宇宙万物すべてが「お陰さま」「お互いさま」の調和関係ですが、それを人間に限って言えば、宇宙万物のお陰で生かされ生きているその感謝の心が言われていることになりますが、お互いさまは主に人間関係の裏表・損得関係の被害者意識や加害者意識を無くする為(因縁を断ち切るために)に言われていることになります。
だから事件や事故で被害者になっても、それ以前の過去やまた過去世で何らかの加害者になっていたこともあるし、またこの先で自分や家族が加害者になるかもしれないから(お互いさまになるから)、そこで過ぎた被害者意識にならないように戒める形になります。
特に過去世で奪い合い戦い合い殺し合いをしていることからして何れの立場になったとしてもお互いさまの関係だと言われるわけです。
ところが被害者意識丸出しで賠償・制裁・征伐(死刑)の仕返し報復を私は正しいが如くに主張する人がいますが、そんな人の場合は(概ね)その過去世や過去で加害者になったことからその被害者から責め立てられ困ったことがあったことから(その因縁からして)(今は被害者の立場になった事からして)その仕返し復習をしていることになりますから、そんな場合はこの世でも次の世でもその因果・報復の繰り返しがずーっと続きます。
そこで「お互いさま」の意識になって被害者意識が出なくなればそのままに問題なく解決しますから、その意識からして自分が加害者になる仕組みも減るし事の次第が軽減されたりまた大きな事が仕組まれ難くもなります。
そのお互いさま意識になればそれに似合った人との必然ご縁が仕組まれますから、当然ながらその人間関係で困ったことになるはずもありません。
ところが過去に被害者意識丸出しに加えてその欲から難癖をつけたことが上手くいって得したと自己満足していると、いつの日かその逆の加害者の立場が仕組まれて数倍返しの困ったことになる場合があります。
例えそれが自分に起きなくても我が子や孫やの子孫に及ぶこともあります。
そこで何らかの損害・災害が起きても、此れまでの良いとこ取りばかりしてきたその借りを少しでも返せたと思うことでその執着心が消えます。
このように書くと宗教的になり信じるか否かになりますが、
私が若いころから成り行き任せであまり執着していませんでしたから、被害者になっても主張せずに成り行き任せにしてきましたし、その被害が軽減であれば気にもしないでほっときましたから、
反対に私が加害者の立場になっても困ることなく難なく解決していますし、自らの責任事故から大きな怪我で困った事になるはずの形が(奇跡的に)何故か軽症で済んだ事実も数々あります。
だから尚のこと、この世で生きているうちに過去や過去世の汚れた垢(あか)を落とすことになるそのお互いさまの意識でもって因縁を断ち切る実践をしていなければ、この先でもまた来世でも加害者と被害者の立場で対立することが繰り返されるのです。
ちなみに必然ご縁の成り行き任せの(お陰さまとお互いさまに準じた)意識になることで(人を責めないことで)(因果報復が消えた)(争いあう関係にならない)調和の意識の者同士が寄り集まり引き寄せられることにもなります。
だから人間関係でややっこしいことにもならずに(複雑にせずに終わらせますから)事の次第が大したことにもならずに、執着心から面倒で困った事にならないままの、その穏やかな心持で順調に生きていけるわけです。
だから私の中では「信じるか否か」ではない<事実>になっているのです。
だから必然ご縁の成り行き任せで仕組まれ続けた事実も書いているのです。
だから欲張らない生活からして不安心配の無い安心安全になっている事実を書いているのです。
だから自己縮小の実践が(過去の意識・因縁を断ち切る実践が)無ければ此れまでの繰り返しが永遠に続くとも書いているのです。
だから完全真理を深く学び知りその実践によって過去を断ち切らなければ新たな出発も無いのです。
それも信じるか否かではない(始まり終わる仕組みがある)事実に起こることを詳しく書いているのです。
だから事件や事故で被害者になっても、それ以前の過去やまた過去世で何らかの加害者になっていたこともあるし、またこの先で自分や家族が加害者になるかもしれないから(お互いさまになるから)、そこで過ぎた被害者意識にならないように戒める形になります。
特に過去世で奪い合い戦い合い殺し合いをしていることからして何れの立場になったとしてもお互いさまの関係だと言われるわけです。
ところが被害者意識丸出しで賠償・制裁・征伐(死刑)の仕返し報復を私は正しいが如くに主張する人がいますが、そんな人の場合は(概ね)その過去世や過去で加害者になったことからその被害者から責め立てられ困ったことがあったことから(その因縁からして)(今は被害者の立場になった事からして)その仕返し復習をしていることになりますから、そんな場合はこの世でも次の世でもその因果・報復の繰り返しがずーっと続きます。
そこで「お互いさま」の意識になって被害者意識が出なくなればそのままに問題なく解決しますから、その意識からして自分が加害者になる仕組みも減るし事の次第が軽減されたりまた大きな事が仕組まれ難くもなります。
そのお互いさま意識になればそれに似合った人との必然ご縁が仕組まれますから、当然ながらその人間関係で困ったことになるはずもありません。
ところが過去に被害者意識丸出しに加えてその欲から難癖をつけたことが上手くいって得したと自己満足していると、いつの日かその逆の加害者の立場が仕組まれて数倍返しの困ったことになる場合があります。
例えそれが自分に起きなくても我が子や孫やの子孫に及ぶこともあります。
そこで何らかの損害・災害が起きても、此れまでの良いとこ取りばかりしてきたその借りを少しでも返せたと思うことでその執着心が消えます。
このように書くと宗教的になり信じるか否かになりますが、
私が若いころから成り行き任せであまり執着していませんでしたから、被害者になっても主張せずに成り行き任せにしてきましたし、その被害が軽減であれば気にもしないでほっときましたから、
反対に私が加害者の立場になっても困ることなく難なく解決していますし、自らの責任事故から大きな怪我で困った事になるはずの形が(奇跡的に)何故か軽症で済んだ事実も数々あります。
だから尚のこと、この世で生きているうちに過去や過去世の汚れた垢(あか)を落とすことになるそのお互いさまの意識でもって因縁を断ち切る実践をしていなければ、この先でもまた来世でも加害者と被害者の立場で対立することが繰り返されるのです。
ちなみに必然ご縁の成り行き任せの(お陰さまとお互いさまに準じた)意識になることで(人を責めないことで)(因果報復が消えた)(争いあう関係にならない)調和の意識の者同士が寄り集まり引き寄せられることにもなります。
だから人間関係でややっこしいことにもならずに(複雑にせずに終わらせますから)事の次第が大したことにもならずに、執着心から面倒で困った事にならないままの、その穏やかな心持で順調に生きていけるわけです。
だから私の中では「信じるか否か」ではない<事実>になっているのです。
だから必然ご縁の成り行き任せで仕組まれ続けた事実も書いているのです。
だから欲張らない生活からして不安心配の無い安心安全になっている事実を書いているのです。
だから自己縮小の実践が(過去の意識・因縁を断ち切る実践が)無ければ此れまでの繰り返しが永遠に続くとも書いているのです。
だから完全真理を深く学び知りその実践によって過去を断ち切らなければ新たな出発も無いのです。
それも信じるか否かではない(始まり終わる仕組みがある)事実に起こることを詳しく書いているのです。