孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

真理と感謝の「キャッチボール」を楽しむ

2008年12月31日 | Weblog
家族と離れて県外の過疎地で生活するようになったことで・・・
あらゆる「しがらみ」から解き放たれました。
すなわち、形作られた世間的常識・規律・風習・伝統に従う行事や儀礼、例えば冠婚葬祭やお見舞いにお祝い事、地域の風習、それらの見栄や世間体を気にする、我が子の仕事振りや生活態度を気にする、家族親戚や地域の差し出口を気にする・・・など等、真理で言うところの「差」のある不完全な形や、思い考えるだけの非実在に「こだわり」執着することから離れ解放されました。

しかし「しがらみ」から離れない人が殆んどでしょう・・・
その原因が「守り」にあります。 その大部分が見栄や世間体を守ることであり、世間に恥をかきたくない、だから我が子の行動も気にする、そして家族や親戚や地域にも目を光らせるが、反対に自分にも人の目が差し向けられている矛盾がある。
そんな不安不信・ストレスを抱えていても、自分のことが大事だから守るのです。
しかも、その守り続けることで更に不安不信・ストレスがどんどん拡大していることに気付かないで、ただ不安不信を募らせる一方なのです。

私自身が世間体や見栄から離れたことで、人のことが気にならなくなっています。
それだけに余計なことに目や耳を向けることがなくなりました。
すなわち、キョロキョロよそ見をしない、聞き耳を立てない、だから表現行為行動をあまり気にしない、だから礼儀作法を気にしない、とにかく相対する用件・用事の本題にしか意識が向かないのです。

そして訪ねた家の中が整理されていなければ、それはそれでその方が人の目や見栄や世間体を気にしていない証しだから、私自身もありのままをさらけ出して居れます。
それが反対に立派な玄関と家具調度品に囲まれ、チリも落ちていない清潔感と整然と整理整頓された部屋構えの家には足が向きません。 世間で言うところの立派な家や一角の人には縁が無いのです。 

過去に雛飾りや武者飾りや鯉のぼりを贈られるとそれなりに喜びもありますが、それが相手の見栄や世間体や儀礼的な思いがあっても、その思いを素直に受け取る気持ちがあってのことで、その質や量に関係はありませんでしたから、今でも差し出されるものはありがたく受け取ることが出来ています。
それがたとえ今の私に全く無用のものや有り余っているものでも、それらの品々を他の人に譲り渡すことが出来るものであれば、遠慮しないで快く(気持ちを)受け取ります。
それがたとえ見た目に劣る野菜や季節の品々でも、それを喜んでいただける相手に受け取って頂いています。
そんな方々とご縁があるのも、無駄にしないで済む「ありがたい」ことになるのです。

有り余った物を出しだすのだから過ぎた欲得の損得勘定や思惑がないのに、何かと理由をつけて断ることを優先したり、感謝以前に気兼ねすることが先になったり、直ぐに儀礼のお返しを考える人は、人と素直に接し触れ合うお互い様の喜びや分かち合う喜び感謝の気持ちが失われています。 
すなわち心・絆をつなぐ為のキャッチボールが下手な人になります。
そのキャッチボールが出来ない隔たりや差のある人に限って、自分に都合がいい事だけを喜んで受け取る「良いとこ取り」の差別意識を持っています。 だから心の感謝ではなくて儀礼に捉えます。

すなわち、人の目を気にしたり、見た目の外見・形ばかりを気にして暮らすことよりもっと大事なことがあるのです。 それも多くはありません。 たったのひとつの愛、優しさ思いやり感謝の愛を大切にすることです。
ひとつの愛ですから、世間で言われる偽善の愛、他の愛には関わらなくてもすむのです。
すなわち世間の常識で形作られた伝統や風習や道徳から出る「形」は愛ではありません。

真心から出る愛に形はありませんが、良い悪いで判断している人間が作った形には良いと悪いの裏と表の矛盾とその差が必ずあります。
だから形にするのは「私」を出して、良いところの己を主張顕示して他との差を示したのです。 だから、その差のある人間が形作ったあらゆる形には愛はありません。 
それが恋愛でも結婚でも家族や親戚であっても、表し示す形には愛はありません。
その心から出るひとつの愛、優しさ思いやり感謝の愛が無ければ、それは他と差を付け合う比較競争関係や束縛制限支配する関係や思惑を裏切る関係しかありません。

とは言っても今の人間に本質の愛(役割個性)を持っています。
ただそれを素直に出せないで居る限り不完全な愛であり、言うだけや聞くだけの愛、思い考えた非実在の愛で生きていることにもなりますから、実在する万物の愛・人の愛に直接接し触れ合うことが出来ないだけに、この世に生まれ育ち死ぬまで孤独な生涯となるのです。
だから、世間的な不完全な夫婦や家族・親戚・地域などの差のある偽善の絆に頼ることなく、今の自分に出来るあるがままの自力・役割を通して、一人でも多く人と愛の絆で接し触れ合うことが出来るように実践していかなければならないと確信しています。

しかしそう簡単ではありませんから、せめて嘘偽りの無い自然界に身を置いて孤独を楽しみながら、時々と続いている感謝し合えるご縁の人を大切にして、また共に未熟ながらもご縁あっての真理を学ぶ仲間と共に接し学び合える事を生きる糧にして、あとは食って寝て糞をするだけのような生活を続けながらも、それらのご縁の絆が愛の絆になる事を待ち続けながらもそのキャッチボールを楽しみ続け、それでも急ぎ慌てず、過ぎた思惑・欲を出さないように、その自己縮小の実践を躊躇わずにして、ただただ生きていくことを意識しているところです。

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