先人が残した「言うは易し、行い難し」の言葉があるように、いざ実践行為行動となると人それぞれに問題があるはずです。
それが精神世界となると尚更に事情があって実践し難い事になっています。
思い起こせば(仕組まれて)私が世捨て人のような暮らしになっているのも過去のしがらみから離れた結果ですが。
そのしがらみから離れずにして精神世界の実践ができるなら、何も浮世離れした生き方でなくてもいいわけですが、そうは問屋が卸してくれないのが精神世界だったのです。
だから修行行脚や艱難辛苦の荒行や洞窟やお堂にこもったり座禅し瞑想したり、また高い塀に囲まれた場所や自然界の人気の無い場所や高い山で修行まがいのことが必要になっているのです。
また私に超能力や霊視と言われる特別な能力があれば世間の中にいて目立った生き方になっていたかもしれませんが、その超能力や霊感・霊視といった能力があっても、その能力者も、またそれらにすがり頼よる人も、皆が皆不完全意識に変わりは無くて、何ともし難いわけですから、結局は無用の長物になります。
その有っても無くてもどうでもいいようなその無用の長物(能力)をあたかも天命のように思い違いして、完全とは違う自分の思いが入った不完全な精神世界を語り伝え、実在する事実とは異なる「信じるか否か」の不完全な(薬にも毒にも変わる)その見えない世界のことを事実が如くに語ることで、更に精神世界を複雑怪奇に惑わす事になり、それが誰もが持つ不信感に火をつけることになると、薬どころか不安心配や恐れを持つことにもなります。
だから神がかり的な特別な能力を持った人であっても、生まれながらにして持っている不完全意識が出る限りにおいては、己自身もまた人様をも「どうしようもない」ことのその事実を悟る必要があります。
そうでなければ他力依存の人を増やし続け、それらの人たちを集めることにもなり、そこで他力願望の信者意識の人(リピーター)を増やすことにもなっています。
すなわち不完全で不確かな自分の思いに(私は正しいとばかりに)人様までも巻き込んでいるその事実に気付く必要があるのです。
すなわち(不完全ゆえに)成す事が出来ないことを成そうとして、そのミイラ取りがミイラになる事実が過去も現在も古今東西にあるからには、結局は誰もがどうすることも出来ないわけです。
そこで矛盾の無い(信じるか否か)(薬にも毒にも変わらない)(良くも悪くもならない)完全なる真理を学び知ることになれば、そこでその不完全意識からは不完全しか生まれない事実を学び知り味わうことになり、それが人間として生まれてきた役割であることを知り、その裏表の苦楽を味わったからこその完全意識の真価に気付き、それを実際に実践して味わうことが使命だとも気付き悟ることになります。
すなわち矛盾の苦楽を味わい、併せてその苦楽の無い生活も実際に味わうことからして、特別が無い完全なる宇宙・神の愛意識の自然体で生きる真価にも気付けるのです。
また神代のアダムとイブがリンゴを食べて不完全意識になった仕組みがあったのならば、そのリンゴの不完全を精一杯味わった後に元の完全意識・神意識に戻る仕組みがあって当然になるわけです。
仮にその始まりと終わりの仕組みが無いとなれば原因と結果が違う偶然の不完全になりますから、そうなれば人類を創造した完全な宇宙・神が実在していないことになり、学者が言うようにすべてが「偶然」の結果になりますから、その偶然から次の偶然が(この世で)繰り返され続けていることになりますが、もし猿から偶然人間になったのならばその人間が偶然猿に戻ることもありますから、いつしか映画の「猿の惑星」のようになっても不思議ありません。
ところがそうなると、猿から猿が生まれるのも、人間から人間が生まれるのも、それらすべてが偶然になりますが、あなたはそれらが偶然の結果(不完全な結果)に思えますか?
その答えを聞くまでも無く(この世に偶然は無く)すべてが「完全」であり「必然」の仕組みで宇宙は成り立っています。
だから始まりがあればその終わりもあるその仕組みの繰り返しから「すべて」が進化し続けている事実があるのです。
だからその宇宙の仕組みに乗るにも「喜怒哀楽」や「信じるか否か」や「他力依存や願望祈願」から離れた自力自信で生きて、その裏表の無い自然体で生きる実践をする必要があるのです。
それが精神世界となると尚更に事情があって実践し難い事になっています。
思い起こせば(仕組まれて)私が世捨て人のような暮らしになっているのも過去のしがらみから離れた結果ですが。
そのしがらみから離れずにして精神世界の実践ができるなら、何も浮世離れした生き方でなくてもいいわけですが、そうは問屋が卸してくれないのが精神世界だったのです。
だから修行行脚や艱難辛苦の荒行や洞窟やお堂にこもったり座禅し瞑想したり、また高い塀に囲まれた場所や自然界の人気の無い場所や高い山で修行まがいのことが必要になっているのです。
また私に超能力や霊視と言われる特別な能力があれば世間の中にいて目立った生き方になっていたかもしれませんが、その超能力や霊感・霊視といった能力があっても、その能力者も、またそれらにすがり頼よる人も、皆が皆不完全意識に変わりは無くて、何ともし難いわけですから、結局は無用の長物になります。
その有っても無くてもどうでもいいようなその無用の長物(能力)をあたかも天命のように思い違いして、完全とは違う自分の思いが入った不完全な精神世界を語り伝え、実在する事実とは異なる「信じるか否か」の不完全な(薬にも毒にも変わる)その見えない世界のことを事実が如くに語ることで、更に精神世界を複雑怪奇に惑わす事になり、それが誰もが持つ不信感に火をつけることになると、薬どころか不安心配や恐れを持つことにもなります。
だから神がかり的な特別な能力を持った人であっても、生まれながらにして持っている不完全意識が出る限りにおいては、己自身もまた人様をも「どうしようもない」ことのその事実を悟る必要があります。
そうでなければ他力依存の人を増やし続け、それらの人たちを集めることにもなり、そこで他力願望の信者意識の人(リピーター)を増やすことにもなっています。
すなわち不完全で不確かな自分の思いに(私は正しいとばかりに)人様までも巻き込んでいるその事実に気付く必要があるのです。
すなわち(不完全ゆえに)成す事が出来ないことを成そうとして、そのミイラ取りがミイラになる事実が過去も現在も古今東西にあるからには、結局は誰もがどうすることも出来ないわけです。
そこで矛盾の無い(信じるか否か)(薬にも毒にも変わらない)(良くも悪くもならない)完全なる真理を学び知ることになれば、そこでその不完全意識からは不完全しか生まれない事実を学び知り味わうことになり、それが人間として生まれてきた役割であることを知り、その裏表の苦楽を味わったからこその完全意識の真価に気付き、それを実際に実践して味わうことが使命だとも気付き悟ることになります。
すなわち矛盾の苦楽を味わい、併せてその苦楽の無い生活も実際に味わうことからして、特別が無い完全なる宇宙・神の愛意識の自然体で生きる真価にも気付けるのです。
また神代のアダムとイブがリンゴを食べて不完全意識になった仕組みがあったのならば、そのリンゴの不完全を精一杯味わった後に元の完全意識・神意識に戻る仕組みがあって当然になるわけです。
仮にその始まりと終わりの仕組みが無いとなれば原因と結果が違う偶然の不完全になりますから、そうなれば人類を創造した完全な宇宙・神が実在していないことになり、学者が言うようにすべてが「偶然」の結果になりますから、その偶然から次の偶然が(この世で)繰り返され続けていることになりますが、もし猿から偶然人間になったのならばその人間が偶然猿に戻ることもありますから、いつしか映画の「猿の惑星」のようになっても不思議ありません。
ところがそうなると、猿から猿が生まれるのも、人間から人間が生まれるのも、それらすべてが偶然になりますが、あなたはそれらが偶然の結果(不完全な結果)に思えますか?
その答えを聞くまでも無く(この世に偶然は無く)すべてが「完全」であり「必然」の仕組みで宇宙は成り立っています。
だから始まりがあればその終わりもあるその仕組みの繰り返しから「すべて」が進化し続けている事実があるのです。
だからその宇宙の仕組みに乗るにも「喜怒哀楽」や「信じるか否か」や「他力依存や願望祈願」から離れた自力自信で生きて、その裏表の無い自然体で生きる実践をする必要があるのです。