孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

過去を捨てられない不完全な自己縮小

2008年12月10日 | Weblog
山田耕栄さんの完全真理を学び知り、良い悪いを持たない自己縮小の実践をしている人がいるとは思いますが、完全を知ったからには、その他の事が不完全であることは百も承知していると思われます。
過去から引き継がれている伝統や風習は無論のこと、此れは良いがあれは悪いといった「良いとこ取り」をした4次元の不完全な形も多いのです。
しかも完全意識に到達してもいないのに悩みの相談を請けて先生ぶっている形があったり、ヒーリングやセラピーといった形を手がけている人もいるかもしれません。

私も以前は想念の世界や摩訶不思議な水の世界を知り、その良いとこ取りした奇蹟が起こる浄水器に一生懸命だったこともありますが、その浄水器に限らず、それら製品や商品・グッツを作り提供している製作製造者の不完全な意識・想念が(万物全てが意識体ですから)記憶・伝達・転写される事を知る人は少ない筈です。 それを伝授してくれた神がかり的な人が販売する浄水器に過ぎた欲が絡み始めたことから惜しげもなく撤退しました。

良いとこ取りしている不完全な意識の人が作った形や商品には良いこともあるが、(表の良いと裏の悪いが出て)見えないところの意識に影響する副作用や弊害、洗脳や強い思い込みもあるのです。 だから巷に被害者が時々出ているでしょう。
良いとこ取りの陰に搾取略奪の金儲けの手段があったり、ヒーロー主人公になりたがっている意識だったり、名誉権威権力を欲しがっていたり、一角の意識や救世主意識を隠して持っている場合が多いのです。 不完全な意識が完全なものを出すことは出来ないのです。 すなわち完全な神・愛、われ神なり、われ愛なり、以外はすべて不完全なのです。
だから自己縮小するさいに捨てていかなければ差別・特別意識を持った不完全意識のままに自己満足し自己主張や顕示することになり、私は正しいの自惚れ慢心と嘘偽りの偽善になるのです。 だから差別・特別意識からなかなか抜け出せないでいるのです。

そして、不安恐怖や怒りから逃避することになる趣味嗜好娯楽を持たないでいると暇で退屈しますが、その趣味嗜好娯楽による肉体的・精神的・経済的・時間的ストレスが無くなるだけでなく、それらを意識して支配されていることから脱却できます。
そして趣味嗜好娯楽の大きな喜びが無くなった反面、今までに意識していなかった他愛無い実在・本物に気付き知ることになり、小さいけれど心で感じるようになります。
今までに見て知っていても、直接触れて味わっていなかったことに気付きます。
何も知らないのに知ったかぶりをしていたことに気付きます。
あれこれ頭で思い考え想像するより、どうせ暇なのだから、思いついたが百年目のご縁と思い、とりあえずやってみることで多くを実感してきました。
出かける際に忘れ物を思い出した時にそれが大した事でなくても引き返すことにすれば、忘れ物以上に大事な事を忘れていたことに気付いたり大事な電話が突然掛かって来たりすると、それが必然で起きた事と気付き、思いがけない感謝になることも多くあります。 その必然ご縁が自覚できるほどに、その必然ご縁に多く気付く事が出来るようになります。 個性感性で思いつく、気付くということは、結果を予測できないが思わぬ展開が待っている、必然になります。 しかし事前に思惑・目的を持って行動すれば、その思惑目的が泡と消えて落胆することになりかねません。 だから思惑期待を待たないように縮小する実践を心掛けています。

質素倹約な年金暮らしで満足していますから、レストランや料理屋さんの食べ歩きや観光名所巡りや温泉巡りにもいっさい興味がありません。
味や風味は違っていても美味しさが同じであれば100円のサンマで満足できますから、特別なウナギや刺身を欲しがる事がなくなります。
産地や品質賞味期限は気になりませんから、なんでも安心・信頼して購入しています。
安心安全信頼があれば、汚れ、ばい菌、害虫などの衛生観念からくる拒否反応や毒ヘビ・ムカデ・ハチなどの外敵警戒心や敵がい心も薄らぎます。
一度使用不能になったオンボロ洗濯機やガス器具を自力で修理して再び使えるようになるとその喜びと愛着心が出てきます。 
当初の廃屋がまさしく幽霊屋敷風だったのに、それを掃除したり手入れをすることで生き返ったようになり、安心安全の自信と愛着が出ます。 そして今まで知らなかった田舎ならではの快適便利さや面白さに気付くことができます。
ガスコンロの備品不足で絶対に着火・燃焼するはずもないと専門知識で否定する人が使えば着火燃焼しなかったが、そんなこととは全く知らない素人が使うと何とか着火して燃焼することが出来た事例まであります。

これら事実を作り話と思うも勝手ですし、これらを素直に信じたとしても、その信じた人に事実や実感がこの文書で正確に伝わるはずもありませんから、やはり想像になります。
だから自らが思い気付き動き実践してこそ何ぼの話になります。
言うだけ、聞くだけ、思うだけ、そんな非実在の生き方をしている限り実在するものには必然で巡り出会えません。 
それを教えてくれているのが山田耕栄さんの完全真理です。