孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

欲張る心を無くしていかない限り邪道を歩く事になり、しかも人様までも巻き込むことになるのです。

2014年01月23日 | Weblog
人それぞれに意識が異なるだけに同じ精神世界の道を皆して同等に歩くのも無理があります。
然るに独自独歩にして自らが先んじるとして書いています。

然るに釈迦やイエスが妻や弟子達と同等に並んで歩いていたはずはありません。
然るに誰かが先んじて歩かなければならないのです。
しかも皆を待っているわけにもいかないのです。

しかも先んじて歩いていた人が必ずしもそれが正しいとは限りません。

然るに釈迦が邪な魂としていたのが本当だったのか否かは不確かです。
そして邪魔者を殺すことが出来るイエスであれば、然るにサタンと呼ぶ者が本当の悪では無くして、神を信じなくてもいいとか、すべては神であるとか、皆が自由であることを説いていた者かも知れません。

ちなみに私が妻や子供達と同じ精神世界の道を歩むことは到底無理なのです。
然るに私が思うがままに先んじて行くしかないのです。
だから妻や家族やが己が思うままにそれぞれに異なった道を歩む事になっても(誰も正否が判らないから)ほっとくしかないのです。

然るにそれが絶対に正しいとなるのは完全なる宇宙&神&全知全能の愛意識だけが知ることです。
しかも(神からして)誰が正しいとは絶対に告げてはくれません。

然るに釈迦やイエスが正しいと神が告げたとしたなら、それは神では無くして神から告げられたと(己の欲心からして)勝手に思い込んでいるだけになります。

然るに欲張る心を無くしていかない限り自らが邪道を歩く事になるのです。
しかも人様までも巻き込むことにもなっているのです。

また人は生まれながらにして孤独であり、死するときも孤独にして行きますから、然るに欲張ること無く生きていくためにも(他を巻き込まないためにも)孤独にして歩むしかないのです。

然るに何度も「自力」を書いているのです。
然るに他力をあてにしたり、他の者が気になるのも何がしの欲からですから、然るにその欲が無ければ他力も必要なくなっていくし他が気にもなりませんが、しかし完全に欲を無くすることは絶対に無理です。

だから欲張る心が出たことに自らして気付きそれに執着しなくなれば上出来だとして書いています。

そして欲張らなければ楽チンにして生きていけることを実感納得すれば更に欲張ることが減っていきますから、然るに己の中の様々な欲と気長に付き合いながらその欲に気付いていく、その実践意識でいることです。

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