孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

対外的な生き甲斐&自己満足 (VS) 安心安全の内なる満足&生きるに与えする価値と生き甲斐。

2013年07月11日 | Weblog
巷の精神世界を説く形からして学び知り、そして自らの内の精神の有り様に気付く事が出来ますが、然るにその精神世界を説く形に係わる他力が原因からして自らの意識が修正改革されることにはなりません。

ところが精神世界を学び知り気付いてもその内なる意識の実践が出来なければ宝の持ち腐れ&猫に小判&棚の上の牡丹餅で終わることになりますが、然るにその実践には無理があります。

まして誰もが出来る「楽に生きる」その実践もどうやら無理となれば、然るに無理尽くめで何一つ残るものはありません。

ところが内なる意識の実践ではなくして布教宣伝活動や善行奉仕&慈善活動などの対外的なことなら、然るに私は正しいとばかりにその正義感でもってして命懸けで実践行動することが出来ます。

となれば楽に生きることが無理なのに何でか死ぬほどにしてまで(苦労を買ってまでも)無理することができるという変てこな矛盾があります。
しかもそれでもってして様々な問題が起こらなくなるどころか、然るに喜ぶ者と困る者が複雑に絡み合うことによって更に問題を歪ませ絡み合いながら進化拡大することにもなり、然るにその蒔いた種が原因からして未だに飛び火したり残り火がくすぶり続けたりしながらそれが更なる大きな災いの元にもなっています。

だから先に書いた対外的なことを(お粗末な結果になることを)命懸けでしたり無我夢中になるよりも、然るに己一人でも(己のために)執着したり拘ることの愚かさを内心でもって悟り、そこで心静かにして楽チンに生きるようになればいいのです。

そこで登場して頂くのがパート先の肉牛さんです。
とくに幼い牛を見ていると、この世に生まれ出たことが何だか嬉しくて楽しくてしかたがないように飛び跳ねたり走り回り、そしてお腹がすけば親牛のオッパイに喰らいつき懸命に吸います。
ところがしかし18ヵ月後には処分されて食肉になる運命を背負っています。

しかしそんなことはまったくお構い無しで念頭に有りませんから、親牛のオッパイをいっぱい吸ってそして満足そうに眠るのですが、それが安心安全の心持でもってして然るに回りの雑踏を全く気にする事無く平然と寝ています。

それを見ていると如何にも満足で幸せそうですから(嫉妬したくなるほど)羨ましい限りに思えます。

そこで私は気付きました。
然るに一寸先は闇であっても、然るに食って寝て糞をしながらにして(お腹を満たして)生きている中に不安心配の無い「安心安全」こそが然るに巷で言う<幸せ>なのだと。

ちなみに私は前々からして不幸とは思っていませんでしたが、
となると(自覚がなくても)今の私は幸せに与えするのです。

然るに幸せは天にあるものではなくして(願って叶うものでは無くて)然るに地に足が着いた私の内に幸せがあるのが本物だとなったわけです。
ところがしかし不完全意識がゆえに暇で退屈なのが(何することもなくて)時たまにそれが苦にもなるときがあるのです。

然るにそれでも13年続いていると言うことは、やはり不安心配の無い安心安全な心持でもってして暮らしているからだと思います。

然るに先程に書いた体外的な実践行動をしている人はその自己満足と不平不満の苦楽の繰り返しが続くし、私は正しいの意識からして不信感&不安心配が常に伴いますから、然るに安心安全の心持を味わうには無理があります。

然るに私の場合は(我一人ながらも)(幸せと言えなくても)安心安全の内心の満足、然るに生きるに与えする価値&生き甲斐を味わっていることになります。

とは言ってもそれは私が長年味わい馴れ初めたことからして気付いたことですから、こればっかりは実際に実践して味わい気付た人で無ければ理解できないかもしれません。