巷の精神世界・宗教・哲学思想の類では自分さえ良ければの個人意識を否定的に説いて、自分を犠牲にしてまでも世の為人の為に尽くしなさいとばかりに説教しているのが大方ですが、
しかし私は若い頃からそれに違和感があって馴染めませんでした。
然るに完全真理でも同じように個人意識を無くして宇宙意識・神意識になりなさいとばかりに説いていましたが、しかし私はそれは…無理だと…耕栄さん信者だった娘に言っていました。
ところがそれが大当たりでして、やがて個人意識を無くすることは無理だから素朴に生きる自己縮小の実践を熱心に語るようになりました。
何たって天地創造・全知全能の宇宙・神・愛の仕組みからして人間に個人意識を植えこんでいるのですから、それを消し去り無くするなんてことは(神の所業を超えたことになり)絶対に無理なわけです。
ところが世間一般でも集合意識の常識・思い込み・すり込み・洗脳からして個人意識の人は一般的に悪いイメージに捉えていますから、どうしても個人意識を隠して善人ぶる偽善が多くなります。
だからこのブログで個人意識丸出しでもって自分の為だけに生きていると書けば違和感を持つ人も多いと思います。
然るに生きているだけでも、また死にかけていても、それが世の為人の為に役立っていると書いても納得できない人もいることでしょう。
だから極悪人であっても、お互い様とお陰様の関係からしても、また共に学び合う関係からしても、世の為人の為に役立っていると書けば、強い反感を持つ人も多いことでしょう。
然るに皆さんも個人意識からして(己の強い思を)しっかり持っていますから、完全なる宇宙・神・愛の仕組みを説く完全真理であっても、自分の思いと異なれば納得できないのも当然です。
ところで誰もが己が思うがままの自由にして生きて行きたい思いをしっかり持っているはずです。
ところがそれでは個人意識丸出しになるから世間一般的にも、またその見栄や世間体プライドからしても実践し辛いことでしょう。
然るに多くの人は自分を自縛しているのです。
然るに自由を放棄して世間体プライドを守っているのです。
だからついつい不平不満が出て来て面白くないのです。
だからその代替えに趣味嗜好娯楽・変化刺激に興じて自己満足したがるのです。
しかしそれにも苦と楽の喜怒哀楽が伴いますから、結果的には納得できないままに同じ繰り返しばかりが続いているのです。
と言うように何度も同じ事を似たように書き続けていても、また中には事実からしてボロカスに書いていても、それが納得できない人にはその精神力からして気付くことは無理なようです。
ところがその精神のなかに人と比較競争してその差をつけたがる特別意識・差別意識を持っていることに気付かないばかりか、それが私は正しいの自己正当化にもなっているようです。
すなわち世間の片隅で生きている人よりも目立つ存在を望んでいるのです。
然るに自分から「苦労を買ってまでも」世間に出たがっているのです。
然るにそれが偽善の繰り返し上塗り積み重ねになっているのです。
然るに「どうしようもない」人間意識のままに終わるしかないようです。
しかもそれが事実・真実だと気付ける人はごく限られていることでしょう。
だから…何とかしなければ…と「的外れ」なことに関わって「苦労を買ってまで」余計なことで無駄なことに頑張り見栄張りして欲張り無理することになるのです。
しかし私は若い頃からそれに違和感があって馴染めませんでした。
然るに完全真理でも同じように個人意識を無くして宇宙意識・神意識になりなさいとばかりに説いていましたが、しかし私はそれは…無理だと…耕栄さん信者だった娘に言っていました。
ところがそれが大当たりでして、やがて個人意識を無くすることは無理だから素朴に生きる自己縮小の実践を熱心に語るようになりました。
何たって天地創造・全知全能の宇宙・神・愛の仕組みからして人間に個人意識を植えこんでいるのですから、それを消し去り無くするなんてことは(神の所業を超えたことになり)絶対に無理なわけです。
ところが世間一般でも集合意識の常識・思い込み・すり込み・洗脳からして個人意識の人は一般的に悪いイメージに捉えていますから、どうしても個人意識を隠して善人ぶる偽善が多くなります。
だからこのブログで個人意識丸出しでもって自分の為だけに生きていると書けば違和感を持つ人も多いと思います。
然るに生きているだけでも、また死にかけていても、それが世の為人の為に役立っていると書いても納得できない人もいることでしょう。
だから極悪人であっても、お互い様とお陰様の関係からしても、また共に学び合う関係からしても、世の為人の為に役立っていると書けば、強い反感を持つ人も多いことでしょう。
然るに皆さんも個人意識からして(己の強い思を)しっかり持っていますから、完全なる宇宙・神・愛の仕組みを説く完全真理であっても、自分の思いと異なれば納得できないのも当然です。
ところで誰もが己が思うがままの自由にして生きて行きたい思いをしっかり持っているはずです。
ところがそれでは個人意識丸出しになるから世間一般的にも、またその見栄や世間体プライドからしても実践し辛いことでしょう。
然るに多くの人は自分を自縛しているのです。
然るに自由を放棄して世間体プライドを守っているのです。
だからついつい不平不満が出て来て面白くないのです。
だからその代替えに趣味嗜好娯楽・変化刺激に興じて自己満足したがるのです。
しかしそれにも苦と楽の喜怒哀楽が伴いますから、結果的には納得できないままに同じ繰り返しばかりが続いているのです。
と言うように何度も同じ事を似たように書き続けていても、また中には事実からしてボロカスに書いていても、それが納得できない人にはその精神力からして気付くことは無理なようです。
ところがその精神のなかに人と比較競争してその差をつけたがる特別意識・差別意識を持っていることに気付かないばかりか、それが私は正しいの自己正当化にもなっているようです。
すなわち世間の片隅で生きている人よりも目立つ存在を望んでいるのです。
然るに自分から「苦労を買ってまでも」世間に出たがっているのです。
然るにそれが偽善の繰り返し上塗り積み重ねになっているのです。
然るに「どうしようもない」人間意識のままに終わるしかないようです。
しかもそれが事実・真実だと気付ける人はごく限られていることでしょう。
だから…何とかしなければ…と「的外れ」なことに関わって「苦労を買ってまで」余計なことで無駄なことに頑張り見栄張りして欲張り無理することになるのです。