STAP現象について書いていく前に、述べておきたいことがあります。
科学論文とは何か?ということです。
今回の会見のあと「O氏はいじめられてかわいそうだ。専門家は難癖ばかりつけておかしい。」という意見が世間一般にあることを知りました。これは日本の科学リテラシーの問題です。かなり危機感を持ったため、まず科学論文とはどのようなもので、科学者の世界とはどういうものであるのかを説明しようと思いました。
科学論文とは
「ある仮説が、現在の技術レベルと科学的考察において正しいと結論できるだけの必要十分な証拠(実験結果)を示し、仮説が正しいことを証明したと述べる文書」
のことです。
単に「ある現象の可能性を論述する」ものではありません。
そして科学者は論文を提出しますと必ず沢山の批判に晒されます。
まずは論文の査読者(レビューアー)から
「これこれを主張するならこういう実験はしたのか?実験結果をいついつまでに送れ。」
などという要求があります。そこでわれわれは必死で期限までに追加実験をし、結果を論文に含め、書き直しをします。もしも批判を受けて行った実験結果が仮説に反するものであればその時点で論文の結論は否定されることになり、投稿した論文は却下(リジェクト)されます。
そのようなやり取りをへてレビューアーがOKをだしますと、やっと論文は採択(アクセプト)されます。
このような過程は博士論文の提出時にもあります。論文を審査の教授や助教授に提出し、その後ご意見を伺いに行きます。その時点で実験方法や結果についてかなり突っ込まれます。私の時は副査の教授に立ちっぱなしで3時間くらい説明したおぼえがあります。なかなか博士論文を通さない先生だと有名な方で、大分緊張しました。それはさておき、論文の話しでした。
さて、アクセプトされた論文はいよいよ出版され、公表されることになりますが、ここでまた多くの批判的意見がでてきます。それらの批判で重要な指摘があれば、有り難く頂戴し、さらに追加の実験を行い、自分の仮説の正しさをさらに盤石なものにするべく研究をすすめます。それらをまとめて次の論文にし、さらに仮説を先へ進めることを考えます。
このように論文には必ず批判がつきものですし、それがあるからこそ科学的事実は論文発表の後も磨かれ、より正しい結論、正しい理解へと近づくことができるとわれわれは考えています。したがって、発表された論文やデータに対する批判的意見というのは当然のことであり、なんらおかしいことではありません。それも正当な科学的活動の一部です。無視されるよりも余程良いことです。それだけ科学的インパクトのあるテーマであったことの証左ですから。
今回専門家がかなり厳しい意見を公表しているため、一般社会の方々の目には「いじめ」のように映るのでしょうか。しかし、私が目にした専門家の論考は厳しいものであってもどれも正当であり、当然の批判でした。それを受けて立ち、しっかりとした実験結果を示してこそ、きちんとした研究者です。何の実験結果も示さず、自分の仮説は正しい、とだけ主張しても科学コミュニティーは認めません。
実験結果が示せない、ということは、その時点では仮説はまだ仮説に留まる、ということです。つまり、論文は撤回されるべきなのです。しかし、それは仮説が否定されたことではありません。O氏が「否定されてしまう。」と訴えていましたが、専門家はそのようなことは言っていません。仮説に留まっている、と言っているのです。
今回の論文に関する事件の問題点のひとつは、Natureのレビューがあまりにずさんであったことでしょう。図のすり替えや、画像の編集といった、現在不正かどうかという議論の対象になっている点はさておき、それら全ての画像が正しかったとしても、疑義が生じるような論文であったからです。かなりの程度S氏の名前がものを言った可能性があります。つまり、S氏が入っているんだから、この論文は大丈夫だろう、という油断です。その点は私もまったくそうであったため、猛省しております。
漏れ聞くところによるとNature論文が公表された直後に、さる免疫学大家のH先生は「こんなPCRでは証明になってない。全然だめだ。」と言われていたそうです。先に書いたT細胞レセプターの組換えを検出したとするPCRの結果のことを批判しておられました。あの図が切り貼りではなかったとしても、不十分であったのです。それをNatureの査読者は見逃していたわけで、Natureもしっかりとこの点を検証するべきだと思います。