孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

過去未来の仮想の世界&仮想空間で生きているから「死んだも同然」の生き様と言われるのです。

2013年07月14日 | Weblog
巷の精神世界や神仏霊魂の宗教などは信じるか否かの不完全だけに好き嫌いなどの個人の思いが通用しますが、
然るに完全真理の場合は矛盾の無い完全なる事実を説いていますから、然るに好き気嫌いや良い悪いで判断する個人の思いが出るはずもないのですが、
然るに精神世界の真実を説いている完全真理を完全に理解していなければ、やはり信じるか否かになり個人の判断でどうにでも変わります。

然るに耕栄さんを嫌いになって完全真理から離れた人もいます。
その反対に耕栄さんを信頼し憧れ敬い然るに耕栄さん無しでは生きていけないとばかりに思っている耕栄さん信者もいます。
また耕栄さんは信用できないがファバラは結果が出ることからしてファバラを愛用し続けている人もいますが、そのファバラ結果が出ずに完全真理から離れた人もいます。
また真理の講演会の中で説明するそのファバラの売らんかな志向&商業的感覚に反発して完全真理さえも反発する人もいます。
然るに私のように耕栄さんやファバラがどうであれ、真実を知る完全真理さえあればそれで十分と思っている人もいるでしょう。

と言うように精神世界は(完全真理といえども)一筋縄では行かないようです。
それゆえに他に惑わされない自力と自信の精神力が問われるのです。
然るに皆さんは如何でしょうか、

ところで過去は記憶に残るものですから、それを再現してその事実を再度味わうことは出来ません。
然るに過去に味わったその残骸&残り粕が記憶にあるだけです。
ちなみにその過去のドラマチックなことばかり集めてドラマ化したり小説にしても短時間の仮想再現で終わります。

ところが生きている今は一日24時間連続実在ドラマになります。
然るに仮想ドラマではなくして、実在の今の連続を生きている限りずーっと味わい続けます。
しかしその味わった結果はもう既に過去のことになります。

だからその過去の苦楽を気にして執着しても、然るに過去の残り粕と張り合っているようなもので、仮想の世界だけに何の手ごたえも無いはずなのに、然るにその手ごたえが得られていると(自分の中だけで)感じ思えるのも人間だからです。

然るに山あり谷あり&海千山千の波乱万丈や名誉名声&権威権力の肩書きを持つ人ほどその過去に執着して仮想の世界でそれを味わっていますから、然るに現実はぬかに釘を刺すような虚しい味気ないはずのものが、なぜか(己の頭の中の感覚では)味わい深いものに思え錯覚勘違いできるわけです。

しかもその過去&記憶&仮想の中で、然るにその相手が目の前や身近にいれば(相手がどうであれ)尚更に(己の頭の中では)手ごたえ十分ですから更にエスカレートします。
だから執着するのです。

しかし「結果」はすべて<過去>なのです。
だから現われ出た結果形を「気にしない」で生きることが「今を生きる」ことになるのです。

然るに人様から気にされる生き方よりも、気にされないほうが自由で楽な生き方になります。

然るに(今の瞬間)このブログで今を生きるその必要性並びに真実真価を学び知りました。
然るにその為には「気にしない」実践意識が必要と認識しました。

しかし何事も一夜にして成らずですからその精神力&実践力が不可欠ですが、
然るに今の現時点で知ることになった今のあなたは此れからどうしますか、自問自答する価値があります。

然るにこの世では多くの人が結果を気にして生きていますから、
然るに過去の仮想の世界&仮想空間で生きているが如くの、然るに「死んだも同然」の生き様と言われるわけです。