年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

天草騒動・軍記物

2024年08月11日 | 福神漬
都立中央図書館で天草騒動の本を読みに行く。
明治事物起源 石井研堂著の缶詰のはじまりの文章が島原の乱から言及していて、その文章の違和感があった。

 明治7年,前記米人の缶詰法によりて、この紋別漬を改良し、他の野菜類を用いたるこそ、邦人の手にて缶詰を作りたる起源なれ。同年三井物産会社より、下谷池之端某店に託し、紋別漬200個を布哇(ハワイ)及び米国に輸出したるをもって、缶詰輸出の初めとす。

 この文章は多くの誤りと疑念点があって、日本缶詰協会の歴史ではコラム扱いとなっていて、引用される郷土史は少ない。それでも魚類缶詰の生産の多い、銚子市史はこの文献が引用されている。

 千葉行徳の山田箕之助の先祖が家記によって、島原の乱に参加した、北条阿波守で軍中の副食物の乏しきより、小握り飯には一切黄な粉塩を用い、後品切れにて胡麻塩に改めるも、これまた不足を告げ、よんどころなく大根を細かに切りて味噌溜まり漬けて、溜漬と称し、軍用に供した。

 島原の乱の文献を調べてゆくと、北条阿波守と言う文献が10年前には見当たらなかった。コロナ明けで再度文献をネットで調べると、軍記物の天草騒動というのが見つかり、内容を読むと架空の人物の可能性がある。ドラマは実在の人物に架空の人物を入れ、物語を膨らます。石井研堂の缶詰の始まりは、北条阿波守の引用も歴史を盛り上げるために入れた気がする。
 紋別漬の件で北海道紋別市の歴史資料館へ問い合わせたところ、紋別という地名は北海道ではアイヌ語で何か所かあるという。そこで近藤重蔵の紋別漬では紋別市と関係ないという。
 また三井物産がハワイに溜漬の缶詰を輸出したという文が誤りで、三井広報委員会によって、旧三井物産は明治9年1876年7月に発足した。従って漬物缶詰の明治7年の輸出はあり得ない。ちなみに今の三井物産は旧三井物産と異なるという。同様な事例は国分で今の上場会社国分は戦前の国分と異なり、戦後の進駐軍によって、日本橋本社が占拠されていて、止む得ず国分漬物株式会社を作って、日本橋の地を守った。GHQの占領が終わると、国分漬物株式会社が国分株式会社となり今に至る。そのため福神漬ブランドの日本橋漬はご当地漬物として、国分のブランドの中で重要視されている。なお福神漬の登録商標として一番古いブランドは国分の日本橋漬である。酒悦の福神漬の商標登録は遅れていて、それも酒悦の福神漬と登録されている。今は福神漬は普通名詞となっていて、法律用語となっている。
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