以前の私は世間的にカッコよい仕事をし、それに見合った生活をしていました。
しかし今はカッコよい仕事を自主廃業して過疎地で月5万円の年金生活を送っています。
その生活に慣れ親しむ程に暇で退屈になりました、それでも何をするわけでもなく、ただ何となく一日が過ぎ、そして8年が過ぎましたが、未だに暇で退屈しています。
先ず始めにやりだしたのがご近所で放置されている荒地や農道や道端の草刈でした。
暇つぶしにやることだから大した思いでやり始めたわけではありません。 自分にやれることだからやっている内にやり続けることが出来るようになっただけです。
そのついでに、ご近所周りに昼食をご馳走になるだけでいいからとお手伝いを志願しましたが、今の世の中に労賃は要らないというような人が居る筈もないと不心に思われ、なかなか相手にしてくれませんでしたが、今は2箇所のお宅で時々お手伝いをしています。
それだけでは暇で退屈だから犬やヤギや鶏を放し飼いにしているし、風呂釜の焚き木や割り竹を山のようにあちこちで積み上げています。
と言うことからも判るように、私には暇で退屈なのが一番困るわけです。
だから、その暇で退屈でやりはじめた事ばかりですから、単純明快で、大した目的意識や大義名分も無くやってきました。・・・もちろん大したことはやっていませんが・・・
だから今までにも色々とやってはきましたが、それが自分に向いていないと判ればあっさり引き下がる私ですから、これまた単純明快で今までに無理も執着もしていません。
だからネットの書き込みも退屈しのぎの部分が多くを占めます。 そして飽きれば直ぐにやめ、やりたくなれば再開するというようにしています。
そして、知ったことや知っていること(自力・自信)を書き込むだけですから、迷い混乱や葛藤することも無く、(時間を忘れて)常に冷静・平常心で書いています。
今回9年目にして初挑戦した「干し柿」作りも、以前から全く感心がなかったから今まで取り組むことはしませんでした。・・・自分に必要ないことは必要としないし、したくないことはしないで済むから・・・
ところがあまりにもすることが無いから、お手伝いの返礼で頂いた柿(町で住む家族に持って帰る予定だった柿)の皮をむくことにして、軒下にそれを吊るしてみたのです。
その10個の柿を吊るした一本のひもがなんか風流に見えてきたので、それならと次々と皮をむいて吊るすと、それが柿のカーテンのようになって、此れこそが田舎の景色に見えて、今では200個以上の柿が吊るされています。
長々と書いたようですが、結論を早めれば・・・目的意識や思惑理想を持ってやれば、それが上手く行ってあたり前になるが、反対に上手く行かなければ思惑通りにならないことで苛立ち焦りや苦悩につながるのです。 しかも、努力や無理をして得た喜びの殆んどは単なる自己満足で終わり、もっと、もっとと、欲張ることになりまた無理をします。
目的があって、その目的のためにやったのは自己満足・自惚れになりやすいが、単純な思いつきから、とにかくやってみたら思わぬ結果が出たのは自然体で始まったことだから、人からのお仕着せや自分の欲で始めた事では無いだけに、小さな他愛も無い、何気ないことに感動が味わえるのです。 誰かの指導教育やその努力の結果では無くて、また思惑期待もなかっただけにその魅力・成果を十分に肌で感じることが出来たから、他愛無いことを面白おかしく楽しんでやれるのです。 それが自分に出来る自力・自信になり、暇で退屈しているのに、生きていることを時たま実感出来るのです。 そして8年が過ぎたのです。
誰が見ても他愛無いことをやっているのに、それが感動にもなるのです。
意識次第で草刈や草抜きといった単純軽作業が喜びにもなれば苦にもなるのです。
どうしてもやらなければならない事(目的)になると責任や負担の苦を感じるのです。
暇で退屈だからやっているのと、少しでもお金にしようと荷物を背負っているのとは根本的に違うのです ・・・そうして稼いだお金で少々の贅沢や趣味嗜好娯楽に費やしても、一体何が残るのでしょう・・・ 比較競争・差別の自己満足・主張・顕示することになるだけです。 だから、私にはお金を稼ぐ時間よりも貧乏暮らしの「暇で退屈な時間」を持つことがより深く真理を知ることになり、それが私の生き方にも役立っていることになるのです。
そんな暇な時間を有効に使えるチャンスが来ればいつでも素早く動けるから、そのいざという時に動ける体制で(自分に出来る小さな)役割使命が来るまで何とか暇つぶしをしながら、いつも通りに食って寝て糞をしながら生きていくことが出来るのです。
これもひょっとして私の言い訳正当化になるのかな・・・
しかし今はカッコよい仕事を自主廃業して過疎地で月5万円の年金生活を送っています。
その生活に慣れ親しむ程に暇で退屈になりました、それでも何をするわけでもなく、ただ何となく一日が過ぎ、そして8年が過ぎましたが、未だに暇で退屈しています。
先ず始めにやりだしたのがご近所で放置されている荒地や農道や道端の草刈でした。
暇つぶしにやることだから大した思いでやり始めたわけではありません。 自分にやれることだからやっている内にやり続けることが出来るようになっただけです。
そのついでに、ご近所周りに昼食をご馳走になるだけでいいからとお手伝いを志願しましたが、今の世の中に労賃は要らないというような人が居る筈もないと不心に思われ、なかなか相手にしてくれませんでしたが、今は2箇所のお宅で時々お手伝いをしています。
それだけでは暇で退屈だから犬やヤギや鶏を放し飼いにしているし、風呂釜の焚き木や割り竹を山のようにあちこちで積み上げています。
と言うことからも判るように、私には暇で退屈なのが一番困るわけです。
だから、その暇で退屈でやりはじめた事ばかりですから、単純明快で、大した目的意識や大義名分も無くやってきました。・・・もちろん大したことはやっていませんが・・・
だから今までにも色々とやってはきましたが、それが自分に向いていないと判ればあっさり引き下がる私ですから、これまた単純明快で今までに無理も執着もしていません。
だからネットの書き込みも退屈しのぎの部分が多くを占めます。 そして飽きれば直ぐにやめ、やりたくなれば再開するというようにしています。
そして、知ったことや知っていること(自力・自信)を書き込むだけですから、迷い混乱や葛藤することも無く、(時間を忘れて)常に冷静・平常心で書いています。
今回9年目にして初挑戦した「干し柿」作りも、以前から全く感心がなかったから今まで取り組むことはしませんでした。・・・自分に必要ないことは必要としないし、したくないことはしないで済むから・・・
ところがあまりにもすることが無いから、お手伝いの返礼で頂いた柿(町で住む家族に持って帰る予定だった柿)の皮をむくことにして、軒下にそれを吊るしてみたのです。
その10個の柿を吊るした一本のひもがなんか風流に見えてきたので、それならと次々と皮をむいて吊るすと、それが柿のカーテンのようになって、此れこそが田舎の景色に見えて、今では200個以上の柿が吊るされています。
長々と書いたようですが、結論を早めれば・・・目的意識や思惑理想を持ってやれば、それが上手く行ってあたり前になるが、反対に上手く行かなければ思惑通りにならないことで苛立ち焦りや苦悩につながるのです。 しかも、努力や無理をして得た喜びの殆んどは単なる自己満足で終わり、もっと、もっとと、欲張ることになりまた無理をします。
目的があって、その目的のためにやったのは自己満足・自惚れになりやすいが、単純な思いつきから、とにかくやってみたら思わぬ結果が出たのは自然体で始まったことだから、人からのお仕着せや自分の欲で始めた事では無いだけに、小さな他愛も無い、何気ないことに感動が味わえるのです。 誰かの指導教育やその努力の結果では無くて、また思惑期待もなかっただけにその魅力・成果を十分に肌で感じることが出来たから、他愛無いことを面白おかしく楽しんでやれるのです。 それが自分に出来る自力・自信になり、暇で退屈しているのに、生きていることを時たま実感出来るのです。 そして8年が過ぎたのです。
誰が見ても他愛無いことをやっているのに、それが感動にもなるのです。
意識次第で草刈や草抜きといった単純軽作業が喜びにもなれば苦にもなるのです。
どうしてもやらなければならない事(目的)になると責任や負担の苦を感じるのです。
暇で退屈だからやっているのと、少しでもお金にしようと荷物を背負っているのとは根本的に違うのです ・・・そうして稼いだお金で少々の贅沢や趣味嗜好娯楽に費やしても、一体何が残るのでしょう・・・ 比較競争・差別の自己満足・主張・顕示することになるだけです。 だから、私にはお金を稼ぐ時間よりも貧乏暮らしの「暇で退屈な時間」を持つことがより深く真理を知ることになり、それが私の生き方にも役立っていることになるのです。
そんな暇な時間を有効に使えるチャンスが来ればいつでも素早く動けるから、そのいざという時に動ける体制で(自分に出来る小さな)役割使命が来るまで何とか暇つぶしをしながら、いつも通りに食って寝て糞をしながら生きていくことが出来るのです。
これもひょっとして私の言い訳正当化になるのかな・・・