孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

自力と自信が無ければ成り行き任せに意味(必然)がありません。

2012年09月26日 | Weblog
普段の生活をしている中に多くの矛盾を抱えている事に気付いていない人も多いと思っています。
例えば楽にしていたいが、しかし生活を豊かにした。
自由に生きたいが、しかし結婚して家族を持ちたい。
仕事を怠けたいが上司に認めてもらいたい。
家事を手抜きして身奇麗に遊びたいが生活を疎かにはしたくない。

他にもいろいろとありますが、二兎追いかけて二兎捕えることは絶対に無理です。
そこで何れかを選択するようになりますが、その時に出てくるのが見栄や世間体のプライドですから、無理しながらもカッコよいほうを選びます。
そしてその(二兎を追う)矛盾する思いを持ったままに生活する事になります。
また中には他力を使って成そうとしたり神仏祈願することにもなっています。


ところで私は概ね成り行き任せにしていましたから自分の中では何の問題も無いのに、私の周りの人が問題を出してそれに私が巻き込まれることが多くありましたが、それさえも成り行きに任せていても、そんな私を物足りないと(薄情と)矛先が私に向いてくることもあります。
だからこの世で生きているからには、(成り行き任せの)自分ひとりの問題だけではなくて、人様の意識の問題に巻き込まれる現実を多く味わってきたのです。

またそれだけに私の意識が原因で人様を巻き込むことが無いように常に平常心でいることになりますから、それが成り行き任せにもなるのです。
それだけに尚のこと、その人間関係がお陰さまとお互いさまの調和の時代になることに期待しているところがあるのです。

このように書くと、私が正しいとなり、それを裏付けるが如くに正当化していると思われるかもしれませんが、過疎地での単身生活の自由と孤独を味わっているからこそ(此れまでに多くの裏と表を味わったこともあって)気付いたことですから、私の中では偽りの無い事実になっています。

だから過去のカッコよさに見切りをつけてまでも現在の自由と孤独の暇で退屈している生活を続けられることにもなっているのです。

すなわち二兎追うことには無理がありますし結果的には余計なことをして無駄に終わりますから、そこで見栄や世間体を気にしてカッコよく生きるのをやめて自己縮小に進むしか道はありません。
その自己縮小に他の者を道ずれにすることには無理がありますから独自独歩でやるしかありません。

ところがそうなると此れまで一緒に自己拡大してきた身近な人を巻き込むことになりますから、理解されないと必ず反対されます。
その反対を無理に押し切ってやるとインチキ宗教に入信したが如くに思われて猛反対されたり別居離婚疎遠になるかもしれません。
そこで理解を促す説明がなされますが、概ね聞く耳がありませんから、それも無理で無駄なことになるかもしれません。
すなわち成す術も無くて概ね成り行きに任してほっとくしかありません。
その後の頼りは「この世は意識が原因の結果」ですから、他力をあてにしないで自力と自信の精神力・意識力を身に付ける実践になります。

その他力をあてにしない自力と自信が無ければ(意識が原因の必然ご縁の)成り行き任せの意味(必然)が薄れてきます。
その他力をあてにしない自力と自信の精神力・意識力がこの先の世間的な有事や真坂の有事にも必ず活かされます。
その意識力があの世といわれる意識だけの世界へ逝っても活かされます。