孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

感謝の無い人には差別・不自由がある

2008年12月09日 | Weblog
感謝の無い人には差別や不自由が有り、確かな満足がありません。
今の時代「雨やんで傘を忘れている」感謝の無い人達ばかりですから、宇宙の仕組み・必然から、万物のありがたさ・お蔭様の感謝を思い知らされる地震や津波や台風・豪雨・干ばつ等の自然災害が以前に増して起きております。 そこで水や食や住居のありがたさ、エネルギーや快適便利さのアリガタイことに気付かされています。

記憶に残る阪神淡路大震災であらゆるものの有り難さが身にしみた人も多いと思います。
しかし気になったのは、災害復旧が進むにつれ欲を出す人が大勢出てきたことです。 
感謝の無い人が欲しがります。 口では感謝を言っても、あれが欲しい此れが欲しい、もっと欲しいと欲張っています。 感謝を言ったあとで直ぐに何が足らないと欲しがったり、あれこれと文句・不平不満を言っていた人は、感謝は心ではなくて、感謝は言葉でいいとさえ思っているのです。 

そして「雨がやむ度に傘を忘れて」しまっているから、(何か困ったことになると)「新たな傘」を欲しがることから、その人には傘が何本あっても足らないのです。 
すなわち感謝することではなくて、不平不満を言う事があたり前に思っていて、それが「正しいこと」と思っているから不平不満が言葉になって口から出るのです。 だから不平不満が出ている限り感謝の心は絶対に出てきません。

だから「良い悪い」で分離判断して、自分に都合が悪ければ人を責めて不平不満に思う人には感謝の心はいっさい無いのです。 欲しがり求めることに熱心すぎて得る事があたり前になり、あたり前だから言葉の感謝だけでも良いと思っているのです。
そのあたり前の言葉だけの感謝の裏には・・・たったこれだけなの、もっと持って来て欲しかったのに、次も期待しているからね・・・等と思う不平不満・思惑期待があります。
 
生きていることに感謝があり、また与えられ持っているものに感謝があれば、それだけであり難く十分に思っていますからそれ以上は欲しがりません。 アリガタイ感謝で心が一杯になっていれ欲張らなくてすむのです。
満足があればそれ以上は求めません。 「雨がやんでも傘を忘れない」人だから、無いものを欲しがりません。

いま有る物に感謝があればそれ以上は求めませんが、感謝が無ければそれ以上を求めます。
その求める事が正しいと思っているから次々と拡大していきます。 すなわち止まる事を知らないままに突き進んでいきます。 しかも最後の行き着くところまで必ず行きます。それが自己拡大してきた今の私達であり、破壊・崩壊に突き進んでいることになるのです。
このままではもう手遅れになります。
もういい加減にして、自分の首を自分で絞める事をしないで、優しさ思いやりの愛・感謝の心を持てるように一人一人が意識改革していかなければなりません。 

感謝の心が無い人ほど、あれが無い此れが無い、あれが欲しい此れが欲しいと、生活に不自由して困っていると思っているのです。 
物質に恵まれて快適便利で豊かな生活が出来ているのに何で不自由なのでしょうか? 
今に感謝できないのは過ぎた欲を持っているからです。 だから不平不満の人生を歩むことになっているのです。 国家社会や人の性ではなく自分が選択した山坂谷のある「差のある」「欲な」「特別な道」を選んでいるだけです。 
差のある特別な欲さえ持たなければ、宇宙・神・愛は皆に公平平等に「あるがまま」にあります。 不自由不平等はいっさいありません、完全です。
完全だから神・愛の全知全能のすべてを与えられています。 貧困や身分地位にはいっさい関係ありません。 ただ気付いていない人には感謝が無いから、与えられたものを持っていることにはならずに、不自由や不平等に思えているだけです。

だから優しさ思いやりの愛と感謝で平坦な普通の道を焦らずにゆっくりと進んでいけば、やがて至福の時・地上の天国にたどり着く事が出来ると約束されているのです。

喜怒哀楽・生老病死の「自作自演の独り芝居」

2008年12月09日 | Weblog
人それぞれに価値観の違いがありますが、小さな喜びよりも大きな喜びを欲しがり求めてきたのが此れまでの私達です。
だから欲しいものが高価であったり入手困難で希少価値があったりするほどに、我が手にした喜びは大きいものになりますが、欲しいものを手にした喜びは自己満足・頭の記憶になっても、心に感じ入る心の満足にはなりません。 
だから頭の中の満足は直ぐに忘れてしまいますから、また代わりの満足を欲しがります、しかもそれ以上の満足を欲しがります。 だからその時は満足した普通車を買ったのに、早くもそれ以上の高級車を欲しがるように止まる事が出来ません。 衣食住でも同じです。 また毎年同じプレゼントでは気に入らないように、自己満足には飽きが来るのです。 
欲しがり求めて得たものは自己満足しか味わえません。 そしてきりがありませんから、お金が続く限りより良いものを欲しがり求め続けます。 だから我慢できなくなれば平気で借金をして多重債務者になったり、搾取・詐欺や横領や強奪してまでも欲しいものを得ている人がいるように、より良い、より大きい欲を追求している限り破壊意識の自己拡大は止まりません。

ところが完全真理で言われているように自己縮小していけば思惑期待や目標目的意識を持たなくなるから、自分に必要なものが必然で手に入ったり与えられることがあれば、前もって望み欲し思惑期待していなかっただけに「思わぬ」プレゼントをもらった感じになり、本当に嬉しくて喜びに溢れ、ありがたい気持ちで心から喜ぶ事が出来ます。
しかも小さな喜び感謝であれば、それだけ多くのチャンスに巡り会え、それだけ多くの心の満足を味わえます。

小さな事やあたり前の普通であれば自己満足や自己主張や顕示するには至ならないが、大きな望みの思惑というものは自分に過ぎたものですから、過ぎた満足の大喜びは自己満足となり、主張・顕示したくなります。
ところが何処にでもあるようなあたり前の小さな事を幾ら自己主張や顕示しても誰も相手にしてくれないのは判っているだけに、無駄に自己主張や顕示することにはなりません。
すなわち大きな事・自己拡大をする無理無駄な努力もなくなり、思い考えを主張顕示するような無駄や無理な気力や時間も必要なくなり、いつも心が安らいでおれるのです。

大喜び大笑いには私という個人意識が強く入っていますが、しぜんな微笑には自分が微笑んでいるという意識さえありません。 大きな悲しみや嘆きには自分の感情が強く入っていますが、しぜんな悲しみは感情が入っていないから自然体であり、普通のあたり前になります。

多くの方々が自己拡大して大きな喜びを得ようとしていますが、その思惑期待が叶わなかったり裏切られたりでもすれば、大いに悲しみ大いに嘆くことにもなる表と裏があります。
そして皆と同じ平坦な道では気に入らないから、自分で地面に穴を掘って山や谷や坂や壁を作って、その自分が作った山や谷や坂や壁に挑戦して、自らが喜怒哀楽や生老病死に明け暮れた生活をしているのです。 
まさしく「自作自演の一人芝居」を思い考え想像できる頭の中で演ずることで、自己満足・自己主張・顕示できるのです。 また同類が同じ自作自演の一人芝居を演じながら、他と良いや悪いで比較競争差別し合っています。 しかもそれが正しい事と思っているから、「私は正しい」と自己満足・主張・顕示している自分にもこれまた自己満足して、更に主張・顕示して更に自己満足するという、その繰り返し拡大ばかりしています。
すべてが実のない、心で感じられない、思い考え想像する非実在の世界で生きている事にまったく気付いていないのです。
また、大きな事・結果に真実はなくて、元となる小さな事の中に真実・原因があります。
その小さな原因から出てくる小さな結果では満足できなくなって、大きな結果、大きな自己満足を欲しがり求め拡大変化してきたのです。

だから自己縮小して、小さなことに意識を向けて、小さなことに気付いて、今までに気付けなかったあたり前のお蔭様の愛を感じられるようになれば、それがありがたい感謝になり、じわーっと温かいものがにじみ出て心が満たされていくのです。
此れだけは幾ら頭で想像してもダメです。 
自己縮小の実践で味わい感じるしかありません。