理事長 丸井一郎です。
偏った食事、とくに
砂糖の取りすぎの害については、単なる身体の健康を超える問題(非行・犯罪)の遠因でありうることが、岩手大学の大沢博名誉教授の著書などで論じられています。
砂糖が即悪いというのではなく、西洋の医術家パラケルススの言葉として知られる「すべては毒であり、ただ摂取量が毒か否かを決める」という知恵が必要でしょう。ここでは、食生態と味覚の視点から、
砂糖とのつきあい方を考えてみます。
食べるとき、何かを口に入れる前に、においや味など風味についてそれなりのイメージがあるのが普通です。様々な食べ物(飲み物)について皆さんはどのようなイメージをお持ちでしょうか。そのイメージはどのようにして出来上がったのでしょうか。しっかり噛んで、噛み心地や、舌のいろいろな場所でいろいろな味がするのを確認しながらでしょうか。それともそういう味に決まっているから別に気にしないうちにそうなったのでしょうか。(筆者は幼時の大病で、重湯から始めて、しだいに固い物を慎重に一噛み一噛みしながら回復した体験から、「なんとなく食べる」ことに不安を感じて警戒します。)
その都度調理する
自然素材と(工業製品のような)重度加工食品の違いは、たとえば本物の
自然素材の風味は、時期や生育度によって、それぞれ微妙に変化するが、加工品はいつも同じような味しかしないというところにあります。
自然素材では、とくに野菜は、テクスチュアー(野菜の各構成部分)がしっかりしてやや堅めです。噛むと素材の風味を作る苦みや甘みや舌触りなどの要素は個々にかつ徐々に出て、やがて一つの全体(ハーモニー)になります。このプロセスがえもいわれぬ一回限りの体験になります(季節と生産者に感謝)。既成品にはこの体験がありません。瞬間的に分かる(どぎつい)味付けになっています。強い甘辛(あまから)味で、おまけに(人工)アミノ酸風味が突出し、その中にかすかな素材の気配(ほぼ「なきがら」)が推測されるというのが通例です。とくに濃い甘味は瞬時に知覚を占拠して味覚認知を「もうけっこう」状態にします。分かりやすい反面、複雑で繊細な風味(とくに素材本来の甘み、とくに竹の子)の認知を妨害します。甘み志向を否定するものではありませんが、「甘やかす」と怖い。アレルギーにはとりわけつらい。病弱で「できもの屋敷」の子どもだった我が身に刻まれた体験です。
さらに無農薬無化学肥料素材の利点は、残留する化学肥料・農薬を軽減する目的で、たとえば大根葉などを湯通ししなくてもよいということです。市販の抜き菜などを湯通しせずに炒りつけるとえぐみが強く、何か化学成分らしきものが鍋の壁面に析出することさえあります。高知地方は、(潜在的には)よい素材に恵まれているので、薄めの味付けで、
自然素材から風土(季節)と手塩(労働)に思いをはせるということが(まだ)可能です。地域全体として生産と調理時の合成投入材(砂糖も)を出来るだけ減らして、「素材本位」を進めれば、さまざまな分野で好ましい変化が期待できるでしょう。
管理人記
当然、丸井シェフのレシピには砂糖は出てきません。
そういうお料理を作ると、感覚がはっきりしてくると実感できます。
実行お勧めします。