年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

埼玉県文書(もんじょ)館へ再び

2024年08月22日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
叔父の遺品ともいうべき、昭和18年9月8日の新聞記事の埼玉版をもう一度鮮明なコピ-が出来ないかを探るため、JR浦和駅から歩いて、埼玉県庁を過ぎて、埼玉県文書館へ行った。
多分というか最後の訪問となる気がする。叔父の軍歴の未解明の事実がこの文書館に所蔵されている、埼玉県版の新聞記事である程度解明できた。ただこれは当時の事実を聞くための道具で実際は心の中をのぞくことは無理だろう。もう80年程の月日が経っている。
 コロナで予約制となったが、前回の感覚で、ほぼ誰もいないので予約なしでも入れる気がしている。この文書館で9月1日まで埼玉県教育史の編纂から導かれた、埼玉の学校の歴史が展示されていて、現物もある。物不足の江戸時代の手習いの跡の様子が見える。物を粗末にしてはいけないとか寺子屋で何を学んでいたかの様子が見える。識字率の様子が埼玉でどうなっているのか、その対策は埼玉県教育史の本を読まないと思われるが1冊4センチのある本が数冊見える。叔父がなぜ農家育ちなのに小学校の教員養成の学校を目指したかの親族の情報が無い。言い伝えでは川辺小学校の校長先生に進路相談した所、隣接の千葉県野田市の野田農工学校へ行くことを薦められたという。この学校はキッコ-マンの援助があった学校で今は千葉県立清水高等学校となっている。キッコ-マンへの工員養成だったのだろうか。今でも食品系の過程が清水高校にある。そこから浦和の埼玉師範学校に進むのだが、戦時となって中国の戦火拡大で教員の従軍免除の特権が消えていく時代で、競争率が下がっている時期だった。それでも親に学費・寮費の負担を避けるため、師範学校に行ったと思われる。聞いたところでは寮に住んでいた様子がある。
 昭和18年の日本は戦争がミッドウエ-海戦敗北後に負け戦に進んでいて、飛行機搭乗要員の即席操縦士を養成することとなった。海軍が数千名で陸軍が2000名募集で合格者は水増しだった。海軍の競争率が10倍を超えていて、陸軍が5倍程度。従って昭和18年7月の朝日新聞の記事ではしきりに陸軍の応募案内記事が出ている。多くは身体の要件で視力が問題だった。さらに応募方法がが個人で最寄りの陸軍に応募する方法と学校の駐在軍事教官経由で陸軍特別操縦見習士官の願書が出せる。
 叔父の伝聞では家族の了解は得ていない様子で、師範学校経由の願書提出と思われる。それゆえ合格の郵便が来ていても、時期から学徒出陣の招集令状が来ていたと思っていた様子が見える。
 叔父の軍歴から11月1日入隊。普通の特操1期生は10月1日入隊。
この事実の解明が今年の7月に出来た。陸軍と海軍の対立で、10月1日の入隊の日に埼玉師範学校の陸軍合格者10名の内、一人が入隊日に出なかった。そこから欠員騒動があって、どうも叔父が繰り上げ合格となった様子が見える。この時に陸軍に入隊した9名は戦後の埼玉県文書館の保存されている、昭和25年頃の埼玉師範学校男子部同窓会名簿で生きて戦後に教師となっている様子が見える。つまり不合格となった叔父が唯一戦死し、合格し陸軍の飛行士になった同窓9名が戦後に生きる。
人生の理不尽を感じる。
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