問題が解決できずに導入が見送られてきた。

 犬飼会長は「日本協会とJリーグでプロジェクトを組み、かなり進んでいる。問題はたくさんあるが、手はあると思う。解決していけばいい」と話した。09年シーズン後からのはざまとなる10年春にトーナメント方式のカップ戦を実施することなども今後検討する。

(2008年7月23日06時01分 スポーツ報知)

秋-春開催については2006年11月7日にコメントさせてもらった。
その気持ちは全く変わっておらぬ。
協会会長の強権に屈せず、正義が貫かれますように。

篤人、首位を喜ぶ

2008年07月23日 | Weblog
【U23日本代表合宿】7/22(火)練習後の各選手コメント [ J's GOAL ]
●内田篤人選手(鹿島):
「鹿島が首位に立っているのでうれしい。週末のレッズ戦に出たかったなと思う。楽しみだったんだけど。でも、こっちでがんばってこいと言われた。監督からはケガをするなよと言われた。
今日のミーティングではオリンピックに参加することについてなどの話があった。個人的に疲れはさほど感じていない」


篤人の本音が読み取れる。
クラブの試合が重要なのである。
しかしながら、我等としてももう諦めるしかない。
篤人も腹を括っているであろう。
オリヴェイラ監督と同様に怪我をせずに帰って来てくれるだけでよい。
本当にそう願う。
ところで、不在時の代役は誰になるのであろうか。
先日のサテライトではチューヤンが務めておった。
しかし、効果的な攻め上がりも突破も見られず不安に駆られる。
この試合では笠井健太はMFとして、當間はCBとして起用されておりトップ出場には至らぬと予想される。
更に健太に至っては負傷退場であった。
もう一人の有力な選手・イノパンもCB起用されておった。
ただし、4月5月に篤人の代役で出場した際はリーグ戦にて一度も勝利することが適わず涙したことが記憶に新しい。
昨季の新井場を右にまわして石神を起用するという案もある。
石神が一皮剥けるチャンスである。
また、コンビネーションが確立されているダニーロもスタメンに名を連ねており、悪くない選択である。
最後にユダを左SBで先発させるという道もある。
ただし、これまで一度も試されたことはなく、Fマリノス戦のCB先発起用もフル出場できぬところで起用するには不安が残る。
それ以上にバーゼルにて左SBのレギュラーを務めておったとの触れ込みであるが、実際の映像を見た者は少なく、プレイスタイルが見えてこない。
以前オシムジャパンで左SBでプレイしたが、バランスに気を配ってはおったが、満足できるとは言えなかった。
やはり守備に重点を置く選手なのである。
新井場の上がりに魅了された我等には物足りぬ。
何より、好調な新井場のポジションを動かすことのリスクが大きいと思われる。
試合直前の金曜の練習が非公開となった。
ここで最終決定がなされ、首位攻防戦に向けた選考とテストがなされると思われる。
我等はその決定に従うまでである。
この試合に特別な思いをこめるわけではなく、単に篤人が不在故の布陣なのである。
篤人を不安にさせぬよう、一つ一つ勝って行きたい。

常に聖地へ集え

2008年07月22日 | Weblog
鹿島、27日の浦和戦チケット4万枚完売
2008.7.22 05:00
 27日の大一番、浦和戦(カシマ)のチケット約4万枚が20日までに完売した。当日はスタジアム周辺で交通渋滞が予想されるため、鹿島の公式HPで交通情報を提供する。また、スタジアムに通じる国道51号は片側1車線だったが、25日までに2車線にする工事が完了する見込み。

鹿島VS浦和 首位決戦チケット完売
 今季リーグ戦の行方を占う大一番の入場券が売り切れた。27日にカシマスタジアムで行われる鹿島―浦和戦の前売りチケット4万枚が先週末までに完売。当日券は発売されないことになった。なお、試合当日は潮来インターチェンジおよびスタジアム周辺道路の混雑が予想され、クラブは臨時列車の運行や臨時バスの案内を含む交通情報を公式HPで掲載している。
[ 2008年07月22日 ]

27日浦和戦は完売…鹿島
 鹿島ホームゲームの27日の浦和戦の観戦チケット約4万枚が21日までに完売した。同戦では毎年激しい渋滞が発生することからクラブでは鹿嶋署の要請を受け、公式ホームページで渋滞回避ルートなどを紹介。さらに試合当日までに、スタジアム前の国道51号線を片側2車線に拡張されることが決定した。節目の50回目の浦和戦を前に、万全の準備を施す。当日券は販売されない。
(2008年7月22日06時01分 スポーツ報知)

単に34分の1、聖地開催ということでも17分の1でしかないこの1試合にだけ来る者の多さを嘆く。
過去に遡っても良いプレイを見せるわけでも、特別な試合でもない。
とはいえ、今季はチームも調子が良く、やっているサッカーの質も高い。
この試合で鹿島の魅力に取りつかれ、今後も聖地・カシマスタジアムに足を運ぶようになると信じたい。
観客動員はクラブの力である。
本当にもっともっと多くの試合で聖地に集まるのだ。

サテライトリーグ 水戸ホーリーホック戦

2008年07月21日 | Weblog
前半はFKから失点、マルシーニョがもらったFKでヘディングゴール。
後半はCKのこぼれ球を強烈なミドルで失点、ヤスの目の覚めるようなミドルで同点、怒濤の攻めを見せるも引き分けで試合終了。
ヤスはセットプレイも蹴るので是非トップで見たい。
他のクラブならば10番を背負ってチームを引っ張っているであろう。
小谷野もイケてる。
マルシーニョはこんなものなのかな…

Fマリノス戦報道

2008年07月21日 | Weblog
鹿島岩政が新生CBコンビに手応え/J1
<J1:鹿島2-0横浜>◇第18節◇20日◇日産ス
 鹿島DF岩政が、新生センターバックコンビに手応えを得た。後半2点を追って攻勢に出る横浜守備陣に押し込まれながらも、球際の強さで完封した。「浩二さんと組んだ試合で、結果的にゼロに抑えられてよかった」と話した。

 [2008年7月20日23時1分]

浩二が鹿島復帰初先発で完封導く/J1

ヘディングで横浜FW坂田(手前)と競り合う鹿島DF中田
<J1:鹿島2-0横浜>◇第18節◇20日◇日産ス
 鹿島の中田浩二(29)が、古巣復帰後初先発となった横浜戦で、チームを完封勝利に導いた。MF登録だがセンターバック(CB)に入り、対人の強さと冷静な状況分析で横浜の攻撃を封じ込めた。チーム内の競争を活性化する活躍で、21日の浦和の結果次第では2戦ぶりに首位奪回できる位置につけた。岡田ジャパン初選出も期待される男が、鹿島に追い風を呼んだ。また北京五輪代表の選手にとっては、今節が本番前最後のリーグ戦となった。

 中田はクールに仕事をやり遂げた。2-0の後半9分、ゴール左を突くスルーパスも読み切ってカバリングした。前半に古傷の右ひざを打撲した上、バーゼル所属時の4月6日のスイス杯決勝戦以来の先発で、終盤は体力も限界に。ベンチからの交代打診を素直に受け入れた。

 「疲れている自分が出て1点取られるより元気な剛ちゃん(DF大岩)に代わった方が確実」。04年11月名古屋戦以来1330日ぶりに、鹿島でのリーグ戦に先発した。フル出場したいエゴを捨て、チームの勝利を優先、前節京都に敗れた悪い流れを断ち切った。

 28日からの代表候補合宿を前にアピールできた。J復帰目前の上旬には「せっかく日本に帰ってきたから」。招集が限定される欧州時代と違い、国内組としてのメリットを強調。岡田ジャパンへの選出にも意欲的だ。この日は大熊コーチが視察する中で、完封勝ちの原動力となった。

 チームにもたらした「中田効果」はこの日だけでない。復帰話が持ち上がった06年秋から、約2年続いている。07年1月にはクラブの発行物にも獲得構想が幹部のコメントとして書かれ、当時ボランチで伸び悩んでいた青木は「浩二さんが戻ればポジションはなくなると思う。でも帰ってきた時に経験を分かち合えれば」。刺激を受け、危機感を募らせ、急成長した。そして、中田のボランチ起用構想を白紙に戻させた。その場にいなくても中田の存在が、チームの底上げにつながった。

 中田も競争を受け入れた。「今出ている選手がポジションを取っているわけではない。取ったら譲りたくないという思いもある」。高原、三都主ら欧州からの復帰で苦労する選手も多い中、順応性の高さを示した。「もともといたチームだし、入ることはそうは難しくない」。鹿島にとって、日本サッカー界にとって、頼もしい男が戻ってきた。
【広重竜太郎】
 [2008年7月21日9時21分 紙面から]

鹿島、中田浩効果で暫定首位!
2008.7.21 05:02

ハッスルする鹿島DF内田(左)。中田浩の復活でウカウカしていられない(右は横浜MのFW水沼)【フォト】
 Jリーグ1部(J1)第18節第1日(20日・日産スタジアムほか=6試合)鹿島は横浜Mに2-0で快勝。勝ち点34で暫定首位に立った。DF中田浩二(29)が1330日ぶりにリーグ戦で先発し、完封に貢献。横浜Mはクラブ史上ワーストの6連敗。G大阪は最下位の千葉に1-0で競り勝ち、勝ち点32で暫定3位。柏は東京Vに敗れ、勝ち点29のままで同4位に下がった。前節首位の浦和は21日に川崎と対戦する。

 背番号6がピッチを去ると、敵地のスタジアムから自然と拍手が起こった。スイスリーグ・バーゼルから3年半ぶりに復帰した中田浩が、04年11月28日の名古屋戦(豊田ス)以来、1330日ぶりにJのリーグ戦で先発。再出発を完封で飾った。
 「最低限の仕事はできた。1対1の競り合いも負けなかった。ゼロで抑えられて、いいスタートがきれたと思う」
 横浜Mに何度もチャンスを作られ、そのたびに、最後のところで立ちはだかった。痛めていた右ひざを前半に打撲したこともあって、後半40分に交代。「あそこで1点取られると迷惑をかけるから」。4月6日のスイス杯決勝・ベリンツォナ戦で右ひざを痛め、同8日に右ひざ半月板の手術を受けていた。「3カ月ぶり(の先発)の試合。鹿島で2週間くらい練習はしてたけど、きつかった」はホンネだ。

 それでも、23日に発表される日本代表候補合宿(28-30日、千葉県内)の招集へアピールした。

 チームは16日の京都戦でまさかの敗戦を喫し、連勝が4で止まった。精神面を課題に挙げたオリベイラ監督は不動だったメンバーの入れ替えを決断。チームを奮い立たせるため中田を起用した。

 「いい刺激になっている。相乗効果になるはず」と中田がうなずけば、この試合でチームを離れる北京五輪代表DF内田も「帰ってきてポジションがあるとはかぎらない。本当、笑えない」と頭を抱えるほど。

 「次は浦和。相手にプレッシャーをかける意味でもよかった」。中田の照準は次節27日の浦和戦(カシマ)にピタリ。頂上決戦での活躍は、代表復帰への手みやげには最高だ。
(峯岸弘行)

鹿島アウェーで2発快勝

<横浜M・鹿島>攻め込む鹿島・マルキーニョス。左は横浜・中沢
Photo By 共同

 【横浜0―2鹿島】鹿島が敵地で快勝した。前半11分にマルキーニョスの鋭いミドルシュートで先制し、同29分にはマルキーニョスの左クロスから興梠がDFをかわして追加点を奪った。横浜Mは兵藤、山瀬功らが好機を生かせず無得点に終わった。
[ 2008年07月20日 22:14 ]

鹿島快勝!暫定首位で次節天王山に弾み

<横浜・鹿島>岩政とセンターバックを組んだ鹿島・中田浩(中)は水沼(右)と競り合う
Photo By スポニチ

 【鹿島2-0横浜】鹿島が次節の天王山に弾みを付ける勝利を収めた。DF中田がDF岩政とセンターバックでコンビを組み、1330日ぶりとなるリーグ戦先発。公式戦出場も3カ月ぶりだったが、ブランクを感じさせないプレーでチームの4試合ぶりの完封勝利に貢献し「1対1でも競り合いでも負けてなかったと思う。いいスタートが切れた」と納得の表情をのぞかせた。

 4連勝で迎えた16日の京都戦で敗戦。オリヴェイラ監督は初めて、主力3人を交代して臨んだ。「選手全員が危機感を感じた」とMF青木。五輪代表を落選したFW興梠が今季3戦目の先発でゴールを決めるなど、効果を発揮した。後半20分にはブラジル人新助っ人のMFマルシーニョもJデビュー。暫定首位に浮上した鹿島が、27日の浦和との頂上決戦へ、万全の態勢を整えた。

[ 2008年07月21日 ]

中田復帰で鹿島最奪取…J1第18節

前半16分、頭で競り合う鹿島・中田(左)と横浜M・水沼
 ◆J1第18節第1日 横浜M0―2鹿島(20日・日産ス) 実りの秋へ、重みのある勝ち点3を手にした。前半11分、得点ランク1位のFWマルキーニョスが今季12得点目となる約30メートルのロングシュートで先制点をたたき出すと、12試合連続無得点のFW田代に代わって、先発したFW興梠が前半29分に追加点。守ってはシュート通さない守備で完封し、暫定首位に浮上した。

 前節京都戦(16日)で敗れ、オリヴェイラ監督は就任後最多となる先発3人を入れ替えた。バーゼルから復帰したDF中田が1330日ぶりに先発出場。さらに、MF野沢に代えてMFダニーロを送り出した。闘志なき敗戦から4日。MF小笠原の「気持ちを入れ替えてもう一回やろう」という呼びかけに、攻守で激しいプレーをみせ、横浜Mを退けた。

 9月からはアジア・チャンピオンズリーグ、ナビスコ杯、リーグ戦と3大会を戦う可能性がある。ベンチを含めたチーム力アップが鍵を握るが、この3人を含めたベンチ組がトップと変わらない力を示した。この試合を最後に、五輪代表でチームを抜けるDF内田も「ポジションがなくなる心配」と話す。目標の全タイトル獲得へ、地盤が固まった。

(2008年7月21日06時01分 スポーツ報知)

スポーツ紙はユダ一色である。
まるでユダが篤人のポジションを奪うかのような書き方でさえある。
しかしながら、ユダは大岩とイノパンに差を付けたようには見えなかった。
と言うよりも積極的に上がった開幕戦のイノパンの方が高評価である。
むしろスタメンを試された3選手の中では興梠が出色だったのでは無かろうか。
得点という結果も当然ながら、ダニーロの強烈なFKに詰めており、常にゴールを狙う姿勢が伺えた。
納得のスタメン奪取フル出場である。
後半戦のキーマンはユダではなく慎三であると言えよう