高知発 NPO法人 土といのち

1977年7月に高知県でうまれた「高知土と生命(いのち)を守る会」を母体にした、45年の歴史をもつ共同購入の会です。

島のおじいの物語。

2011-09-13 18:43:25 | 日記
運営委員Hです。

波照間島で泊ったのは
漁師だったおじいの自炊宿です。

お月見の夜は曇りでしたが
その前の晩
お月さまをながめながら
おじいが昔の話をしてくれました。

おじいは70歳くらい。
島のことばだとふつうにしゃべれますが
共通語はものすごくゆっくりしゃべります。

こんな話でした。

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返還前は缶詰も、ジュースも、タバコも、お酒も、お菓子も
みなアメリカのものだった。
ニホンのものは何もなかった。

中学の修学旅行は石垣島にゆき
アメリカ軍住宅も見学した。
そこではじめて冷蔵庫を見た。

アメリカは、どうせニホンにもどるのだからと
道路の舗装もしてくれなかった。
波照間島にも舗装された道路はなかった。
学校だけは台風でこわれないようにコンクリートでつくってくれたけれども。

返還前は、
波照間ではカツオ漁がさかんだった。
浜にはかつお工場が6つもあり、
それぞれ20、30人の女性が働いていた。
カツオ漁の季節はカツオ船もカツオ節工場もいそがしかった。
寝ないで1日じゅう働いていた。

石垣にもカツオ節工場が30はあった。
与那国にもあった。

島では、獲れたカツオはぜんぶカツオ節にした。
カツオの刺身は、船のうえで食べるか
家族と食べるためにもちかえったぶんだけだった。

ワタは冬に食べる塩辛にした。
つかいみちのないアタマは海に捨てた。
アタマで浜がいっぱいになった。

お月見の日はカツオ漁を休んで
浜で宴会をした。
お酒を飲んで
ドラム缶をたたきながら
歌い踊った。

返還後にニホンの漁船がやってきた。

波照間の漁船は木造の焼玉エンジンのぽんぽん船だった。
釣ざおは竹だった。
本土の漁船は何百トンの鉄製の船で
カーボンの釣ざおだった。

競争にならなかった。
みんなカツオを獲るのをやめて
ニホンの漁船がカツオを獲るのをながめていた。

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島のカツオ節工場もカツオ船もあっというまに姿をけします。
おじいはもとカツオ船の漁師でした。
そのあとも漁師をつづけますが
引退して自炊宿をはじめました。
今でも気がむくと、ひとりで追い込み漁にでかけて
私たちにお刺身をごちそうしてくれます。

話を聞きながら
昔の波照間の工場でつくった
カツオ節が食べたくてしかたなくなりました。

誰もがおじいを好きになり
おじいに会うのを楽しみに
この宿にもどってきます。

おじいのシルエットです(奥です)。
(おじいは写真をとられるのが苦手です。)


西浜荘という宿です。
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ゆし豆腐。

2011-09-13 04:51:48 | 日記
波照間の運営委員Hです。

沖縄では、お豆腐売り場にかならず
枠に入れて固めていないお豆腐があります。

ゆし豆腐といいます

ビニール袋に入れて売ってます。
水気をきっていないので、たぷたぷです。
できたての温かいのを売ってます。



そのまま味噌とかで味をつけると
ふわふわーの豆腐汁になります。
コメント (1)
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