研究授業で、板書する際の漢字表記が話題になった。
「学年で学んだ漢字で板書しているか」
である。
私は、その学年で学んでいなくても、漢字で板書することが多い。
例えば教科書では、「学校」を「学こう」と書いてある場合がある。
こういう場合は、「学校」と板書する。
「この漢字読めるかな?・・・そうそう、『がっこう』と読みます。かしこいなあ。」
と一言教える。その後は、教えなくても読める。
「学校」を「学校」という漢字で学べば、一度で学習できる。
しかし、「学こう」と学んだ子は、「校」という漢字を学んだ際に、改めて「学校」という言葉を学ばなくてはならない。
二度学ばなくてはならないので、負担である。
読みの学習だけは、学年にかかわらずどんどん先に学習してよいのである。
一般的に表記してある漢字で書けばよい。
教科書に読み方が書いてあれば、なおさらである。
(「書く」学習は、無理強いしない。その漢字を学習する学年で書けるようになればよい。)
私は、師匠である野口芳宏氏から次のように教えられた。
「教科書に読み方が書いてあることばは、板書する時は、漢字でいいんだよ。」
「漢字で書いてあげた方が、漢字を読む力が付く。」
である。
だから、基本的には、なるべく漢字で書くことにしている。
「石井方式の漢字教育」を提唱された石井勲氏は、次のように述べている。
6年生の教科書を見ておりました時に、こういう表記にぶつかりました。「こう水」という表記です。
これを見た時、私は一瞬戸惑いました。と申しますのは、「こうずい」と読むべきものを、「「こうすい」とうっかり読んだため、「洪水」という意味がすぐにはつかめなかったわけです。
「こうすい」と読みますと、私どもは次のような言葉を思い浮かべます。「香水」「硬水」「鉱水」これらの「こうすい」があるわけです。
(中略)
たとえ幼児といえども、表記というものは社会で一般的に使っているものをそのまま与えなければいけない。
「洪水」「香水」「硬水」という形で与えなければいけないと考えました。
これが現在「石井方式」と呼ばれるものの基本的な考え方であります。つまり、「社会一般に漢字を用いて表記している言葉は、絶対にカナ書きをしてはならない」ということであります。
「幼児はみんな天才」(日本教文社)p.107
「学年で学んだ漢字で板書しているか」
である。
私は、その学年で学んでいなくても、漢字で板書することが多い。
例えば教科書では、「学校」を「学こう」と書いてある場合がある。
こういう場合は、「学校」と板書する。
「この漢字読めるかな?・・・そうそう、『がっこう』と読みます。かしこいなあ。」
と一言教える。その後は、教えなくても読める。
「学校」を「学校」という漢字で学べば、一度で学習できる。
しかし、「学こう」と学んだ子は、「校」という漢字を学んだ際に、改めて「学校」という言葉を学ばなくてはならない。
二度学ばなくてはならないので、負担である。
読みの学習だけは、学年にかかわらずどんどん先に学習してよいのである。
一般的に表記してある漢字で書けばよい。
教科書に読み方が書いてあれば、なおさらである。
(「書く」学習は、無理強いしない。その漢字を学習する学年で書けるようになればよい。)
私は、師匠である野口芳宏氏から次のように教えられた。
「教科書に読み方が書いてあることばは、板書する時は、漢字でいいんだよ。」
「漢字で書いてあげた方が、漢字を読む力が付く。」
である。
だから、基本的には、なるべく漢字で書くことにしている。
「石井方式の漢字教育」を提唱された石井勲氏は、次のように述べている。
6年生の教科書を見ておりました時に、こういう表記にぶつかりました。「こう水」という表記です。
これを見た時、私は一瞬戸惑いました。と申しますのは、「こうずい」と読むべきものを、「「こうすい」とうっかり読んだため、「洪水」という意味がすぐにはつかめなかったわけです。
「こうすい」と読みますと、私どもは次のような言葉を思い浮かべます。「香水」「硬水」「鉱水」これらの「こうすい」があるわけです。
(中略)
たとえ幼児といえども、表記というものは社会で一般的に使っているものをそのまま与えなければいけない。
「洪水」「香水」「硬水」という形で与えなければいけないと考えました。
これが現在「石井方式」と呼ばれるものの基本的な考え方であります。つまり、「社会一般に漢字を用いて表記している言葉は、絶対にカナ書きをしてはならない」ということであります。
「幼児はみんな天才」(日本教文社)p.107
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