真理を深く知ることも大切ですが、実践しなければ何の意味もなくなってしまいます。
その実践意識の中に「雨やんで傘を忘れない」「感謝」が出来る人になれば愛の人に相応しい意識を持ったことになります。
有り難うございますと感謝されて悪く思う人はいません。 何度感謝されても嬉しいものです。 それだから「感謝される立場」になろうとしている人も多いと思います。 それが慈善事業や奉仕活動や救済援護・擁護活動などの名目で現れています。
しかし、感謝される立場に立てばそれが自己満足にもなり、しかも「私は正しい」ことをしていると自惚れ慢心になりやすいのです。
その自惚れ慢心や自己主張になれば、己の名誉名声を望んだり、自分の実行力の肩書き名刺を得るなどの思惑とその期待の欲になり、それは偽善となります。
・・・それが感謝する側だと・・・
人様の行為のお蔭様に感謝して素直に「ありがとう」と言ったことで、相手もそれに応えたような喜びの笑顔が返ってきた時に、私の中にもその喜びが伝わって来て、なんとも言い表せないような爽快な気分になった時に気付きました。
感謝される立場ではなくて「感謝する側」の人になれば、人を幸せな思いにさせるだけではなくて自分も幸せな思いになれることを知ったのです。
それ以来しぜんと有り難うの言葉と喜びの笑顔が出るようになったのですが、それでもまだまだ未熟なところがあって、事前に何かを察知するとそれが思惑がらみになって、その思惑と違えば感謝する心に差が出て、ありがとうの思いはあってもアリガタイ感謝の心が出ていないのです。 すなわち自然体とは違う事前に思惑を持っていたからです。 それに気付いてからは思惑を持たないように心がけてはいますが、それが中々の曲者でして、その思惑を断ち切ることは至難の業のように思っています。
それをきっかけにして気付いたことが、事前に予測推測する「思惑」に左右されている自分の心・意識があることから、その思惑が外れて気落ちしたり、わびしい思いや孤独感が出ることもわかりました。
すなわち、人それぞれが自分さえ良かったらの個人意識の思惑を持って動いていますから、自分の判断が必ず相手にとって的確とは限りません。
だから相手先の良い結果になるだろうと思惑を持って行うと、いらぬ口出しやお節介になる、お仕着せ強要になる、いらぬお世話を買って出たことになる、でしゃばった事・・・になるのです。 その原因は相手も先入観・予測推測・思惑を持って応えているから、それが行き違いやすれ違いで誤解・勘違いされたりするからです。
すなわち相手がいる場合は・・・必要とされてもいないのに「自分だけ」の判断や思いで簡単に行動に移すものではないこと、それがありがた迷惑になること、それが続くと嫌がられることにもなります。
だから見掛けや先入観で余計な動きをせずに(動きたがらずに)余裕で待ち、求められ必要とされたときに即座に行動に移せるだけで十分なのです。
余計なことを思い考えないで、その場の成り行きから自然に出て気付いたりしたことを即座に隙間を挟まないで率直・素直に表現したときは必然になり相手に届きます。
それが欲の無い、自分に出来るあたり前のことであり、それが役割を果たしていることになります。
その役割の質の違いは人それぞれに違いますが、量・回数の差はありません。
何かと親切心を出して感謝される立場になることを考え、自分勝手な判断や思惑を挟まないことです。 だから予測思惑から前もって買って出るものではなく、または偽善の優しさ思いやりの親切心や人の苦労を買うのではなくて、必要とされたときに自分に出来るあたり前の役割を果たせばそれが愛になります。
だから差をつけるような特別なことを思い考えるのではなく(目的や理想を持たずに)、今の自分に出来ることをあたり前にやっているだけで十分なのです。
だから「あるがまま」の自然体で今を生きることが必要とされているのです。
その実践意識の中に「雨やんで傘を忘れない」「感謝」が出来る人になれば愛の人に相応しい意識を持ったことになります。
有り難うございますと感謝されて悪く思う人はいません。 何度感謝されても嬉しいものです。 それだから「感謝される立場」になろうとしている人も多いと思います。 それが慈善事業や奉仕活動や救済援護・擁護活動などの名目で現れています。
しかし、感謝される立場に立てばそれが自己満足にもなり、しかも「私は正しい」ことをしていると自惚れ慢心になりやすいのです。
その自惚れ慢心や自己主張になれば、己の名誉名声を望んだり、自分の実行力の肩書き名刺を得るなどの思惑とその期待の欲になり、それは偽善となります。
・・・それが感謝する側だと・・・
人様の行為のお蔭様に感謝して素直に「ありがとう」と言ったことで、相手もそれに応えたような喜びの笑顔が返ってきた時に、私の中にもその喜びが伝わって来て、なんとも言い表せないような爽快な気分になった時に気付きました。
感謝される立場ではなくて「感謝する側」の人になれば、人を幸せな思いにさせるだけではなくて自分も幸せな思いになれることを知ったのです。
それ以来しぜんと有り難うの言葉と喜びの笑顔が出るようになったのですが、それでもまだまだ未熟なところがあって、事前に何かを察知するとそれが思惑がらみになって、その思惑と違えば感謝する心に差が出て、ありがとうの思いはあってもアリガタイ感謝の心が出ていないのです。 すなわち自然体とは違う事前に思惑を持っていたからです。 それに気付いてからは思惑を持たないように心がけてはいますが、それが中々の曲者でして、その思惑を断ち切ることは至難の業のように思っています。
それをきっかけにして気付いたことが、事前に予測推測する「思惑」に左右されている自分の心・意識があることから、その思惑が外れて気落ちしたり、わびしい思いや孤独感が出ることもわかりました。
すなわち、人それぞれが自分さえ良かったらの個人意識の思惑を持って動いていますから、自分の判断が必ず相手にとって的確とは限りません。
だから相手先の良い結果になるだろうと思惑を持って行うと、いらぬ口出しやお節介になる、お仕着せ強要になる、いらぬお世話を買って出たことになる、でしゃばった事・・・になるのです。 その原因は相手も先入観・予測推測・思惑を持って応えているから、それが行き違いやすれ違いで誤解・勘違いされたりするからです。
すなわち相手がいる場合は・・・必要とされてもいないのに「自分だけ」の判断や思いで簡単に行動に移すものではないこと、それがありがた迷惑になること、それが続くと嫌がられることにもなります。
だから見掛けや先入観で余計な動きをせずに(動きたがらずに)余裕で待ち、求められ必要とされたときに即座に行動に移せるだけで十分なのです。
余計なことを思い考えないで、その場の成り行きから自然に出て気付いたりしたことを即座に隙間を挟まないで率直・素直に表現したときは必然になり相手に届きます。
それが欲の無い、自分に出来るあたり前のことであり、それが役割を果たしていることになります。
その役割の質の違いは人それぞれに違いますが、量・回数の差はありません。
何かと親切心を出して感謝される立場になることを考え、自分勝手な判断や思惑を挟まないことです。 だから予測思惑から前もって買って出るものではなく、または偽善の優しさ思いやりの親切心や人の苦労を買うのではなくて、必要とされたときに自分に出来るあたり前の役割を果たせばそれが愛になります。
だから差をつけるような特別なことを思い考えるのではなく(目的や理想を持たずに)、今の自分に出来ることをあたり前にやっているだけで十分なのです。
だから「あるがまま」の自然体で今を生きることが必要とされているのです。