孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

思いを言葉にして伝えなければその思いが相手に届かないと言われていますが

2012年09月13日 | Weblog
人間は主に精神体・感情体・肉体からなっていますが、元は意識体が姿形を持っていることからしてその意識である精神が最も肝心になるわけです。

しかし常日頃意識していることといえば概ね肉体であり、その肉体を使って感情表現をしていますから、精神が疎かになっていることになります。

しかも良い悪いで判断していることからして不完全ですから皆が絶対的に「信じるか否か」の<不信感>を持っています。

そこで「好き」といえばその裏の「嫌い」が隠れています。
そこで信じるか否かの裏表が当然出てきます。
そこで信じたがることになれば、その裏の不信感を打ち消すことになりますが、信じたくなければ当然ながらその表を打ち消して信じません。

だから一度好きといえば何度も何度も好きと言い続けていなければ嫌いになったと思われる心配(不信)があります。
だから日々の生活の中で挨拶が如くに好きなことを言い続けることになります。
しかしそれでも不信感が消えることにはなりませんが、それを信じたがることで仮初めの安心ができるから都合がいいわけです。

それらと同じく世間では思いを言葉にして伝えなければその思いが相手に届かないと言われていますから、愛している、好きでいる、感謝しているとかで、その感情・喜怒哀楽を示す事になっていますが、その思い感情をその言動で表現する側にも受け取る側にも裏表の矛盾・不信が必ず隠れています。

だから先に書いた信じるか否かの裏表の結果になりますから、それが自己満足や不平不満になりますし、それが複雑に絡み合うと互いが裏切りを言い合う関係にもなります。
だからどうしようもないとなるのです。

また(不完全意識の矛盾する)精神から出る優しさ思いやり感謝にしても、その思いを言葉にすればやはり信じるか否かの不信感やまた良い子ぶっているように見られることにもなりますから、沈黙は金なりで黙っているしかありません。

だから不完全意識を持っている限りにおいては、感情であれ精神・心であれ、それを言葉・形にしないほうが何事にも歪められたり裏表に変化しませんからそのほうが無難なのです。

それなのにあえて言葉形にすることは裏に自分に都合がいいことになる思惑期待を隠し持っているからです。
それが私に感謝して欲しい、喜んで欲しい、そしてその見返りお返しを思惑期待するわけです。

その言葉形にして伝えないことからして薄情と思われようが人間的に劣る人格に思われようが、そんな人様の思いに動じることの無い平常心いられるほうが双方共に波風の立たない、苦楽のない(喜怒哀楽の無い)平穏な生き方につながっていくのです。

※とにかく、何がともあれ「不完全意識」の人間が終わらなければその人間関係も不完全なままが永遠に続くのです。

だからせめても、現れた結果が自分に都合が良くても悪くてもすべてに感謝できる心意識になるしかありません。
そのためにも欲張らない、無理しない、執着しない、素朴な心に戻る、その自己縮小の実践が必要になるのです。

その自己縮小の実践の中には見栄や世間体や自惚れ慢心のプライドも私は正しいの自己主張も信じるか否かの不信感も自己満足と不平不満の苦楽も次第に減っていきますから、その分だけ安心安全の安らかな心持で生きていけると説明しているのです。

そして複雑怪奇な精神世界や奇跡超能力の摩訶不思議を知らなくても「欲」を出さない実践をしていれば自他共に多くの不完全意識に気付きますから、尚の事に欲を出して生きることから離れられるのです。

だから完全真理をいくら知ってもその実践が無ければ無用の長物になるばかりか、「始まり終わる」地球人類の進化の仕組みに乗り遅れることを書いているのです。
だから完全真理は実践する真理だと書いているのです。