孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

この世で過去・過去世の垢(あか)を落さなければ同じ繰り返しが続くのです。

2012年09月15日 | Weblog
宇宙万物すべてが「お陰さま」「お互いさま」の調和関係ですが、それを人間に限って言えば、宇宙万物のお陰で生かされ生きているその感謝の心が言われていることになりますが、お互いさまは主に人間関係の裏表・損得関係の被害者意識や加害者意識を無くする為(因縁を断ち切るために)に言われていることになります。

だから事件や事故で被害者になっても、それ以前の過去やまた過去世で何らかの加害者になっていたこともあるし、またこの先で自分や家族が加害者になるかもしれないから(お互いさまになるから)、そこで過ぎた被害者意識にならないように戒める形になります。
特に過去世で奪い合い戦い合い殺し合いをしていることからして何れの立場になったとしてもお互いさまの関係だと言われるわけです。

ところが被害者意識丸出しで賠償・制裁・征伐(死刑)の仕返し報復を私は正しいが如くに主張する人がいますが、そんな人の場合は(概ね)その過去世や過去で加害者になったことからその被害者から責め立てられ困ったことがあったことから(その因縁からして)(今は被害者の立場になった事からして)その仕返し復習をしていることになりますから、そんな場合はこの世でも次の世でもその因果・報復の繰り返しがずーっと続きます。

そこで「お互いさま」の意識になって被害者意識が出なくなればそのままに問題なく解決しますから、その意識からして自分が加害者になる仕組みも減るし事の次第が軽減されたりまた大きな事が仕組まれ難くもなります。

そのお互いさま意識になればそれに似合った人との必然ご縁が仕組まれますから、当然ながらその人間関係で困ったことになるはずもありません。

ところが過去に被害者意識丸出しに加えてその欲から難癖をつけたことが上手くいって得したと自己満足していると、いつの日かその逆の加害者の立場が仕組まれて数倍返しの困ったことになる場合があります。
例えそれが自分に起きなくても我が子や孫やの子孫に及ぶこともあります。

そこで何らかの損害・災害が起きても、此れまでの良いとこ取りばかりしてきたその借りを少しでも返せたと思うことでその執着心が消えます。

このように書くと宗教的になり信じるか否かになりますが、
私が若いころから成り行き任せであまり執着していませんでしたから、被害者になっても主張せずに成り行き任せにしてきましたし、その被害が軽減であれば気にもしないでほっときましたから、
反対に私が加害者の立場になっても困ることなく難なく解決していますし、自らの責任事故から大きな怪我で困った事になるはずの形が(奇跡的に)何故か軽症で済んだ事実も数々あります。

だから尚のこと、この世で生きているうちに過去や過去世の汚れた垢(あか)を落とすことになるそのお互いさまの意識でもって因縁を断ち切る実践をしていなければ、この先でもまた来世でも加害者と被害者の立場で対立することが繰り返されるのです。

ちなみに必然ご縁の成り行き任せの(お陰さまとお互いさまに準じた)意識になることで(人を責めないことで)(因果報復が消えた)(争いあう関係にならない)調和の意識の者同士が寄り集まり引き寄せられることにもなります。
だから人間関係でややっこしいことにもならずに(複雑にせずに終わらせますから)事の次第が大したことにもならずに、執着心から面倒で困った事にならないままの、その穏やかな心持で順調に生きていけるわけです。
だから私の中では「信じるか否か」ではない<事実>になっているのです。

だから必然ご縁の成り行き任せで仕組まれ続けた事実も書いているのです。
だから欲張らない生活からして不安心配の無い安心安全になっている事実を書いているのです。
だから自己縮小の実践が(過去の意識・因縁を断ち切る実践が)無ければ此れまでの繰り返しが永遠に続くとも書いているのです。

だから完全真理を深く学び知りその実践によって過去を断ち切らなければ新たな出発も無いのです。
それも信じるか否かではない(始まり終わる仕組みがある)事実に起こることを詳しく書いているのです。

大を治めることは難しくても小を治めることは容易いはずです。

2012年09月14日 | Weblog
神社仏閣の家内安全とか交通安全の「お札」にもエネルギーがありますから、そのお札に書かれた願いを「後押し」する効果が概ね3%5%~多くて10%まであるようです。
それが交通安全だと、その交通安全のお札の文字を見たことが「きっかけ」で交通安全意識が再認識されたりその意識が高まることになりますから、その交通安全意識を後押ししてくれた事になるわけです。
だからお札の他力よりも意識している自力の結果になります。

そのお札を受けるときに神官から「お祓い」を受けたのと販売窓口で購入したのとではその求める意識力に違いがありますから、当然ながら後押し(きっかけ)にも違いがあります。

ところが安全祈願や商売繁盛を祈願したお陰でその効果があったと思えば他力依存・他力祈願・本願の意識になります。
そうなると毎年の如くに「お札」を頂かないと不安に駆られたり、何か不都合があるたびに神社仏閣で「お祓い」を受けるリピート客になります。

同じように人工的な宇宙エネルギーグッズや鉱石貴金属の類も概ね10%以下の効果効用の「後押し」がありますが、何か奇跡的なことが起きてもその90%以上は(良かれ悪しかれ)己の意識が呼び起こし招き入れた結果になります。
また善なる意識の霊や悪しき霊とかの影響を受けることがあるとしても、それも10%以下であって、その結果が良くても悪くてもその多くは自分の意識が原因にあります。

そんなエネルギーグッズや霊魂の影響よりも不完全意識の人間の集合意識の影響には大きなものがあります。
概ね3%の集合意識で多くの人が同調する事実があります。
それが流行であり、また地域社会や政治国家を動かしています。
それが「赤信号、皆で渡れば怖くない」の類になります。

また不信感や不平不満・不安心配の集合意識が人災から天災まで及んでいます。
また感謝の心が多い人はエネルギーが強くなっていますから人災や天才に遭うことが少なくなったり被害が軽減されたりします。
だから「運が良かった」となります。


ところでこのブログの中に「余計・無駄」なことになると書いていますが、それはあくまでも途中結果です。
だからその途中結果がいつまでも続く限りにおいては、余計なことや無駄なことをしたその結果が続くわけですが、いつの日かその余計なことや無駄なことに気付けば、その途中結果に変化改革が起きますから無駄でも余計なことでもなく役立ったことに変わります。

ところが余計なことや無駄なことになるのに私は正しいことをしたと思い込んでいると自己満足しているだけに気付くことも無く、それを自己主張すればするほどに関係者をはた迷惑なことや厄介な事に巻き込むことにもなります。
それが対立であったり抗争に至ることにもなります。

これしきのことでこのブログが注目脚光を浴びるようなことにはなりませんが、そんな関心の薄い小さなことからすべてが始まっていることを知っているだけに事細かく書いているわけです。

例えば小さな不平不満が内面的・潜在的に積み重なっている事実があります。
それが万病の元になっているし、対外的には児童虐待・セクハラ・盗撮・万引きや暴走運転・飲酒運転を引き起こす原因になったり、皆の集合意識が影響して異常犯罪者を揺り動かしたり衝動的に無差別殺人が決行されたりと、この世の様々な有事につながっています。

もちろん軍隊を動かす戦争や核ミサイルのスイッチを押す事になったりまた自然界の天変地異の引き金にもなっています。

だから大を書くよりも小を書くことが多いわけです。
ところが大は派手で好むが小は地味で好まないのです。
しかし大を治めることは難しくても小を治めることは容易いはずです。

だから自己拡大をやめて自己縮小に取り組むのです。

思いを言葉にして伝えなければその思いが相手に届かないと言われていますが

2012年09月13日 | Weblog
人間は主に精神体・感情体・肉体からなっていますが、元は意識体が姿形を持っていることからしてその意識である精神が最も肝心になるわけです。

しかし常日頃意識していることといえば概ね肉体であり、その肉体を使って感情表現をしていますから、精神が疎かになっていることになります。

しかも良い悪いで判断していることからして不完全ですから皆が絶対的に「信じるか否か」の<不信感>を持っています。

そこで「好き」といえばその裏の「嫌い」が隠れています。
そこで信じるか否かの裏表が当然出てきます。
そこで信じたがることになれば、その裏の不信感を打ち消すことになりますが、信じたくなければ当然ながらその表を打ち消して信じません。

だから一度好きといえば何度も何度も好きと言い続けていなければ嫌いになったと思われる心配(不信)があります。
だから日々の生活の中で挨拶が如くに好きなことを言い続けることになります。
しかしそれでも不信感が消えることにはなりませんが、それを信じたがることで仮初めの安心ができるから都合がいいわけです。

それらと同じく世間では思いを言葉にして伝えなければその思いが相手に届かないと言われていますから、愛している、好きでいる、感謝しているとかで、その感情・喜怒哀楽を示す事になっていますが、その思い感情をその言動で表現する側にも受け取る側にも裏表の矛盾・不信が必ず隠れています。

だから先に書いた信じるか否かの裏表の結果になりますから、それが自己満足や不平不満になりますし、それが複雑に絡み合うと互いが裏切りを言い合う関係にもなります。
だからどうしようもないとなるのです。

また(不完全意識の矛盾する)精神から出る優しさ思いやり感謝にしても、その思いを言葉にすればやはり信じるか否かの不信感やまた良い子ぶっているように見られることにもなりますから、沈黙は金なりで黙っているしかありません。

だから不完全意識を持っている限りにおいては、感情であれ精神・心であれ、それを言葉・形にしないほうが何事にも歪められたり裏表に変化しませんからそのほうが無難なのです。

それなのにあえて言葉形にすることは裏に自分に都合がいいことになる思惑期待を隠し持っているからです。
それが私に感謝して欲しい、喜んで欲しい、そしてその見返りお返しを思惑期待するわけです。

その言葉形にして伝えないことからして薄情と思われようが人間的に劣る人格に思われようが、そんな人様の思いに動じることの無い平常心いられるほうが双方共に波風の立たない、苦楽のない(喜怒哀楽の無い)平穏な生き方につながっていくのです。

※とにかく、何がともあれ「不完全意識」の人間が終わらなければその人間関係も不完全なままが永遠に続くのです。

だからせめても、現れた結果が自分に都合が良くても悪くてもすべてに感謝できる心意識になるしかありません。
そのためにも欲張らない、無理しない、執着しない、素朴な心に戻る、その自己縮小の実践が必要になるのです。

その自己縮小の実践の中には見栄や世間体や自惚れ慢心のプライドも私は正しいの自己主張も信じるか否かの不信感も自己満足と不平不満の苦楽も次第に減っていきますから、その分だけ安心安全の安らかな心持で生きていけると説明しているのです。

そして複雑怪奇な精神世界や奇跡超能力の摩訶不思議を知らなくても「欲」を出さない実践をしていれば自他共に多くの不完全意識に気付きますから、尚の事に欲を出して生きることから離れられるのです。

だから完全真理をいくら知ってもその実践が無ければ無用の長物になるばかりか、「始まり終わる」地球人類の進化の仕組みに乗り遅れることを書いているのです。
だから完全真理は実践する真理だと書いているのです。

変化刺激の趣味思考娯楽の今を生きるよりも、あの世を意識しての今を生きる。

2012年09月12日 | Weblog
自力と自信が無いほどに他力に頼りたがる「良いとこ取り」の欲があります。
だから人が集まるところには他力依存の欲が潜んでいる事になります。

もし他力依存の欲が無ければ、今の自分の出来ることをしているだけで十分に思っていますから(自力と自信の独自独歩で生きていますから)(必然のご縁の大切さを知っていますから)それ以外のことで自らが先立って人が集まるところへ出向いていく必要はありません。

その他力依存から事を成して豊かな衣食住に恵まれ、また名誉名声・権威権力を持ったとしても、それらが通用するのはこの世限りです。
しかも絶対が言えない不完全なこの世であっても、その絶対と言える死が誰にもありますから、それら形を必死に守っていても手放す時、すなわち必ず死する時が来るのです。

しかもこの世限りの形を得るためにも、それらを守るためにも、相当な苦労をしているのも事実ですから、事を成した喜び満足とその苦労の苦楽を味わっているわけですが、その事を成した形はあの世に持っていけませんから、その苦楽の思いの「意識」(体)だけで宇宙の時を過ごす事になります。
そうなると(仮初めの)自己満足したことの殆どが意識から消えていますから、当然ながら生前に執着していた不平不満ばかりが白昼夢が如くに(事実が如くに)蘇ります。

しかも不平不満を癒してくれる(一時逃避できる)自己満足の趣味思考娯楽や刺激が無いことからして(他に無いことからして)その不平不満の思いが数倍強く出てきます。
だから地獄にいるように思えるかもしれません。


これ等のことは信じるか否かではなくて事実そうなることを自信確信の悟りになっていますから、この世の「形」で生きることよりも(完全真理の学びから)あの世に通用する<意識>で生きることを実践しているわけです。
しかもこの世の苦楽を味わないですむところの食って寝て糞をするだけの呑気気楽の楽ちんさを味わいながらの実践をしているところです。


あの世と言われる意識次元の世界の真実を知らない人やまたこの世限りで完全な無になると思っている人であれば、今のままの思うがままの自己結果とその自己責任の生き方を続けるだけですから、このブログに何が書かれていようとも実践意識になるはずもありません。
また例え如何なる精神世界や完全真理を知ってもその実践がなければ無用の長物で終わるわけです。


だから趣味思考娯楽・変化刺激の自己満足を味わうために今を生きるのではなくして、あの世の意識の世界を意識しての生き方になっているわけです。
しかもその方が楽チンなのですから、生きていても楽チンですし死んでからも楽チンなのですから(たとえ私が思うようなあの世でなくても)何の苦労もしていないからその後悔もありません。

少なくともこの世で苦労して、またあの世で苦労して、そのこの世の苦労とあの世の苦労の両方を味わうよりも、お利口さんの生き方になるわけです。


ところが精神世界を語る者の中には人様から感謝される人になりなさいと説く人がいますが、ところが私は人様に役立ことを成して感謝される側を目指すよりも、先ずはすべてに「感謝できる心」になる実践をしていたいのです。

また両親に感謝する、その先祖に感謝する、その神に感謝する等と個別に意識するのではなくして(すべてがひとつの意識の世界だけに)先ずはこの世で生きていることや宇宙万物のお陰で生かされていることを味わっているその意識だけで十分に思っています。


また感謝の言葉も大切ですが、その言葉形を必要としない意識の触れ合いで解り合える関係になること、また誰が彼がの個別では無くて、また結果が良くても悪くても、皆が同じお蔭様とお互い様の関係で生きている事実を認識して、その差の無い調和意識で生きることを実践していきたいと思っています。


すなわちこの世の今ではなくして、その先に死して必ず来るあの世の意識次元の世界を持ち前の先取り意識でもって学び知りながら今を生きていたいのです。

何たって(絶対に逝く)意識だけの世界ですから、衣食住も趣味思考娯楽も無い、何を成すこともない暇で退屈な時間が延々と続くのですから、今の私にしたら食って寝て糞をすることも無く、またパート仕事もパチンコもない、生活感の無い霞を食って生きている仙人のようになるのですから、今のうちに先取りして心の準備をしておくほうがお利口さんの生き方だと思っています。

意識が原因からして「似合ったもの同士が寄せ集まる」必然ご縁の仕組みが実在しています。

2012年09月11日 | Weblog
このブログを読めば判るように、私は世間一般的な生活をしている中での成り行き任せの流れから仕組まれて少しずつ変化しながら無理なく今に至っています。
だから摩訶不思議の世界や精神世界に係わるに優れた能力は一切ありません。

その仕組まれ続けた原因の中に、信じるか否かの不信感から否定反発することよりも、知らないことを「知りたがる」それを「やりたがる」ことからして(振り返れば)結果的には先駆けてきた形になっているだけです。

その中に自分がやっていることのその思いを文書にして書き表し、それを情報交換の場で公開して同じ思いの人や目指している人と仲間意識になって事を進め、それが何とか自分のものになったら、早くも次の優れたものに仕組まれてそれに手を出し始めるというその繰り返しをしていました。

すなわち私の説明文が見知らぬ人を引き寄せていたのです。
そして私が新たなものに移行したらそれまでの仲間と縁が切れて新たな人とのご縁が始まる(始まり終わりまた始まる)その繰り返しがありました。

それが後ほどの精神世界を知ったときに意識が原因からして「似合ったもの同士が寄せ集まる」その必然ご縁の仕組みがこの世に実在していることを確信するに至ったわけです。
だから欲を出して無理執着しているわけでもないく、ただ以前よりも優れた形のものを熱心に紹介していることのその繰り返しがあるだけです。

だから成り行き任せにしているのに、自分に必然とすることが仕組まれながらにして、いつの間にやら成るように成ってきたのです。
そしてその流れを振り返ればすべてがつながっていてそのお陰で今があることですから、確かな「先見の目」というよりも成り行きから先取りしていたのがいつの間にやら自分のものになっていて、それが如何にも先見の目で成した形になっているだけです。

それだけに「私に無理」はありません。
それだけに尚のこと「執着」することにもなりません。
だから結果的には呑気気楽な成り行き任せになっているのです。

またそれだけに学識知識教養が無くてもいつの間にやら世間一般の人よりも先を歩いている形になっただけです。
だから田舎暮らしの人が書くブログや専門学識知識に自分の解釈思いを書いている文書とも違うし超能力者自身が書く文書とも違っていて当然です。

だから書く内容は主に不平不満と自己満足の繰り返しの苦楽・喜怒哀楽の原因とその結果やそうならないために欲も無理も無い素朴な生き方や必然ご縁の成り行き任せの自然体で生きること等の当たり前のことを書いている感じですから、知識を高めるに都合が良くて、変化刺激性に富み、神の摩訶不思議や超能力関係が多くあって、それを肯定否定したり新たな知識にできる内容が書かれていることを期待している人には物足りません。

だからこのブログを必然とする人が仕組まれて引き寄せられしかありません。

と言っても此れまでずーっと文書を書き続けてきたことが余計なことで無駄な結果に終われば、すべてが私の自己満足で終わるわけです。
また人の欲が集まる所から離れて生活していることで孤独感や虚しさに耐えられなくなったり、この先で病気を苦にしたり、要介護の身になって後悔したり、生きることに執着しすぎて死することから守り闘う事になれば、その私の意識は言うだけ書くだけの見せ掛けの嘘偽りになるわけです。

しかし知った知識を文書にして書いているだけではなくして、此れまでの流れの中で気付き感じたことをつなぎ合わせたりしながら、それを完全真理と照らし合わせながらの矛盾無く実感納得確信したことですから、私の不完全意識の思いが入っていても良い悪いの薬や毒になることはまずありませんが、少なくとも完全な真実の精神世界を知る肥やしにはなるかと思っています。

人が集まる所には互いの欲が卍の如くに渦巻いている事実がある。

2012年09月10日 | Weblog
精神世界を複雑怪奇にしたのが宗教家・教祖教団や霊能者だったことは間違いなさそうです。
何故なら、欲を出さずに今に感謝の心があれば、ややっこしい神仏やの世界を説く宗教の世界・精神世界を知らなくても、なんら不都合は無かったのです。

だから人を集めて特別な(不完全な)神がかり奇跡や超能力の実在を見せる必要も無かったことになります。
ただ単純明快にして語り、欲を出さない感謝の心で生きる実践を説いているだけで十分なのです。

ところでその欲を出さずに感謝の心で暮らすと言うことは宗教教団や霊能者のみならず精神世界に係わる者なら誰しも書いているし学び知っていることです。

なのにそれが此れまでも疎かにされてきたということは、人間は欲無しでは生きている気がしないとか、意欲で持って(欲を持って)事を成すことがなければ生き甲斐が無いように思い込み勘違いしていたのです。

だから自ずと欲絡みの自己拡大が進むことにもなり、そのために他力に頼る事にもなり、それが原因からして不平不満と自己満足の苦楽の絶えない生活になっていったのです。

ところが職業とする宗教家や霊能者の立場にすれば、そんな苦楽の多い人間関係に疲れた人や迷い悩み困っている人から親切ぶってお金を搾取するには都合が良かったようです。

そこで霊験新たなご利益のある特別な神仏を信じることで願いが叶うとか神のご加護があるとかで安心感や期待感を与えたり、また親切な聞き手や話し相手となって病む心を癒してあげていれば、また迷い悩み困った時の神頼みで先方から金を差し出してくることからして、そんな信者・リピート客を多く集めることにも熱心になったわけです。

また宗教家らが如何に真実を語ってその真実の結果を教えても、それを聞いた者がその真実を実践しなければその結果が出ることも無いことからして、真実を語った宗教家らの腹が痛むことにはならないのです。

そこでもっと多く人を集めるにしても、欲絡みで無ければ誰も寄り付きもしないことを知っていますから、そこで悩みや困ったことを如何にも解決してくれるが如くに見せ掛けて多くの人を寄せ集める必要から、そこで人寄せパンダの如くに奇跡を成す超能力・霊力を見せることにもなったようです。

しかしそんな特別な神仏を持ち出したり、また他力の奇跡超能力を見せることなく。その困ったと思うことや他力で助けて欲しいと思うこと自体が心違いであって、本来なら今生きているだけで有難いことや生かされていることに感謝することを教えるだけにして。後は本人の思い・心・意識に任せてほっとき、その意識が原因からして成る事は成るが、成らない事は成らないと、すべては己の良いとこ取りの意識に原因があることのその事実を繰り返し語り教えるだけで十分なはずです。

しかし先ほどに書いたように、その個人の欲目を如何にも叶えられる風に超能力の奇跡を成して見せることがあるから(いつの時代にも)その他力依存の信者意識の人がその良いとこ取りしたくて寄り集まる形が絶えないわけです。

すなわち人が集まる所には(水面下で)良いとこ取りしたがる互いの欲が卍の如くに渦巻いているわけです。

そこで更にその他力依存や願望祈願や信者意識の人や欲を出して自己拡大した人の意識を再修正改革するために精神世界の深いところ(深層)を詳しく教える必然が出てきましたが、その時代ごとにそのお役を果たすべき能力者がこれまた自惚れ慢心・欲に駆られたのか、そのミイラ取りがミイラになっている史実現実があります。
ところがそうなったのも、やはり神がかり奇跡の超能力や霊力を使うことで人を集め人気を集めたかったその欲目が原因と私は見ています。

そこで先ほど書いたように、誰もが語り聞くことになるその欲張らないで感謝の心で暮らしていれば、特別な神仏の世界や精神世界や摩訶不思議の世界をごちゃごちゃと学び知らなくても(関係なく)心豊かに生きていけます。

なのに欲を出して特別を求めることが繰り返され続けているわけです。
だから「どうしようもない」わけです。
そこで欲絡みで人が集まる所から離れているほうが心休まるわけです。

ところで完全真理に係わっている人の中には霊感霊力に長けた人もいると思いますが、そんな人は完全真理の中身を学び知ることよりも持ち前の感性からして耕栄さん信者に偏っていると思われます。

そこで霊能者伊勢白山道のQ&A辞典なる書物を読めば耕栄さん信者から脱することができると思いますし、その伊勢白山道の信者さんが完全真理を知ればその信じるか否かの不完全さを知ることになり、その信頼・信者意識から脱することができると思います。

このブログは何たって毒にも薬にもならない、すなわち良いも悪いも無い、裏も表も無い、しごく当たり前の事実・事例を判りやすく書いているだけですから、信じるか否かの多い精神世界をしっかり見際めるのには役立ちます。

自らの自力自信・精神力・意識力を高めるためにも自己縮小は絶対的に必要です。

2012年09月09日 | Weblog
山田耕栄さんの完全真理の講演会を録音テープで聞いて気付き学び知ったことを耕栄さんの言葉の書き写しではなくして自分の言葉・感覚でブログに書いていましたが、それでも知識的な部分が多かったのですが、今では確信納得実感し悟ったが如くに「自分のもの」(本物)になっています。
だから山田耕栄さんの完全真理ではなくして私の完全真理になっている感があります。

その良い悪いで判断しないのくだりが完全であっても、しかし耕栄さんの思いや私の思いが入っているのは不完全になります。
だから執着しない、無理しない、素朴に生きる、その自己縮小も人それぞれに尺度質量が違いますから不完全になるのです。

しかしその内容に矛盾が無ければ事実になります。
だから「信じるか否か」にはなりません。
その信じるか否かのない事実を私は書いているつもりです。
だから裏も表も書いています。

また推測・予見が含まれていても史実や現実から引き出した結果として書いていますから事実に等しいことにもなります。

そんな中で(以前の書き込みから)変わったことにあるのが、耕栄さん自らが言っていたのと、その役を果たすかのようなファバラ・シールが出てきたことからして書いていた(他力依存的な耕栄丸なる)「ノアの箱舟」現象が起こるかもしれないと書いていましたが、今では「アダムとイブ」現象の<始まり終わる>宇宙の仕組みの事実を書いています。

また四次元の霊界が消えているとか(耕栄さん)、(伊勢白山道)消えかけていると書いているのも単なる受け売りではなくして、この世で初めてで終わりとなる完全真理が説かれだしたことからして事実に思えるから書いているわけです。

ところで自己縮小の実践が現状では無理だと書いていますが、それが仮に徳川時代以前とか、せめても明治維新以降から昭和の戦後までなら一般的生活の中でも実践可能でしたが、現在のスイッチポンの近代的生活の中での実践は無理です。

と言うのも、成り行き任せの私が必然で仕組まれていつの間にやら過疎地で単身生活するようになったことからして多く気付き学び知り実感したからこそ自己縮小の実践が続いているのであって、完全真理を知ったのが過去の自己拡大真っ最中なら(自己縮小を味わっていないから)(信じるか否かの不信感から)無理だと思うからです。

その完全真理を知る前に宇宙的愛の霊能者とご縁があり、その霊能者が意識改革の地球維新が仕組まれて起きると言われ、それも間近で今回が人間界で最後となると言われていたこともあったのと、戦後育ちの「がばい婆ちゃん」並み以下の生活が懐かしかったのも手伝ったことからして、今があるのも事実です。

と言うことは、此れまで多くの苦楽を味わう中にも素朴を味わっていた時期がある「団塊の世代」の皆さんが自己縮小に取り組む最後のチャンスとなるかもしれません。
※宇宙的霊能者も耕栄さんも伊勢白山道も他にも「この世が変わる」ことが事実として語り書いています。

此れまでの精神世界といえば宗教的になっていますが、とにかく神社仏閣参拝詣でや教団教会に寄り集まることや有料霊能者や有料先生方を信じて頼る形式(他力依存)から脱して、自らの自力自信・精神力・意識力を高めるためにも自己縮小は絶対的に必要です。

実際に実践すれば潜在意識・前世からしても目覚める事になると思っています。すなわち自己拡大の変化刺激の自己満足と不平不満の繰り返しに意識が束縛されていてどんなに精神世界を学び知っても自分のもの・本物にはならないのです。

私が釈迦やイエスのようなことをすれば多くの人が幸せになれるでしょうか?

2012年09月08日 | Weblog
私に特別な能力があって人様に指導伝授したり手助けしたりしてそれが良い結果になっても、その良い結果は一時の仮初めの途中結果ですから、その後日良かったはずの結果が悪いことにもなる可能性が十分にありますし、また他にも次々と指導伝授手助けしなくてはならないようになりますから切がありません。

だから私が人様に金儲けの方法を伝授したりそのお手伝いをしてその人が大金持ちになったとしても、それでその人は幸せになったのでしょうか?
また私が最先端医科学を施したり奇跡を成してみせて死に掛けていた人を救うことができても、それでその人が幸せになれるでしょうか?
私が真実の神・精神世界を説くだけで皆さんが幸せになれるでしょうか?
私が人様を霊視することでその人が幸せになれるでしょうか?
私が予知能力で人様を救うことができれば多くの人が幸せになれるでしょうか?
私の超能力で私の家族を幸せにできるでしょうか?
私の超能力で私を幸せにできるでしょうか?
私が釈迦やイエスのようなことをすれば多くの人が幸せになれるでしょうか?
ところが(絶対的に)「他力」では幸せになれないのです。
たとえ他力によって幸せになったと思うことがあってもそれは自己満足だから長続きしないのが事実なのです。
また奇跡が無いよりも奇跡があるほうが良いと思うことからして、その他力依存から離れられなくなったり、また惑わされて困ったことにもなるのです。

だから神がかり奇跡の実在や真実の神を知っただけでは幸せになれません。
だから過去の釈迦やイエスも苦楽・矛盾を味わっていたはずです。
だから自らが幸せでないのに何で人様を幸せに導けるでしょうか。
だから人様を導くのではなくして自らが幸せになるために今があるのです。
だから(修行するが如くに)(自力を多く使いながら)独自独歩で歩んでいくしかありません。

すなわち矛盾のある不完全な世界の中で同じ不完全意識の私たちが幸せになれるはずが無いのです。
神の世界・精神世界を知ることで(知った神を信じ頼ることで)(神がかり奇跡を信頼していれば)(他力によって)いつの日か幸せになれると錯覚勘違いしていたようです。
ところが不完全意識からは同じ不完全な矛盾のある結果が出るだけですから、その苦楽を味わうことばかりが続いているのです。

ところがその苦楽を多く味わったことでその苦楽の無い生き方の「ありがたさ」に気付く必要が(宇宙の仕組みが)有ったのです。
だから何度も書いているように、矛盾の苦楽・自己拡大を味わい、次に苦楽の無い自己縮小の自然体を味わいながら、始まり終わる宇宙の進化の仕組みに任せるしかないと書いているわけです。

だから今の変化刺激に富んだ生活から離れて苦楽の無い自然体で生きる実践が無ければ宇宙の進化の仕組みに乗れないばかりか、死後の世界の霊界さえも消えていると言われていますから、そうなると行き場の無い魂になって宇宙のチリの如くに浮遊することにもなると書いているわけです。

だから神を知る精神世界を学び知るだけでは片手落ちなのです。
また神がかり超能力者も不完全ですから役不足なのです。
またそれらのお陰で苦が消えてもまた出てくるその薬にも毒にもなる不完全な精神世界に係わっている限りにおいては、その良かったり悪かったりするその苦楽の繰り返しが続くのです。

そこで(薬にも毒にもならない)(良いことにも悪いことにもならない)矛盾の無い完全真理を深く学び知りその実践意識で生きながらの(多くの他力に頼らない)(変化刺激に頼らない)自己縮小を続けるしかないと書いているのです。

このブログに矛盾することや違和感があれば遠慮なくご意見を書き込んで下さい。

2012年09月07日 | Weblog
宗教や霊能者が説く精神世界には個人意識の不完全な思いが入っていて、信じるか否かがあり、また飴とムチの使い分けがあったりして薬にも毒にもなる場合がある、そんな善悪優劣損得の矛盾意識が混じり合っているのです。
そして人集め金集めのためのリピーターを作り続けてそれで勢力拡大や信頼度・人気度アップを目論んでいるところが隠れています。

そんなややっこしい複雑怪奇な精神世界を知ることからして不安に駆られたり迷い混乱し思考錯誤するばかりですから、それらから卒業して簡単明確な完全真理を学び知ることを勧めているのです。

ただ巷の信仰宗教や霊能者の説くことを信じて、その神仏を思い先祖を思い有難い感謝の心でいれば仮初めの安心や都合の良いことが起こることもあります。

ところが完全真理の場合は、此れまでの自己拡大をやめて反対に自己縮小を実践しなければその完全真理の真価を知ることにはなりません。
だから他力に依存しない実践真理とも言われているのです。

だから「思うだけ」「信じているだけ」「信じて願っているだけ」「あわよくばの思惑期待をこめて感謝しているだけ」では、せっかくのチャンスが(完全真理が)無用の長物になってしまいます。
その安易な精神世界を選ぶのも、または日々が修行のような難易度の高い実践でもって完全真理を本物・自分のものにするのか、その選択は自己責任でもって自由です。

ところでこのブログは完全真理が基本にありますから矛盾も妥協もありません。
だから飴とムチの使い分けや薬にも毒にもなることはありません。
確かな真実の精神世界を知る「肥やし」になると思って書いています。

その中に私の個人的な思いが多く書かれていますが、その中身は完全真理と照らし合わせて私が事実だと確信納得したことを書き込んでいますから迷い混乱することにはならないと確信しています。
ところが(概ね)私の私的な内容には関心が薄くて、(同じことを書いていても)特別な人が書く内容には信頼を寄せるところがあります。

だから私の思いで書いた月信仰やムー大陸や縄文時代のこと、また自己拡大が始まった弥生時代や太陽信仰のこと、また始まり終わるアダムとイブのこと、食って寝て糞をするその事実で生きること、自然体の成り行き任せに生きること、すべてが必然ご縁の仕組みで起きていること、また不完全だけにほっとくしかないことを書いていることに、何とか納得理解することがあっても、そんなに重要には受け止めないかもしれません。

それと世間的には、陰的で静寂な月信仰や欲張らない自己縮小に不信感を持ち、反対に太陽信仰の自己拡大につながることや霊視して良い悪いで判断した不確かな内容を信頼する事になる人が多いかもしれません。

そこでこのブログに矛盾することや違和感があれば遠慮なくご意見を書き込んで下さい。
暇で退屈している私には変化刺激になって都合の良いことになりますのでご協力して下さい。


同じ精神世界を語る者同士で食い違う見解があります。

2012年09月06日 | Weblog
私が住む庭先に境界線を示すために杭打ちした生木がいつの間にやら根を張り枝葉をつけて成長し続けて今では大木となった学術的には非常に珍しい成長を遂げた(学者が見に来た)「ニョロの木」がありますが、そんなニョロの木の生命力には凄いものがありますから、地元の霊能者が「気を吸い取られている」と言って私に切り倒して除くほうが為になると教えてくれたことがあります。

しかし私には成り行き任せの呑気さや否定反発排除しない性格ですから、そんな事を気にしないでほっといていますので、その大木が強い雨風を防いでくれていますし、夏場は涼しい木陰を与えてくれています。

それと同じように伊勢白山道なるものが「月は魔力」だからとか、人間の意欲・向上心を吸収している悪い月だとして戒め、己が信じる太陽を褒め称えているのが、先ほどのニョロの木を排除しなさいと言った霊能者とが合致します。

これまた私の中には、太古の月信仰でもって自己縮小の生き方になっていたのにその月信仰を滅ぼした太陽信仰が自己拡大を促し今では地球人類を破壊崩壊している事実として見ていますから、自己拡大を勧めるような形の伊勢白山道と自己縮小を勧める私との見解・思いが違っています。

ところで私とご縁があった宇宙的愛の霊能者は否定反発排除しないで愛でもって語りかけ気付かせて修正することお役にしていましたし、静寂な月信仰であり水の如くの水信仰でした。

その何れが正しいかを書いているのではありません。
表もあれば裏もある、良いと思えば良いことに思えるし、悪いと思えばそれが悪いことに思える、その薬にも毒にもなる信じるか否かの不完全意識の裏表・矛盾で困惑する事実を書いているのです。
(特別な能力者が言ったことを)気にすれば気になるが、気にしなければ気にならない、その事実を書いているのです。

また宗教家や霊能者がいうように、信じることや思いを伝えることで事が成せるのも事実に少しはありますが、不完全意識から始まった結果は同じ不完全ですから、良いときもあれば悪くなるときもあります。

しかも信じることや思いを伝えるだけで事が成るとなると、その他力的要素がある安易な形では意識力・精神力・実践力の自力自信に欠けていますから、この先の混乱から破壊につながる時代の流れに沿うには難しいところがあります。
だから薬にも毒にもなることを信じることよりも、信じる必要が無い完全真理を学び知りそれを実践することを(多くの事例を示して)書いているわけです。

ところがどうやら実践力を多く必要としない不完全な精神世界に身を置いていたがる安易なところがあるようです。
そんな安っぽい精神力でこの先を乗り切れると思っていれば真坂の有事に遭遇して困った事になるかもしれませんが、自己縮小を実践している人にはその有事が有事に思えないだけの精神力・意識力・自力自信が身に付いてきます。

そして温暖化で氷が解けて水になっている事実があるように、精神世界で言うところの氷意識の時代(比較競争・自己主張・自己拡大)が終わり「水意識」(意識が解け合い判り合える調和)時代が来ることが言われています。

その自己拡大を選ぶのも、また自己縮小を選ぶのも、あなたの意識が決めることだと書いているし、また既に霊界が消えかけているとも、また水の時代が来るとも、伊勢白山道も同じように書いていました。

だから完全真理以外の個人的な思いが入った真理になると合致するのと食い違うものがあって、その食い違ったことを言い合う形やそれを互いが正しいとも言い合うことになれば、それが第三者には複雑怪奇にもなり、また善にも悪にも正義感にもなるのです。
だから「完全真理」を学び知ればその複雑怪奇・不完全を見極められるようになるのです。