孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

明治維新を徳川幕府側から描くのと明治維新側から描く違い・矛盾偽善がこの世でもあります。

2016年06月22日 | Weblog
過去の釈迦やイエスらが当時の貧困差別を見て、此れではダメだ!何とかしなければと行動をやり始めたようですが、当時の支配者・体制側が何もせずに放置していたわけではないと思います。

然るに映画ドラマのように釈迦やイエス側から表せば己の善なる行為を並べ立て美化し誇張するが、その反対に支配者側の間違い・非なる施策・悪なる行為を並べ立て誇張したがるわけです。

然るに明治維新を徳川幕府側から描くのと明治維新側から描くその違いみたいなものです。

とにかくいつの時代でも貧困差別がありました。

それだけに国家社会も何とかしなければと取り組み改善するも、それ以上を欲しがるのが人間の性にあります。

だから以前よりも貧困差別が解消されながらも同時に文化文明も発展してきましたが、その文化文明から落ちこぼれた人が貧困差別と言われる形・立場になっているのです。

それだから当時の国家社会が政治経済で貧困差別に取り組むし、また思想哲学や宗教思想でもって何かと取り組んできたのです。

然るにそれが自由主義や社会主義や共産主義などの主義主張であり、中には帝国主義者や独裁者やヒトラーのような輩も現れ出てきたし、諸々の主義主張や宗教思想を掲げたその団体組織も次々と現れてきました。

然るにそれが「私は正しい」の意識が原因のその結果なのです。

そんな中にも貧困差別を経済発展で解消する取り組みや、また子供の頃からの教育にありと教育指導しつけに力を入れたりするも、
しかしそれも現体制側に都合がいいように取り組みますから結果的には矛盾偽善で中途半端になります。

また思想哲学や宗教思想も自分の都合がいいようにしたがりますからその結果も矛盾偽善で中途半端になります。

だからこのブログではこの世人間関係だけは「どうしようもない」と根堀り葉堀り書いています。

そのことに気付き納得確信した者が(目覚めた者が)不完全で矛盾偽善に満ちたこの世人間関係に関係なく、持って生まれた個人意識丸出しの個人の自由にして、他力に依存しない自力&個性性格の発揮とその創意工夫でもって、独自独歩に歩んでいくしか他に道が無いとしています。

その前兆・先駆けがニート・山奥ニートやBライフ・サイレントテロなる形でもあります。