孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

気楽さを手っ取り早く味わえるのが不完全意識の人間関係を気にしないことです。

2013年07月21日 | Weblog
多くの他力を使わずに然るに頼らずに、そこで多くの自力を使う事にして、そして此れまで学び知った精神世界の真実からして自信を持ち、然るに無理無駄余計な事をしない楽チンでもって生きていれば当然ながら欲張ることもなくなり、然るに欲が出なければ良いとこ取りするための良い悪いで判断するその必要性もなくなります。

そうなれば良い悪いで判断しての自己満足も不平不満も出てこなくなりますから、当然ながらその苦楽&喜怒哀楽で生きることにはなりません。
然るに穏やかな精神でもって安心安全の心持でして然るに執着する事無く今を生きることになります。
然るに楽に生きることは人間本来の中に元からして持っていることですし、然るに性別年齢に関係なくやる気になれば誰でもが実践出来ます。

ところが世間一般的には「楽に」なることが如何にも損な立場に思えるところがありますから、だからイメージ的には負け組み&落ちこぼれ&日陰人生に思われます。
だから楽に生きたい本心を隠して頑張っているのです。

しかも見栄や世間体&プライド自尊心が邪魔をするし、頑張ることが正しいの集合意識からしても負い目があり、然るに身近な人達からさえも不評を買うことになりますから、然るに実践したくても実践できないようです。

然るに完全真理が説くところの良い悪いで判断しないその実践や欲張らないで執着しないことが実践できないのとは違いますから、然るにやる気になれば誰もが実践できるのに自分の都合からして実践しないのです。
それは何でか、すなわちカッコ悪いのです。

然るにその内なる実践が出来ないでいるのに、また誰もが実践できることを実践しないでいるのに、ところが如何にも実践をしているが如くに見せかけている形があるのは、
然るに己が特別に目立つ存在&存在感を示すことが出来るそのカッコ良さに自惚れ満足しているところがあり、しかもそれが病みつきになっている人も大勢いるようです。

ところで楽に生きる実践をすることは苦労から開放されて生活が楽になるのとは趣が違います。

然るに見栄や世間体のプライドを気にしない、
然るにカッコを気にしない、
然るに常識や伝統や風習や道徳を気にしない、
然るに不完全意識の人間関係を気にしない、

価値観で味わうのではなくしてその真価&価値を味わう。
思い思惑&理想目的の期待(期待感)を持たない。
然るに楽するために他力に頼るのではなくして、自力を惜しみなく使うことで自力と自信の精神力を高める。
然るに束縛制限されない関係と否定反発の無い自由意識からして気楽に生きる。

だから、ずる賢く横着にして楽になることでも、また病気や怪我や老衰で身動きできないでいるその楽さ加減でもありません。
然るに身体的な楽よりも内面の喜怒哀楽で精神体や感情体を酷使しないその気楽さにあります。

その気楽さを手っ取り早く味わえるのが不完全意識の人間関係を気にしないことです。
然るに人間関係から開放された自由が必要です。

また精神世界を学び知ったことからして何らかの結果を出すことではなくして、その原因意識&自らの意識の有り様に気付くことが本来の精神世界でありそれが人間の役割使命です。

だから結果を出すために余計なことに無理してそれを無駄にすることのない然るに楽チンでもって生きながらにして、その心意識の余裕からして何かと気付くことになればいいのです。

欲が出なければ良い悪いで判断することにはなりません。

2013年07月20日 | Weblog
良い悪いで判断しなければ云々が完全真理ですが、然るに何で良い悪いで判断するのか、然るに「良いとこ取り」したがるその<欲>があるからです。
だから不完全意識の原因は良い悪いで判断することになるその大元の<欲>からして不完全意識が出るのです。

だから良い悪いで判断することをやめることが先ではなくして、然るに欲を出さないようになればいいのです。
然るに欲が出なければ良い悪いで判断することにはなりません。

何か鶏が先か卵が先かの類になりますが、然るに完全真理は近年のことですが、然るに欲を出さないことが言われていたのは昔からです。
しかし<実践>できないのです。

然るに皆が欲を持っているのにそこで完全真理を説いても無駄になるのも当たり前です。
※完全真理は見えない世界の真実事実を学び知りたい人には絶対的に必要です。

然るに釈迦やイエスもその欲を断ち切ることが出来なかったのです。
然るに釈迦が骨と皮だけになるほど修行したのも欲から脱するためだったと思います。

然るに(欲だけは)幾ら修行しても無駄だと弟子たちに言い残しているようですが、然るにその修行さえも欲絡みだったことには気付いていなかったようです。

となると同じような人並みはずれた能力を持つ山田耕栄さんも伊勢白山道なる者も自らに欲があることに既に気付いているはずです。
だったらその欲を出さない生き方に自らして方向転換するのが常道だと私は思います。

然るに(イエスや釈迦も含めて)(私が思うには)目的に向かって動き出した船を止めたり元に戻すことがどうやら勿体無い&惜しいのです。
そこで「私は正しい」として(自惚れ慢心&言い訳正当化&誤魔化しながら)続けることになっていると思われます。

然るに釈迦やイエスや伊勢白山道の神仏霊魂の世界や耕栄さんやファバラも必然ですから否定反発していません。
然るに欲絡みの祈る願うその意識にもエネルギーがありますから、然るに念力でスプーンが曲がったり時計の針を早回しや逆回しが出来るように、然るに意識エネルギーのファバラも同様にして何らかの変化効果結果が出ることがあります。

然るに神懸り奇跡の超能力でもって客寄せパンダの如くにして人を集めることも然るに見えない精神世界の扉を開く一押しきっかけのためには必然です。

そして多くの人を集めたものの然るに欲張らないことを前面に出しそれを基本にして説教しても誰も実践できません。
まして教祖指導者先生が自らして欲を出さないようにすれば集る人もいないだろうし(悟り説教や優れた能力や摩訶不思議を語り見せられないし)(世間に目立つ存在でいられないから)、
然るに自らに欲があることを正直に言えばそれが不信感となって人が離れていくかもしれないことからして必然的に欲を隠し続けることになると思います。

とにかくここで欲に関することを何度書いてもしかたありません。
要するに「欲」について自問自答するしかありません。
そして自らが答えを出すしかありません。

然るに欲を隠して生きるのも無理がありますが、
その欲を出さないでいられる楽チンな生き方なら誰にでも実践出来ます。

ところが何でか楽チンに生きる実践をしたがらないのは何故でしょうか、何か心当たりがあるならば、ぜひ教えてください。

単純簡単シンプル&素朴楽チンにして自由に生きる中に人間本来の生き方があります。

2013年07月19日 | Weblog
人間は良い悪い、然るに善悪損得優劣で判断します。
然るに私は精神世界を意識しているだけに金銭物質よりも精神面での損得で判断することが多くなります。
然るに気にし過ぎて執着すると精神が疲れて損しますから然るに執着しない、然るに気にしないことにしています。

然るに平穏だと精神的には楽をして(言い換えれば得をして)いる事になります。
そしてその居心地のよさからして、いつの間にやら執着しない、気にしないのが定着してきましたし、
然るに気にしていることがあればその事にすばやく気付けるようにもなりましたから、然るに精神的に損をすることになる執着拘りがなくなり、更にすぐに忘れることが出来るようになりました。

ちなみに気にしていたことが良かった結果になったことが事実にあったでしょうか、
然るに病気を気にしていたらその病気にならずに済むのでしょうか、

然るに転ばないように気をつけて歩いていても一秒足らずの油断でつまずく事がありますし、上から物が落ちてくることもあります。
然るに心配し気をつけていても有事が起こる事もあるのです。

然るに有事が起きるやら起きないやら判らないのに、然るに前もって心配し気を使いますとその分だけ精神的に損しています。

ところがその前もって損をすることをしていればそれがやがて得になることがあるかもしれないと(信じて)、然るに「損をして得を取れ」的な感覚、また善を成してその見返りを期待するような、そんな裏心&欲絡みが潜んでいるのかもしれません。
ゆえに心配&気にしていた(負担していた)ことを(貸借関係があるが如くに)相手に伝えたがります。

ちなみに損する前から精神的な負担&損をするのは馬鹿げたことになります。
しかも身近な人を心配し気にしていることがその相手に不自由&迷惑&精神負担をかけることにもなります。

しかしそれが善良最善だと錯覚し自惚れていると然るに私は正しいの意識からして心配し気にしていることは相手に善なる行為行動をしているとして自惚れ錯覚するのです。

然るに人間には得手勝手な矛盾する思いを持っていますから、然るに心配され気にされていることが嬉しいときもあればそれが煩わしく迷惑だと思うときもあり、然るにほっとかれると薄情だの不親切だと不満に思うこともあります。

然るにそんな不完全意識の得手勝手な人間関係の中で暮らすことに違和感や虚しさを持っていたことからして、然るに必然のご縁で仕組まれ続けている内にいつの間にやら過疎地での単身暮らしになったのは間違いありません。

尚それだけに世間的な人間関係から開放された自由の真価価値が十分味わえています。

然るに金銭物質やプライドや事を成す結果で生きるよりも、単純簡単シンプル楽チンにして自由に生きる中に人間本来の生き方を見い出したのです。

そして残るは否定反発&束縛制限のない自由な人間関係が構築されることです。

この世に偶然はなくして、然るに意識が原因にしてその必然のご縁が「仕組まれ」ます。

2013年07月18日 | Weblog
この世にはすべての結果形が実在していますから、然るに偶然ではなくして成るようになった必然のご縁になります。
然るに病気や事故や怪我や死もこの世に元からしてありますから、意識が原因からして必然ご縁が仕組まれれば、然るにそれらが結果となって現われ出ます。
然るにしてこの世は一寸先が闇と言われるわけです。

だから私が完全真理にご縁があったのも、それ以前から耕栄さんが完全真理を説いていたからこそ(基が有ったからこそ)そのご縁が娘にあり、その娘が縁からして私に縁がつながったわけです。

またそれ以前の宇宙的霊能者と私がご縁があったのも、その霊能者を知る者が私に縁があり、然るにその人の縁が私につながったわけですが、
然るに霊能者を知る者と私にご縁が起きたのは宇宙エネルギーの水がご縁です。
然るにその霊能者が宇宙エネルギーの水に関心がなければ然るに私とのご縁もないままに終わったことでしょう。

然るに私が宇宙エネルギーの水にご縁があったのも、私が摩訶不思議な力&効果効用&奇跡現象に興味があったからですし、しかも信じるか否かの不信感がなかったから(不信感が邪魔しないから)然るにその成り行きからしてご縁があったわけです。

然るに何事であってもそれを意識し合った者同士が必然ご縁で仕組まれるわけですが、しかし好き嫌いや選り好み損得勘定や出会ってもいないその不信感からして、そのご縁を逃がしている人も大勢いるでしょう。
だから「来るものは拒まず去るものは追わず」の自然体&成り行き任せ&必然ご縁が言われるわけです。

然るに成り行き任せで、然るに不信感もなく、然るに否定反発もなく、然るに自らが縁を拒んだり断ち切ったりしなかったから、その腐れ縁が如きからして廻り回って予想だにしなかった過疎地暮らしになったり、また摩訶不思議の効果効用からしていつの間にやら精神世界&霊魂&想念の世界&完全真理にご縁があったわけです。
然るに縁があったから成るようになり、成らなかったことは始まりからして無かったのです。

そしてこのブログからして未だに(腐れ縁が如くに)ご縁が続いている人もいることでしょうし、そのご縁を如何に活かすかはその人の意識次第でどうにでもなります。

然るに結果を求める実践意識ではなくして、然るに己の原因意識に気付き知りたがるその意識でしての実践意識を持ち続けていれば、然るにその意識が原因のその結果が仕組まれて必然のご縁があったり、また自らの精神意識に更なる気付が起こることでしょう。

然るにその気付きが精神世界の基本です。
然るに結果は一時ですが、気付きの元となる原因の精神意識はそのままに(持ったままに)永遠に続きます。

このブログを開設して今日で2000日になり、投稿文は926件になりました。

2013年07月17日 | Weblog
若かりし頃の私が知る精神世界は(総天然色映画と言われていた)オールカラーの洋画で観たものからでした。
然るにそれが「天地創造」「アダムとイブ」「ノアの箱舟」「十戒」や然るに題名は忘れましたが釈迦やイエスが登場する類の映画であり、中には世界中の風習奇習を撮影した「知られざる世界」や宗教が係わる革命改革弾圧などの結末てん末を映像ドラマ化したものでした。

然るに和製では古事記に登場する神々を描いたものや聖徳太子や弘法大師を映画化したのや丹波哲郎の「人間死んだらどうなるの」などを覚えています。
然るに精神世界&宗教の世界の専門著書を読んだこともなく、ましてそれらの講演会にも無縁でした。

しかしこのブログを立ち上げて今日で2000日になるのに未だに書き続けていますが、その書き込みも926件になります。
然るにこのブログ以前は宇宙エネルギーがありその次に霊魂&想念の世界を書いていました。

そこで省みると初期の頃は完全真理の基本が主体になり、しかし実践が無理からして自己縮小が言われるようになり、そこで水を得た魚のように上り調子になり、しかし自己縮小が誰にも無理となりだすと精神世界が中途半端でしかもお粗末過ぎるように思えはじめ、それを意識して書いている内にいつの間にやら精神世界が有って無いような薄っぺらになり、

然るに中途半端ながらも単純明解な言葉で十分になり、そこで「執着」しない、然るに「気にしない」でほっとく、然るに「欲張らない」で、然るに「楽に生きる」と書いています。

それを言い換えると精神世界は至極簡単な話でOKなのに、それでは納得確信できなからと専門的に深く掘り下げるもしかし結果的には実践できないことになり、となると内なる実践よりも結果が見える、然るに結果を期待させることに趣がいき、然るに内なる実践よりも結果主義になり、それで何とか誤魔化し続ける事で、然るに創設者&立ち上げた輩やその組織団体に係わる者たちっを目立ちさせながらもその生活を守ること(飯の種)になっているのです。

それを裏返せば、精神世界を複雑怪奇に誤魔化して利を得る輩が得をすることになっているのです。

しかしそれには損する人がいなければ成り立ちませんから、然るに精神世界に操られ踊らされている信者が損をすることで帳尻が合うのです。
そしてその信者が多く集まるほどに更に拡大できるわけです。

そんな事とは知らずにして祈り願い、信じて頼り、その思い思惑に期待を寄せ、然るに崇め奉りまた憧れを抱く輩がその損を抱きかかえることになるのです。

そんなお粗末な精神世界から離れ、然るに自力でもってして己の精神を磨くしか他に術はありません。
それには先程に書いた簡単で明解な「楽に生きる」ことからして真の精神世界を見い出し、それを更に見極めながらの独自で歩けばその本物に近づいていくと思っています。

然るに他に名案&方法があれば私に教えてください。

ちなみに私はこの世の不完全な形やその人間関係を否定反発していません。
然るに様々なことを学び知るためには必然として書いています。
そして私が正しいとも書いていません。

然るに私が見落としている事やまだ知らないことがあるかもしれませんから、こうして参考意見を求めています。

「捨てる神あれば拾う神あり」「失う時あれば得る時もある」その必然のご縁の<仕組み>がある。

2013年07月16日 | Weblog
この世に矛盾があるだけに、然るに「捨てる神あれば拾う神あり」「失う時あれば得る時もある」然るに「成るようになる」その必然のご縁の<仕組み>があります。

しかし「執着」していれば、然るに捨て損、失い損になり、それに拘ることになります。
然るに執着し拘り続けますから、それからして新たな展望進展は望めません。

然るに貧乏になればそれを素直に味わうことで、然るに今までに味わったことがない新たな精神意識の有り様を味わっていることに目覚め気付きます。
そこで金銭物質&結果形ではなくして自らの意識&想念でして生きていることを実感でもって悟ります。

然るに結果ではなくしてその原因となる意識で人間生きていることを悟ります。
しかし金銭物質&プライドや肩書きに執着していればその気付きは起きません。

然るに執着することは「今を生きる」その精神意識で生きることにはなりません。
だから失うことを恐れて守っている限りにおいて、然るに新たな気付き&新たな意識&新たな形で生きることにはなりません。

ちなみに私は若いときから目新しいことが大好きな新物喰いの性格からして常に新しいことを目がけて取り組んでいましたから、当然ながらそれ以前のものは自然消滅していきますから、その形跡残骸だけが残りました。

然るにそれが実績面や収益面で失い損することでもそれが勿体無いとは思いませんでした、何たって新たな事に集中熱中できる喜び楽しさがあったからです。

然るに摩訶不思議な宇宙エネルギーからしてご縁があった神仏霊魂の世界&想念の世界を意識しだすとその宇宙エネルギーから離れることになり、然るに新たに完全真理にご縁が出来たころには霊魂の世界&想念の世界から離れることになり、然るにその時は既に新たな生き方として家族と離れた過疎地でもって単身暮らしが始まっていました。

然るにそれが13年ほど続いているのにそれ以降は(種が尽きたのか)目新しい新物が仕組まれません。
しかし信じていなかったUFOの来訪?現象や庭先に小さな発光(物体)飛来現象やの異次元現象や二度と観ることがない至極まれな自然現象や驚異的生物生態を観ることができました。

そして自然体&成り行き任せ&自己縮小&執着せず&気にせず&自力と自信の精神力でもってして素朴で楽に生きることを味わっているだけに、
然るに残るは否定反発&束縛制限し合わない人間関係のご縁があり、その人間関係を気楽で然るに楽しく過ごせる事になれば、然るに新たな人間関係での自由な生き方が実現した事になります。

しかし残る人生でそれが実現することは先ず無理だと思っていますが、
然るにその新たな人間関係を必然とするその意識になっていますから、その意識が原因からして必然のご縁が仕組まれるかもしれませんので、それまで待つことにしています。

何も持たない凡人や貧乏人ほど楽に生きることが出来るようです。

2013年07月15日 | Weblog
世間一般的に言えば(意識が原因の結果の世界だけに)人生一度歩き出したら真坂の有事が起きない限り概ねにしてその方向性はあまり変わりません。
然るに欲を出しすぎるとそれが原因からして波乱万丈の人生にもなります。

ところが私は真坂の有事が起きたわけでもありませんし、欲を出しすぎたわけでもありませんが、成り行きからして賑やかに生きていたのをやめて過疎地で一人静かに暮らすことになりましたが、まさに予想だにしていなかった逆転の人生ともいえる形になっています。

それでもって過去の華やかな苦楽を伴う浮き足立った生き方が無理無駄で余計なことだったと実感で悟りましたし、
然るに今の何事も気にしない(執着しない)呑気気楽の楽チンな生き様が精神の安心安全につながり、然るにそれでもって地に足が付いた人間らしさを味わえているのです。

すなわちこの世の金銭物質&結果を気にして生きるのではなくて、その元(原因)となる心&精神&意識でもってして然るに平穏に生きることを実感し悟ったわけです。
然るに食って寝て糞をして生きている中で自らが独自独歩でもってして人間の本質を見い出しているのです。

ところで去年の年末に山の水が突然来なくなり、そこで近場の大型温泉施設の入浴年間パスを牛舎のオーナーの半額負担でもって購入したその正月明けに再び山の水が来るようになったので、然るに私にすれば「仕組まれた」ことになるのですが、
ちなみに朝の給餌で汗まみれになった体を帰り道の近場の大型温泉で洗い流しその場で衣服を着替え、そのサッパリしたままに帰宅し然るに暑さしらづの山の中で過ごし、夕方の二回目の給餌後も温泉場で汗を洗い流し着替えをしてから涼しい我家へ帰宅するその繰り返しをしています。

然るに何の得も損も無いような平凡な暮らしの中で(突如にして)必然の水が縁で仕組まれて、然るに今年の正月からは(去年までとは違って)思い願い期待したわけでもないのに(仕組まれて)然るに(貧乏人が)(身近な所で)温泉三昧が味わえるようになったことは(特に夏場は)その一日の大半を(意識面でもって)得していることになります。

然るに成り行きからして仕組まれ続け、それが金銭物質的には下降する事になりましたから、然るにそれが損な結果かと思いきや予想だにしていなかった呑気気楽な田舎暮らしや、また誰かが真似したくても無理な温泉三昧が格安で身近に出来るようになって、然るに私には都合がいい結果になるだけに、
ゆえに前もって思い思惑&求め期待する事も無く、また思い願いが叶ったわけでも超能力者に頼ったわけでもなく、然るに奇跡が起きたわけでもなく、ただ生きているだけでも(欲張らなくても)(必然のご縁からして)何がしの意識精神での利得が得られるものだと(形ではなくして意識にあると)悟ったようになっています。

然るに逆転の人生があっても、それはそれでまた別な生き方が味わえことも知りました。
それゆえに真坂の有事でどんでん返しの人生になることを(前もって)心配することにもなりません。

然るに何とかして生きてさえいれば(結果を求めなくても)それで何とかなっていくのです。
然るに「結果」じゃなくして(気にしないで)その原因となる心身の健全健康を意識して生きていれば(執着しなければ)何とかなりながらも己の気付きからして大丈夫になるのです。

然るに結果じゃなくして、その結果からして己の原因意識&精神に気付くことが本来の精神世界であり、然るにそれが人間本来の生き方&使命役割なのです。

然るにそれ以外の形は(学ぶための必然ながらも)邪な欲絡みの(結果に執着した)(他力絡みの)横道・脇道・回り道の邪道になり、然るに無理無駄余計なことをしたままで人間を終えることになります。

過去未来の仮想の世界&仮想空間で生きているから「死んだも同然」の生き様と言われるのです。

2013年07月14日 | Weblog
巷の精神世界や神仏霊魂の宗教などは信じるか否かの不完全だけに好き嫌いなどの個人の思いが通用しますが、
然るに完全真理の場合は矛盾の無い完全なる事実を説いていますから、然るに好き気嫌いや良い悪いで判断する個人の思いが出るはずもないのですが、
然るに精神世界の真実を説いている完全真理を完全に理解していなければ、やはり信じるか否かになり個人の判断でどうにでも変わります。

然るに耕栄さんを嫌いになって完全真理から離れた人もいます。
その反対に耕栄さんを信頼し憧れ敬い然るに耕栄さん無しでは生きていけないとばかりに思っている耕栄さん信者もいます。
また耕栄さんは信用できないがファバラは結果が出ることからしてファバラを愛用し続けている人もいますが、そのファバラ結果が出ずに完全真理から離れた人もいます。
また真理の講演会の中で説明するそのファバラの売らんかな志向&商業的感覚に反発して完全真理さえも反発する人もいます。
然るに私のように耕栄さんやファバラがどうであれ、真実を知る完全真理さえあればそれで十分と思っている人もいるでしょう。

と言うように精神世界は(完全真理といえども)一筋縄では行かないようです。
それゆえに他に惑わされない自力と自信の精神力が問われるのです。
然るに皆さんは如何でしょうか、

ところで過去は記憶に残るものですから、それを再現してその事実を再度味わうことは出来ません。
然るに過去に味わったその残骸&残り粕が記憶にあるだけです。
ちなみにその過去のドラマチックなことばかり集めてドラマ化したり小説にしても短時間の仮想再現で終わります。

ところが生きている今は一日24時間連続実在ドラマになります。
然るに仮想ドラマではなくして、実在の今の連続を生きている限りずーっと味わい続けます。
しかしその味わった結果はもう既に過去のことになります。

だからその過去の苦楽を気にして執着しても、然るに過去の残り粕と張り合っているようなもので、仮想の世界だけに何の手ごたえも無いはずなのに、然るにその手ごたえが得られていると(自分の中だけで)感じ思えるのも人間だからです。

然るに山あり谷あり&海千山千の波乱万丈や名誉名声&権威権力の肩書きを持つ人ほどその過去に執着して仮想の世界でそれを味わっていますから、然るに現実はぬかに釘を刺すような虚しい味気ないはずのものが、なぜか(己の頭の中の感覚では)味わい深いものに思え錯覚勘違いできるわけです。

しかもその過去&記憶&仮想の中で、然るにその相手が目の前や身近にいれば(相手がどうであれ)尚更に(己の頭の中では)手ごたえ十分ですから更にエスカレートします。
だから執着するのです。

しかし「結果」はすべて<過去>なのです。
だから現われ出た結果形を「気にしない」で生きることが「今を生きる」ことになるのです。

然るに人様から気にされる生き方よりも、気にされないほうが自由で楽な生き方になります。

然るに(今の瞬間)このブログで今を生きるその必要性並びに真実真価を学び知りました。
然るにその為には「気にしない」実践意識が必要と認識しました。

しかし何事も一夜にして成らずですからその精神力&実践力が不可欠ですが、
然るに今の現時点で知ることになった今のあなたは此れからどうしますか、自問自答する価値があります。

然るにこの世では多くの人が結果を気にして生きていますから、
然るに過去の仮想の世界&仮想空間で生きているが如くの、然るに「死んだも同然」の生き様と言われるわけです。

精神世界&意識の世界の真実本物を悟るには「一夜にして成らず」を実感でもって悟りました。

2013年07月13日 | Weblog
完全真理を知ったことからして、然るに「結果」では無くして<原因の意識>を学び知るのが重要として自覚納得しているのに、
それなのに結果を見る(結果を知る)ことに意識がいくのも(気にするのも)、然るに良いとこ取りしたがる意識があるからです。

然るに耕栄さんの講演会の録音テープを聴いているときは完全真理一本やりでしたが、然るに地元の講演会に私が参加するようになった頃には摩訶不思議のファバラシールや食品が発売されるようになり、然るにその摩訶不思議な「結果」に魅せられるようになりました。

ところが地元では1年に1回程度の講演会なのに肝心な真理よりもファバラ説明に趣が変わり、しかも三年後の3回目には殆どが脱税に係わる(執着しすぎた)説明になったのがきっかけからして、然るに此れまでの耕栄さんに対する違和感の記憶が全部噴出し、然るに耕栄さん離れファバラ離れが次第に進み、然るに「結果じゃないよ心意識だよ」が再認識&目覚めに至り、然るに一歩一段本物に近づきました。

然るに脱税に至ったのも販売に係わるスタッフと人任せの耕栄さんの互いの信頼関係とその裏切り関係からして起きただけに、然るにその「結果の原因は意識にあり」というお手本を耕栄さん自らの不完全意識でもってしてその事実を見せてくれたのです。

その耕栄さん離れファバラ離れからして皮肉にも精神世界がより本物に近づき然るに今日に至っています。

それを省みて思うに、結果じゃないよ意識だよとそれを学び知り自覚納得悟ったつもりでいたのだが(まだ性根に至っていないと)然るにまだ気付き足らないとばかりに仕組まれて(私が摩訶不思議の結果に魅せられていることに)更なる気付きが起きたわけです。

然るに精神世界&意識の世界&本物を知るには「一夜にして成らず」をこれまた実感で悟ったわけですが、然るにこの先にもまた新たな気付きでもって更に本物に近づいていくことになればいいわけです。
そして自らして会得することになったその経験体験を私の中の事実としてブログに紹介しているわけです。

その「結果」を(善悪損得優劣で判断して)気にしたり執着するのが私たちなのです。
ゆえに過去の結果に執着したり、先々のことが気になり不安心配になったり、思い思惑&理想目的の期待の欲までが絡んでくるのです。
そしてそれが裏切り関係の原因にもなるのです。

然るに結果を気にしない&執着しないで生きることを書いているのです。

しかしそれが「一夜にして成らず」だけに、然るに学び知り気付くことがあっても既に(遅かりし内蔵助で)(生き方を根本的に変えない限り)無理だと書いているのです。

然るに無理だからと諦めてしまえば終わりですが、それでもやる気になるのが本来の精神世界であり、然るにそれが自力自信の精神力になるのです。

然るにそのやる気からして他力依存になる事や結果を気にすることが次第に薄れていくことにつながっていくのです。

また自力&精神力でもってして自覚納得悟ったと思っていても、然るにまた更なる気付き&自覚納得悟りが必要になるわけです。
そして一段一段歩むごとに自らの意識が変化改革修正していくわけです。

他力絡み&欲絡みで成そうとするから、邪な者の意識に左右される危険性が潜んでいるのです。

2013年07月12日 | Weblog
神仏霊魂の世界&精神世界が不完全な事実をあれこれ書いているうちに、然るにその実践となると世間に目立ちたがる輩の対外的な実践は出来るけれども肝心要の内なる実践が無理だらけなことが判ってきました、
然るに困ったときの神頼み的な意識で精神世界を受け止めている人が多いこと。
然るにそれが人集め金集め&名誉名声&権威権力勢力の道具にされている事実。

然るに人が集るところには欲が渦巻いている事実。
然るに他力依存の人が多いこと。
然るに多くの人が集るほど安心に思うことからしてそれが変な方向に引っ張られ進む事になる事実とその危険性が潜んでいること。

他にも色々と書いてきましたが、
然るに内なる実践が出来ないから、その内なる精神世界を説く形が(矛盾が)この世に必然にして形作られたこと。

ゆえに精神世界を学び知ることからして然るに内なる精神&意識に「気付く」ことにあるのだから、然るにそこで祈る願うや布教や善行奉仕等の対外的なことは余計なことになること。

だから結果形ではなくして<意識>にあることを書いてきました。

然るに(結果を出したがる)無理無駄余計な事をしないで「楽に」生きながらにしての、その心の余裕でもってして自らが「気付く」その必要性を書いています。
ゆえに精神世界は学び知り気付く内なる実践意識にあるのですから、然るに対外的な結果形を成すためではありません。

然るに楽に生きることが実践できればその分だけ苦が減ることに「気付き」ます。
その苦が無ければ快い安心安全の心持で暮らせますから、然るに苦労を買ってまでするその愚かさに「気付き」ます。

また面白く楽しく生きることを追い求めるとその分だけ苦労することにも「気付き」ます。
然るにその苦労をすることで自由が損なわれ、しかも不安心配が出てくることに「気付き」ます。

となると不完全なこの世の形やその不完全意識の人間関係を気にする事無く気楽楽チンで生きる真価を味わい「気付く」ことになります。

然るにその不完全な形やその人間関係を気にしなくなるには「執着」しないことが重要だと「気付き」ます。
然るにその為にも「楽に生きる」しかありません。

そして楽に生きることを意識していれば自ずと持っているのが失われることが多くなりますが、その失うことを恐れてそれを守っている限りにおいては然るに楽に生きることは無理になります。

然るに自らが何を選ぶことになるのか、その行為行動よりも先にその真実事実を見極められるだけの確かな自力と自信&判断力&精神力&実践力を磨くために(本物の)(矛盾のない)完全真理&精神世界を学び知る必要があるのです。

ところがその学び知った精神世界を他力絡み&欲絡みでもってして然るにその形ある結果を求めそれを成そうとするから、その邪な者の意識に左右される危険性があるのです。