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社会が障害児を受け入れる自覚

自分の子供が障害児であることを受け入れられないというのはよくあると思う。それを個人の自己責任として処理するのは非常に残酷な社会である。

自閉症になったのは私のせいだと責められます~発言小町

このトピ主は自分の子供への愛に満ち溢れていて彼女が不幸だと述べたいのではない。逆に母親は障害に関わらずご子息を受け入れている。問題は配偶者、義両親、実両親からも受け入れられていないことである。姥捨て山という昔話があるが障害児も過去はこの対象であったと考えられるかもしれない、居てはいけない子扱いという意味で。私の親族にも障害者がいるが昔は「隠そう」という気満々であった。生まれてきてはいけない子扱いなのだ。これを母親の愛情だけに頼るのはすごく危険である。

この手の問題でいくつかの選択肢がある。ひとつは殺すことである、経済合理性にそぐわないので行政の助けが無ければ母親はパートに出ることもできない。私は学生時代に子ども会サークルみたいな奴に所属したことがあり、自閉症の子どもと付き合いがあった。コミュニケーションが全くとれず、家族の大変さを理解した。その妹に話を聞くと「家はお兄ちゃんで回っている」とのことで理解できるし、母親を取られた恨みみたいなモノがあると感じた。
子ども会・サークルに子どもを引っ張ってくるのはある種のエスタブリッシュ層というかインテリ層だと思う。子どもを隠すことなく晒し、彼の社会性への多少の助けになるのであればとのことであろう。障害児と言う隠すといろいろな悩みや負担が母親にかかるのは理解できる。無償の愛を子どもに掛けられない性格・経済状況の母親も居ることであろう。
重ねて述べるがそういった会合に障害児である子息を連れて来れるのは、経済的に恵まれている人であるということ。経済的に恵まれていなくても勉強した人であることは間違いない。

話は脱線するが、養護学級と一般学級を行き来した特に原因がない子ども(いわゆる知恵遅れ)を見たことがあった。彼女は勉強が楽しくない一般学級が好きでなかったが、親は一般学級定着を望んでいたようだ、彼女はそれが負担だと感じた。でも一般学級に好きな男の子が居るので悪くないという感じ。彼女の一般学級での授業態度はそれは好ましくなく、いわゆる「荒れる学級」的な感じだったらしい。何かに捉われたらそれを解決しないと気が済まないという感じであった。お母さんも論理的には普通学級に押し込むことの独善を感じていて、じゃぁ彼女の幸せはどうやって築けばいいのかという漠然とした不安があるようであった。障害児レッテルが貼られる不幸を心配したのであろう。頭が悪い女子と障害児の差は大きい。

最近は電車で障害者をよく見る、少なくとも隠すという思想はなくなったのであろう、ところが当時は障害児を抱える不安は家族にのみ責任付けられていた気がする。最近はどうなんでしょう。社会で障害者を見る機会が増えて良い世の中になりつつあると感じる。そういえば最近、クレーム品の選別に立ち会ったのだが、障害者が結構居て、なんか幸せになった。彼らは指示したことは真面目に行う特性があることが多いので安心できるし、そのかわり製品への傷つけにたいする配慮が無いのでまぁそこは細かに指導することになるのだが。

Linkの旦那や家族は古いといえば古い。しかし大変なのも事実。覚悟を決めて愛する選択をした母親は迷いは無いであろう、しかし迷う人がいるという事実こそを社会が理解する必要があると思う。
誤解があっては拙いんだけど、覚悟を決めた母親はある意味心配でない。努力をし過ぎてしまう心配は大いにありうる。

結論じみたもの。
家族に障害者が生まれたことへの覚悟を持てない家族へ「自己責任」を求める社会はちょっとありえないと思う。不幸なのは無償の愛を理解できない周りであり、配偶者である。

さらにであるがその弱音を吐けないということに違和感というか変な感触を感じる。
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