孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

世間で目立つ者よりもホームレス・ニート・フリーターなる者の精神力が勝っているかもしれません。

2015年07月14日 | Weblog
私が単身過疎地暮らしを始めた初期の頃、何もしないよりも良かれと思って自給自足の真似事やヤギや鶏を放し飼いにして自己満足していたり、
更にロバやポニーを飼育し、その背中にまたがり山道を散策したり、また訪れた子供たちを馬車に乗せて楽しんでもらうような思惑・理想・目的を持っていました。

また何もしないよりも良かれと思って放置された空き地や畑や神社境内や赤線道と言われる山道に生い茂る草木を伐採するなど、その環境保全活動が如くのボランテアを数年間続けたりご近所の農作業を自ら進んで手伝っていました。

また過疎地暮らしが始まった頃に完全真理を学び知り深めることになり、それをご縁のあった人に見せ広げたり、またブログに記載することで世の為人の為になると思っていました。

然るにそれが自己満足であり、その自己満足したいが為に上記のような苦労を買って出ていることの愚かさにふと気付き、そこでそれらを少しずつ止めたところ、その苦労から次第に開放されて、そこで自己満足するために頑張り欲張り見栄張りすることの己の精神の未熟さに気付いたのです。

ちなみにその気付きからしてブログが自分のもの・本物になり、更に進化することにもなりました。

その私の過去の事例を今の言葉に言い換えれば「不完全意識の(偽善の)者が何を成せども同じ不完全な(偽善の)結果になる」となります。

その私の経緯経験を他の者にあてはめると・・・過去の釈迦やイエスや巷の超能力や霊力や念力・手かざし・チャネリング・セラピー・カウンセラー等と称しそれらを施し成す者も同じく、
少しでも自分が良くなりたいとか人の為に良かれと思って成していることの矛盾と偽善とその自己満足とその裏の苦労苦悩にも、(私以上の)人並み優れた有能な自力を持っているからには(私よりもいち早く)自らして気付けるはずです。

なのにそれに気付けなければ、その自己満足が自惚れ慢心となり「私は正しい」と主張誇示することになり、更に自らの行為行動表現に自己陶酔してしまって、その見極め見定めだけの自力・精神力が失われているとしか考えられません。

また先々の思惑理想目的に燃えて(拘り執着しすぎて)未だ手にもしていない夢物語に意識が奪われてしまって(捕らぬ狸の皮算用が如くになって)、
今現在の食って寝て糞をしながらにして生きている中にちょこっとした生きていることの喜び楽しさがあることにまったく気付かないでいたのかも知れませんし、
もし気付いていても、それ以上の大きな先々の(実現不可能な)目論見からすれば屁のツッパリにもならないことだったのかも知れません。

然るにちょこっとしたことを味わずにして特別な大きなことを目論んだ事の始まりからして間違っていたのです。

またそんな事とはつい知らずに「私は正しい」として未だにそれらを追いかけているのです。

ちなみに過去の釈迦やイエスや巷の超能力や霊力や念力・手かざし・チャネリング・セラピー・カウンセラーなる者よりも巷のホームレス・ニート・フリーターなる者の精神力のほうが勝っているかもしれません。

何たって大きな自己満足が無くても、ほんのちょこっとした(缶ビール一本の)自己満足で十分だからです。

しかも独自独歩ですから人様を巻き込むことも殆ど無く、また己の思うがままの自由にして生きていますから、その人間として生きていることの価値を十分に味わい感じていると思われるからです。

また外向けの外見・姿形・見栄・世間体・プライドではなくして、また思い思惑・期待願望で生きることよりも、今を如何に生きていくかの現実に意識を多く使っていると思われるからです。

然るに後先の思い思惑の想像の世界で生きているのではなくして、今を生きていることからして様々な精神的な学び気付きが多いはずです。

然るに生きている価値を味わい感じているはずです。