人間の意識は一つしかありません。
だから概ね複数の中の一つを選択することになります。
しかし一つの意識であっても二つ三つと使い分けることが出来ます。
そして上手く行っている方に主体を置いて後の方は手加減することは出来ます。
私は遊ぶことが大好きでしたから、その遊びも二つ三つ持っていました。
そして目新しい遊びや仕事が気に入るとそれに集中しますから、此れまでの遊びや仕事が次第に面白さに欠けていきますから、当然ながら疎かになりいつしか自然消滅していきます。
だから仕事も最初は家業の米屋だけでしたが牛乳販売を兼業でやるようになり、また好きで遊んでいたビデオを事業として始めましたから、合わせて三つの仕事を掛け持ちでやっていました。
その成り行き任せの必然とご縁からしての遊び感覚の田舎暮らしが、いつの間にやら家族や仕事から離れての月5万円の年金暮らしが本格的に始まりましたが、その頃には既に「此れしかない!」と完全真理一筋になっていました。
すなわち、遊びも仕事も目新しいもの一本やりに乗り換えていたのがビデオに収まり、そのビデオの縁から紹介された過疎地の廃屋が現在の住居ですが、それも元は田舎暮らしに憧れていた(嫁いだ)娘のために探していたものであり、完全真理にめぐり合ったのもその娘が縁です。
だから必然ご縁の成り行き任せであっても一つのレールに乗ったが如くに仕組まれた結果が現在です。
だから先程に書いたような、同時にある複数の中から一つ選択した結果とは違っています。
ところで、先ずは精神世界で生きることを意識して暮らしているのと、先ずは生活の安定を意識して暮らすのとはでは、自ずとその結果が違ってきます。
そして精神世界で生きることを意識すれば当然ながら現実離れした生き方になるのが此れまでの形でしたが、完全真理なら日々の生活の中で実践が出来ます。
ところが真理では食っていけないことからしてどうしても世間一般的な生活パターンが優先されますから、実践は二番煎じ三番煎じとなり、完全真理を意識することさえ疎かになるかもしれません。
だから完全真理を知っているだけの人よりも信仰宗教や超能力者や霊能者に夢中になって、世間的な恋人や家族やの人間関係から離れている人のほうがその喜びに満ち溢れている、その事実があります。
しかしそれが自己満足で終わるのも精神世界の落とし穴であります。
しかし完全真理には良いも悪いもありませんから、薬にも毒にもならずに肥やしになるだけですから夢中になったり落ち込んだりはしません。
もしもぞんな山や谷を味わうようであれば、それは完全真理の実践ではなくして信じるか否かの不完全な信仰意識の状態になっているはずです。
ところがしかし、その薬のような良い効き目が無ければ真理の実践が疎かになるのも事実にあります。
すなわち真理の実践が先にあるのではなくして「良いとこ取り」意識が先立っているのが一般的なのです。
だから次々と良いことが起きなければ(過去のお陰さまが消えて)実践意識が薄れて(何か不都合が続くと)やがて完全真理から離れていきます。
ところが私の場合は完全真理を学び知りその実践からして世間離れした生活になっているのではなくして、また「良いとこ取り」意識からして現在があるのではなくして、また持っていたものをわざわざ捨てたのではなくして、成り行きで消滅したその結果が自己縮小の形になっていて、それを既に味わっていただけのことです。
だから「此れしかない」とまでの自信確信になったから、こうしてブログを退屈しのぎに数年書き続けています。
と言うことはやはり自己縮小の実践を味わうには世間離れした生き方しかないのかもしれないし、何処で実践していようが自己縮小すれば世間離れした生き方になるのは避けられないのかもしれません。
しかし信仰宗教のように世間離れした上に組織形式に縛られることが無いから、こうして独自独歩の自由があるのも味わい深いところかもしれません。
だから概ね複数の中の一つを選択することになります。
しかし一つの意識であっても二つ三つと使い分けることが出来ます。
そして上手く行っている方に主体を置いて後の方は手加減することは出来ます。
私は遊ぶことが大好きでしたから、その遊びも二つ三つ持っていました。
そして目新しい遊びや仕事が気に入るとそれに集中しますから、此れまでの遊びや仕事が次第に面白さに欠けていきますから、当然ながら疎かになりいつしか自然消滅していきます。
だから仕事も最初は家業の米屋だけでしたが牛乳販売を兼業でやるようになり、また好きで遊んでいたビデオを事業として始めましたから、合わせて三つの仕事を掛け持ちでやっていました。
その成り行き任せの必然とご縁からしての遊び感覚の田舎暮らしが、いつの間にやら家族や仕事から離れての月5万円の年金暮らしが本格的に始まりましたが、その頃には既に「此れしかない!」と完全真理一筋になっていました。
すなわち、遊びも仕事も目新しいもの一本やりに乗り換えていたのがビデオに収まり、そのビデオの縁から紹介された過疎地の廃屋が現在の住居ですが、それも元は田舎暮らしに憧れていた(嫁いだ)娘のために探していたものであり、完全真理にめぐり合ったのもその娘が縁です。
だから必然ご縁の成り行き任せであっても一つのレールに乗ったが如くに仕組まれた結果が現在です。
だから先程に書いたような、同時にある複数の中から一つ選択した結果とは違っています。
ところで、先ずは精神世界で生きることを意識して暮らしているのと、先ずは生活の安定を意識して暮らすのとはでは、自ずとその結果が違ってきます。
そして精神世界で生きることを意識すれば当然ながら現実離れした生き方になるのが此れまでの形でしたが、完全真理なら日々の生活の中で実践が出来ます。
ところが真理では食っていけないことからしてどうしても世間一般的な生活パターンが優先されますから、実践は二番煎じ三番煎じとなり、完全真理を意識することさえ疎かになるかもしれません。
だから完全真理を知っているだけの人よりも信仰宗教や超能力者や霊能者に夢中になって、世間的な恋人や家族やの人間関係から離れている人のほうがその喜びに満ち溢れている、その事実があります。
しかしそれが自己満足で終わるのも精神世界の落とし穴であります。
しかし完全真理には良いも悪いもありませんから、薬にも毒にもならずに肥やしになるだけですから夢中になったり落ち込んだりはしません。
もしもぞんな山や谷を味わうようであれば、それは完全真理の実践ではなくして信じるか否かの不完全な信仰意識の状態になっているはずです。
ところがしかし、その薬のような良い効き目が無ければ真理の実践が疎かになるのも事実にあります。
すなわち真理の実践が先にあるのではなくして「良いとこ取り」意識が先立っているのが一般的なのです。
だから次々と良いことが起きなければ(過去のお陰さまが消えて)実践意識が薄れて(何か不都合が続くと)やがて完全真理から離れていきます。
ところが私の場合は完全真理を学び知りその実践からして世間離れした生活になっているのではなくして、また「良いとこ取り」意識からして現在があるのではなくして、また持っていたものをわざわざ捨てたのではなくして、成り行きで消滅したその結果が自己縮小の形になっていて、それを既に味わっていただけのことです。
だから「此れしかない」とまでの自信確信になったから、こうしてブログを退屈しのぎに数年書き続けています。
と言うことはやはり自己縮小の実践を味わうには世間離れした生き方しかないのかもしれないし、何処で実践していようが自己縮小すれば世間離れした生き方になるのは避けられないのかもしれません。
しかし信仰宗教のように世間離れした上に組織形式に縛られることが無いから、こうして独自独歩の自由があるのも味わい深いところかもしれません。