年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

力道山未亡人  細田 昌志著 読んで父の死を想う

2024年08月17日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
私の父は昭和30年のクリスマスの朝に亡くなった。記憶では家でプロレスを見た後に倒れ、数日寝た後、亡くなった。その当時の様子が 力道山未亡人  細田 昌志著を読んで、なぜ父が興奮したかが理解出来た。アメリカのレスラ―を最後に倒す。
 父の弟は沖縄嘉手納沖にいた米軍艦船に特攻して昭和20年5月20日に亡くなった。様々な思い出が父とその弟にあったのだろう。戦後の日本に駐留している米軍・GHQには敗戦という気持ちがあったとおもう。特に朝鮮戦争の時に地域の工場で破壊された米軍戦車を修理していた風景を思い出す。
 そんな時代に日本でテレビ放送が始まり、比較的に早く家の居間にテレビが設置された。その頃のテレビは市販のものと部品を購入し、自作していた人がいた。家に入ったテレビは1インチ1万円の時代で、17インチのブラウン管でチャンネルは回してみる。裏から中を除くと真空管と部品が並んでいて、あったかい空気が感じられる。
 この時はまだ東京ではNHKと少し遅れて日本テレビとKRテレビ(後のTBSテレビ)の時代だった。まだラジオが全盛であった。多くの家にはテレビが無く、今のJRの駅前広場に街頭テレビが設置され、テレビというものの購入誘惑を誘っていた。映画館に多くの観客が見ていた時代だった。
 戦時中の話とかの文献・遺品等は比較的に良く残されているが、戦後の混乱期の様子は今のNHKの朝ドラ(寅につばさ)の放送の方が理解しやすい。

テレビはプロレスから始まった 全日本プロレス中継を作ったテレビマンたち
福留 崇広 (著)


突然の早田ひな発言(知覧の特攻平和会館を訪問したい)で、自分の考えを確立しないといけない時期に来たようだ。特攻遺族扱いとなって(父が養子に行っていて)、まだ20年も経っていない。自分自身は知覧での特攻慰霊祭の招待状が来た時から、遺族という気持ちとなった。時代時期によって、特攻隊員の評価が揺れる。そして揺れている事実が言論の制限されている日本・中国・韓国で軍国主義の先兵論争となる。
 多くの特攻遺族の密やかな本音が5月3日の知覧での慰霊祭に行く、鹿児島中央駅から平和会館へ行く特攻遺族の送迎バスの中で遺族同士の会話が聞こえる。もう79年の月日が経っている。ということは伝聞の世界となる。戦後に一家の柱となる優秀な人材の死は受け入れられない。飛行機操縦士は知力・体力が必要だった。戦後の混乱期にどれほど男手が必要だったか語る文献が見えない。当事者の戦後は大変だった。そんな思いを見ていた人たちによって知覧特攻平和会館がつくられた気がする。その思いの食い違いうが今再び起きつつある。
 戦後の特攻隊員の評価が揺れていて、敗戦前は英霊で、敗戦後には無駄死に・犬死にと言われ、日本の危機になると、見直しされる。都合のよい道具となってしまった。死者は不倫しない。変な発言もない。時間が昭和20年8月15日で終わっている。今は遺族たちがそれぞれの戦後を生きている。
 

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