上野戦争・彰義隊の戦争まで徳川の墓所である寛永寺は巨大な寺院で、現存する絵図で想像もできない。しかし明治元年5月15日早朝から上野の山で戦闘がおこり、徐々に西軍に押され、不忍池越しに防御の要の黒門を狙いうちされ、劣勢になった。この旧暦の5月15日は新暦に直すと、7月の上旬で今でも東京は梅雨時で湿気が多く、仮に戦闘になっても、彰義隊が放火しても大火にはなりにくい。
ここに西軍を率いた大村益次郎の戦略の優秀性が見える。一方上野方は江戸市民の支援頼みで情報収集も不足していて、黒門への攻撃で崩れた。窮鼠猫を噛むという言葉があるが背水の陣の兵士は強いので大村は逃げ道を残し、さらに逃げ道から偽の援軍を侵入させ混乱を引き起こした。これは関ケ原の小早川の行動に似ている。戦闘は半日で終わり、敗者の彰義隊は寛永寺から去って行った。今ある寛永寺は記録によると全盛期の10分の1の広さしかないという。それでも今ある寛永寺根本中堂は普通の寺院より巨大である。その境内に了翁禅師の碑があって、さらに東京都教育委員会の案内板がある。了翁禅師は秋田県湯沢市で生まれていて、湯沢市では福神漬の元祖ということで小学校の郷土史で習っている。その根拠として、了翁が上野の地で学校をつくり、その学僧のための寮の食事で余った野菜くずで漬物を作ったことから来ている。この故事から寛永寺と関係のある駒込学園で中高一貫教育で知られている。歴代の校長先生は中学1年の新入生に慣例として、了翁禅師の講和をしている様子が見える。日本の公共図書館の初めと言う文献もある。上野の寛永寺の学僧と幕府の昌平坂学問所の付近日本屋と古書店が集積し、そこから明治になって大学と書籍街が出来た。上野のサクラを最初に植えたのは寛永寺境内でなく、朱子学の学校と言う。
了翁禅師の碑の前に巨大な碑がある。上野戦争碑記と言う。この碑文を選したのは阿部弘蔵(杖策)で彰義隊の一員で漢文の素養があって、彰義隊の命名時に強く主張したという。最初は昭と言う字を予定していたが徳川の意向が見えていて、そこから義をあらわす、彰と言う字を当てたようだ。あくまでも徳川慶喜の恭順の意向を示し、秩序維持隊としていた。しかし彼らの彰義隊が江戸市民の人気の急上昇によって、仕方なく鎮圧に西軍は向かった。
歴史の解釈は時代と時期によって異なる。上野戦争碑記は明治44年建てられたが当時は彰義隊の碑とは出来なかったようだ。碑文の内容は記録から変えられているいう。さらにこの巨大な碑の説明の案内文が今でも境内に無いことが不思議である。台東区教育委員会のトップの席に寛永寺の浦井正明氏の意向もあった気がする。まだ明治期から戦前は輪王寺宮(寛永寺側)が逆賊扱いされていて、納得のいく碑文とは思えないのだろう。同様に上野動物園前の小松宮の騎馬像はその台東区教育委員会の説明文であいまいな表現となっている。本当は北白川宮の騎馬像が上野の地にふさわしい気がする。西郷さんの銅像、彰義隊の墓を戦死者之墓としたりしていて、上野戦争の遺恨がまだ残っている。そこに福神漬の味が甘ショッパイ味がする。
ここに西軍を率いた大村益次郎の戦略の優秀性が見える。一方上野方は江戸市民の支援頼みで情報収集も不足していて、黒門への攻撃で崩れた。窮鼠猫を噛むという言葉があるが背水の陣の兵士は強いので大村は逃げ道を残し、さらに逃げ道から偽の援軍を侵入させ混乱を引き起こした。これは関ケ原の小早川の行動に似ている。戦闘は半日で終わり、敗者の彰義隊は寛永寺から去って行った。今ある寛永寺は記録によると全盛期の10分の1の広さしかないという。それでも今ある寛永寺根本中堂は普通の寺院より巨大である。その境内に了翁禅師の碑があって、さらに東京都教育委員会の案内板がある。了翁禅師は秋田県湯沢市で生まれていて、湯沢市では福神漬の元祖ということで小学校の郷土史で習っている。その根拠として、了翁が上野の地で学校をつくり、その学僧のための寮の食事で余った野菜くずで漬物を作ったことから来ている。この故事から寛永寺と関係のある駒込学園で中高一貫教育で知られている。歴代の校長先生は中学1年の新入生に慣例として、了翁禅師の講和をしている様子が見える。日本の公共図書館の初めと言う文献もある。上野の寛永寺の学僧と幕府の昌平坂学問所の付近日本屋と古書店が集積し、そこから明治になって大学と書籍街が出来た。上野のサクラを最初に植えたのは寛永寺境内でなく、朱子学の学校と言う。
了翁禅師の碑の前に巨大な碑がある。上野戦争碑記と言う。この碑文を選したのは阿部弘蔵(杖策)で彰義隊の一員で漢文の素養があって、彰義隊の命名時に強く主張したという。最初は昭と言う字を予定していたが徳川の意向が見えていて、そこから義をあらわす、彰と言う字を当てたようだ。あくまでも徳川慶喜の恭順の意向を示し、秩序維持隊としていた。しかし彼らの彰義隊が江戸市民の人気の急上昇によって、仕方なく鎮圧に西軍は向かった。
歴史の解釈は時代と時期によって異なる。上野戦争碑記は明治44年建てられたが当時は彰義隊の碑とは出来なかったようだ。碑文の内容は記録から変えられているいう。さらにこの巨大な碑の説明の案内文が今でも境内に無いことが不思議である。台東区教育委員会のトップの席に寛永寺の浦井正明氏の意向もあった気がする。まだ明治期から戦前は輪王寺宮(寛永寺側)が逆賊扱いされていて、納得のいく碑文とは思えないのだろう。同様に上野動物園前の小松宮の騎馬像はその台東区教育委員会の説明文であいまいな表現となっている。本当は北白川宮の騎馬像が上野の地にふさわしい気がする。西郷さんの銅像、彰義隊の墓を戦死者之墓としたりしていて、上野戦争の遺恨がまだ残っている。そこに福神漬の味が甘ショッパイ味がする。