孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

何が無くても「愛さえあれば」・・・いいの?

2008年12月13日 | Weblog
われ神なり、われ愛なりを自覚するのが人間の使命役割ですから、それ以外は不必要・不完全になりますが、ひとつの意識、一神にして多神の意識のことを言っていることですから、それには必ず個性があります。
個性は人間がお互い様の関係で生きていくために必要なものになります。
私を出す私利私欲だと好ましくないが、自分が出る個性は生きていくために必要になります。 その個性がしぜんとにじみ出るのは愛ですが、自分を出す自己主張や自己顕示は個人意識を出していることになります。 
出ている愛なのか、自分が出している愛(愛情)なのかでは大きく違ってくるのです。

だから人を好きになることや趣味嗜好娯楽的な形を好きになるのも結構なことです。
しかし、好きの裏に嫌いがあって、好き嫌いの差や愛情の差を出すと、その差があることは一心一体ではないから不完全になり、不必要なもの、不必要な形になるのです。

嫌いにならずに好きが続くのであれば裏表が無い好き一元、愛一元になります。
使命役割の個性は愛だから持ち続けます。 それを良いや悪いで分離判断しなければ「そのまま、このまま、あるがまま」の愛の表現になります。
自分の個性をあるがままにして、他の個性を判断して否定反発すれば自己中心の個人意識になり、あるがままとは言えません。
だから、個性が出ているのが形になって、それがスポーツや演劇や絵画音楽、植物動物が好き、手仕事が好き、収集観察が好き、創作建造、栽培生産、採取収穫、その為の探検・研究・実験、など等を好きになる人が大勢いることでお互い様の人間関係が育ちます。
そして好きなことを一筋に極めていれば創意工夫や新たな発見や発明も育ちます。
良い悪いの無い、良いところ取りしない、多種多様の専門家や科学者や医学者などの学者先生の形がしぜんと育ちます。

その道一筋でなくて多種多様に心変わりしても、それが良いとか悪いとか判断しなければ、それも個性ですから、広く浅く多様に知る人や出来る人になって役立つことでしょう。
ところが良い悪いで評価判断して差をつけて比較競争し合ったり、自分に無くて人に有るものを羨んだり、無いことを卑下したり悔しがったり、嫉妬や恨みになっているのです。

有るものが出るのと、有るものを出すのとは違うし、有るものを出そうとしないで逆に無いものを無理に出そうとして無駄な努力をしている不完全な人もいます。 
しかも思惑期待を持つ、目的意識や理想や夢を持つというように、まだ先の未来を思い考え想像することは非実在になるのです。

豊かな贅沢は無くてもいい、快適便利は無くてもいい、趣味嗜好娯楽の形が無くてもいい、探検研究開発の形が無くてもいい、文化文明が無くてもいい、・・・何がなくても愛さえあればいい・・・、とは書いていません。
人間という形を持っている限り生きる為の形は必要です。 それが仕事だったり子育てや家事であったり、余暇を楽しむことであったり、人同士が接し触れ合うことであったりするのは、それら必然で生まれた形は必要だから有るのです。 その「有る」ものを良い悪いで分離判断している個人意識を無くしていくことを書いているのです。
そして「愛さえあれば」生きていけるというその愛のエネルギー、全知全能の愛のエネルギー、愛の常温核融合エネルギー、すなわち安全安心の完全エネルギー、愛という無尽蔵のエネルギーで永遠に生きていけるということを書いています。

それが思い考え想像した非実在の嘘八百や鵜呑み盲信洗脳ではないことを完全真理とファバラの実在で示し書いているだけです。