孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

暇で退屈な時間をボケーッと呑気にしているほうが精神的には得策です。

2012年09月20日 | Weblog
私が過疎地に移住してからヤギや鶏を放し飼いにしていましたが、それも自己満足の類でしたから、その必然性が薄いのに面倒ばかり多く掛かりました。
今はその残骸・形跡の撤去をしているのですが、頑丈にしていただけにその撤去も苦労しています。
その収益性もないのに牧場並みの広さの頑固な鉄柵や防護網を施していましたから、今思えばその経費も積み重なって相当な額になっていますし、また自力でコツコツとやっていたその時間的な無駄も大きなものがあります。

それをやり始めたころは暇で退屈しているのだから、その時間をヤギや鶏の面倒に使ってもいいではないかと正当化していたのですが、しかし暇で退屈だからとヤギや鶏のために何かと思い考え創意工夫しての外敵からの防御やその世話を続けていたことが結果的には気苦労の連続だったのです。
それが自己満足と不平不満の苦楽の繰り返しとなり、またそれが生活の中の変化刺激になっていたのです。

だから暇で退屈な時間を必然性のない余計なことをして無駄にすることよりも、その時間をただボケーッと呑気にしているほうが精神的には安定している事に気付いたのです。
だからこの場合も欲張って無理をしない、余計なことをしない、無駄になることをしない、と書くことにもなるのです。

また地デジ化した際にテレビ離れしたのも同じ理由からです。
だから過疎地で呑気に暮らしている中にもまだ気苦労をしていた事になります。
しかしそのボケーッとしていられないのも私ですから、やはりブログを書く事とパチンコに行くことが多くなるのです。

こんなことを書くと、何でそこまで自己縮小するの?と思うかもしれませんが、大の元は小にありますし、気疲れ気苦労に大も小もなくて同等ですが、それが更なる苦につながるのか、それとも(気付きから)執着しないで終わるかの違いがあるだけです。
だから何かと気付く為にも心の余裕・時間の余裕・落ち着き→呑気さが必要なのです。
またその余裕の意識が変化刺激のないあの世やまた新たな来世にもつながり役立つと確信しています。