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「戦争の悲惨さ」についての違和感

尖閣諸島での中国漁船拿捕への中国の強硬な姿勢に「戦争やむなし」と言う雰囲気が少しあった気がする。
これは『戦争』というか小競り合いを容認しないと交渉が上手く行かないという心配であり、小競り合いで済むという見通しであり、被害は最低限で済むというか、その被害を覚悟しないと交渉がスムーズに行かないということなのであろう。
この論にはかなりの違和感を感じるがそう考えているひとが少なくないということではないか。

一方、非武装中立を論じる人も居る。どうも実質的には非武装でもないに関わらず喧嘩を売られているわけで、まぁ普通に考えると説得力が無い。

この乖離は埋め難い。その理由の大部分を想像できるのは「旧海軍・陸軍が無茶苦茶だった」と言うことであろう。戦争は悲惨とは別の悲惨が存在したことは事実であろう、

戦争大嫌い派は陸軍・海軍がどうしようもなく馬鹿で腐った組織であることが普遍的だとしていると思う。捕虜よりも自滅としゃあしゃあと言い、実際として軍が沖縄住民に自滅を強要したかは分からないが、そういう雰囲気を醸成していたことを否定するのは難しいであろう。明治期から兵を浪費するという伝統もある。特攻という狂ったシステムは狂気(馬鹿)の本質だ。可能性がいくら低くても国のためには戦えるが「帰れない」というシステムは現代軍事学から言えばありえないのも事実。

その有り得ない普通の軍事→例えば兵士の命を大事にするシステムが普通であるというのが保守派の言い分であろう。

特攻や玉砕をイメージした左派と、兵士の生命を安く見積もらない現代戦を是とする右派では前提が違うので相交わらない。

 

戦争の悲惨さをあるヒーローを軸に描いた『永遠のゼロ』を読むと戦争の悲惨さと、旧日帝軍の馬鹿さを分けて考えることができる。(戦争は終わらせること自体が難しいらしいが旧海軍はビジョンが無かったに違いない。)それ以上の馬鹿さ加減を記している。司馬も坂の上の雲で乃木の無能さをこれでもかとこき下ろしたがそのままの悪習を受け継いだ、伊藤や児玉が苦悩した「戦争の本質」は受け継がれず。量数の計算を精神性に置き換えれば負けて当たり前である。しかも負け方も悲惨(馬鹿)だった。

なので右派と左派の論理が交わらないのは、旧日帝軍の馬鹿さ加減をどう織り込むかどうかなのである。アレは馬鹿だったのかと断罪するのかあれは仕方が無いと受け入れるかということ。この論理で言うと左派は旧日帝軍を是として、右派は「あの馬鹿」というスタンスだといえる。

あれっ?日帝好きの左派と日帝嫌いの右派との対決?たぶんそれで正しい。左派の言う戦争は精神で行うから不幸という主張は旧日帝を是とするからそのような主張が起こるわけであり、誤解を恐れずに言えば戦争が嫌いな余り、古く偏った固定概念を信奉しているといえる。(左派が原理的には過激であったのに比べ)古く間違った思想から開放された右派が強硬でなく温厚なのは当然であろう。

 

結論じみたもの。戦争は悲惨だ、旧日帝は馬鹿だ。そしてそこには相関は無い。
戦争が悲惨なのは独・英仏戦とかみればその通りなのだけど、日本人は旧日帝軍の馬鹿で無駄でどうしようもないことを織り込んでいる気がする。

前提が個々で異なるので戦争に対する感情というか前提が異なるという印象がある。

 

追記)
戦争が悲惨であるというか被害があることは否定できない。左派が「戦争の悲惨さ」を述べる場合、旧日帝の特殊性を除外したことを論じるべきである。または自衛隊に旧日帝の伝統が生き残っていることを示唆すべきである。

右派はロシア・中国から領土を削られることの不利を定量化すべきである。投資すべき血の値段を概算し、被る被害との差分を計算すべきである。「尖閣諸島が実効支配されれば日本にとって著しい被害がある」というのであれば、その著しい被害を概算すべきである。値段が無い投資は馬鹿がやることである。

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