孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

被害者が加害者にもなる矛盾とその連鎖

2008年12月08日 | Weblog
この世は良い悪いで比較競争して差をつけたがる世の中ですから、勝ちたいから負けたくない、得をしたいから損をしたくないと、表と裏の両方を気にして生きています。
だから競争で負けることは「損をした」ことになり、勝てば「得をした」と思います。
また損得勘定で多い少ないの差を意識しますから、人より少なければ「損」になり、多ければ「得」に思います。 またご褒美が多い少ないで損得勘定が出てきます。 だから時として奪い合いになります。
だから無償の愛で与えられた物であっても、少なければ損、多ければ得に思いますから、無償の愛(水や資源)を我先に奪い合うことも平気になります。 

だから常々から自分より多く持っている人を羨ましがったり、焼きもち妬みの嫉妬・ジェラシーになって、人の幸せが自分の不幸に思えてきます。 その羨ましがっていた人が失敗して困っているのをみると「ざまーみろ」と思ったりして、人の不幸を見て自分が幸せに思えたりするのが我々個人意識の人間です。

そんな損得勘定で判断していますから・・・
例えば損害被害者が賠償を求めて取り返すことは、済んでしまった過去を許すという愛が無いから、過去の被害者が今度は奪い返すという仕返し復讐・報復行動の加害者になるのです。 取り返す事が出来ない過去を「返せ」と、無理難題を主張して相手を困らせている加害者になるのです。 二度と取り返す事が出来ない過去、その過去を別な形に変えて「返せ」と押付けて、別な形の犠牲を強要している加害行為になります。

強盗殺人の被害者が加害者に死刑を願うのも、過去を刑罰という形にして、また別な形で報復・強要していますから、それが裁判で確定して死刑が執行されれば、その形は正当であっても人を殺しにかかった(嘱託)という形になります。 過去を許す愛が無かったために、いま生きている人を無理やりに殺す結果、すなわち形は違うが死刑を課すという人殺しの加害者になったのです。
・・・死んだ生命を生きた生命と引き換えで元道理に取り返すことは出来ないのに・・・
しかも死刑囚の家族や親戚までが世間の冷たい仕打ちに困り果てることになって、一つの事件の被害者に止まらずに形の違う被害者が大勢出ているのです。 そしてその加害者側の被害者が生活に困り果てた時に別な犯罪の加害者にもなりかねません。 それが原因でまた同じように別な家庭で連鎖的に被害者や加害者が出る可能性もあります。

それが戦争やテロによる怒り・憎しみ・嫉妬・復讐ともなれば、その被害者が怒りや復讐で戦闘やテロに加わって更に大勢の被害者を出しますから、そのまた被害者が戦闘やテロに加わり更に被害者を増します。 
被害者が加害者になったり、加害者が被害者になったりする矛盾が起きています。

この繰り返し連鎖がある限り己が被害者でもあり加害者でもあるという、皆が被害者加害者の集団になります。 と言うことは、今の私達も(見えないところの)被害者と加害者の裏表関係でお互いに裏切り合って来たのに、その「お互い様」の愛で過去を許し忘れることが出来なかったのです。

許せないのは・・・先ほどのように、自分だけが損をするのが我慢ならないのです。 自分だけが不幸なのは割に合わないのです。 相手が不幸にならなければ腹の虫が治まらないのです。 すなわち人の不幸が自分の幸せになるのです。 

しかし加害者を愛で許すことにすれば、今までの自分の中の怒りや嫉妬・復讐報復の醜い心が愛で許されて、それまでの頑固未練執着の心から開放されるのです。 

それが完全真理で言う・・・良い悪いで「人を責めない・自分を責めない」になります。