年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

早田発言で元特攻隊員が増えた

2024年08月20日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
昭和20年5月20日に叔父が台湾から沖縄に向けて、夕方5機の仲間と1機の誘導機で出撃した。作戦名は 誠 という名称がある。知覧の特攻平和会館のホ―ムぺ-ジの解説で(特攻部隊のうち、九州から出撃した部隊は" 振武隊(しんぶたい)"、台湾から出撃した部隊は" 誠飛行隊(まことひこうたい)" と呼称しています。)
 普通の日本語の解釈では、振武とはは「剣道などの武道を広く活発に伝えることで、人と
しての正しい生き方を多くの人に知らしめ広げていく」という解釈があります。
 ところが自分が福神漬の歴史を調べていて、上野の戦争つまり彰義隊の戦争で振武軍というのが出てきます。
上野戦争の当日、 渋沢成一郎たちは、田無(現・東京都西東京市)の西光寺を本営として屯集し、隊の名前を「振武軍」と定め、成一郎が隊長、尾高惇忠が参謀長となりました。その後埼玉県飯能市で敗北しました。誠 隊は誰でも幕末の新選組を思い出すでしょう。
 叔父の人生の航跡を探して文献を読むと、生き残った元特攻隊員がやたらと多いことに気が付きます。数字上、知覧の特攻平和慰霊館には1036名の陸軍特攻隊員の名前があります。海軍は知覧ほど有名ではありませんが全国各地に慰霊館があります。文献では海軍飛行兵士の特攻隊員は4000名ほどです。でも元特攻隊員はもっと自称の人が多いと感じます。
 なぜ元特攻隊員が多いと感じるのは、本土決戦のために、特攻という名の要員を増やしたと思われます。そこで8月15日に終戦となり、生き残ってしまったのが実情と思われます。戦後はすぐに特攻隊員の英霊が否定され、無駄死にと言われた時期がありました。そんな時期に無頼派作家という坂口安吾が特攻隊員の行動を擁護しています。
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特攻隊に捧ぐ
坂口安吾


 戦争末期日本はほとんど幼児と高齢者をを除いて、戦時要員となった。このことが精神で敵に勝てると思っていた軍部が特攻隊員を増やし、行きの残った特攻隊員を増やし、戦後の元軍人の口を封じた。それは敗戦というより、死ぬはもろともという戦陣訓の影響だろう。武器、燃料、食料の欠乏していた特攻兵士は特攻する準備だけさせられ、生き残った。実際に慰霊されている陸海軍の特攻兵士がおよそ数千人だが元特攻兵は10万人以上の人がいてもおかしくない。本土の決戦用の兵士は特攻思想が普通になるように教育されていて、女性でも沖縄の事例の様に軍から自決を求められていた。

 この様なことがあったことを知る必要があるということを知るため知覧に行ってほしい。
コメント
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