慌ただしい年度末、3月も半ばを過ぎて、やっと18きっぷの旅に出ることができました。
今回は、江戸幕府の3代将軍徳川家光の入洛の際の宿館として建てられた水口(みなくち)城跡を訪ねることにしました。現在の滋賀県甲賀郡水口町にあります。
JR岡山駅を、7時07分発の電車で姫路へ、そこから新快速の電車に乗り継いで、10時35分にJR草津駅に着きました。
草津駅から、10時57分発のJR草津線の電車に乗り換えて、近江鉄道の電車に乗り継ぐため、JR貴生川駅に向かいました。JR草津線は、江戸時代の東海道に沿って走っていました。
11時20分に貴生川駅に着きました。岡山駅を出てから、乗り継ぎ時間も含めて4時間15分後でした。 同じ貴生川駅舎内にある近江鉄道の貴生川駅のホームに向かいました。
「近江鉄道」の案内にしたがって、近江鉄道貴生川駅のホームにおりました。東海道線のホームの隣にありました。
階段を下りると、ホームの手前にある出札口に列ができていました。切符を買う乗客の列でした。事務室では女性の駅員の方が切符を売っておられました。私も列に並んで、1駅先の「水口城南駅」行の切符を160円で買いました。自動販売機で買うものと思い込んでいましたので、駅員さんから渡されたときは少し感動しました。
もっと驚いたのは、渡された切符が硬券だったことです。ほんとになつかしい・・・。
男性の駅員さんの脇を通ってホームへ入ります。切符はすでにはさみが入れてあって、ここではチェックしていただくだけ。
ホームには、すでに電車が入っていました。黄色い車体の元西武鉄道の車輌です。近江鉄道は、西武鉄道で使用されていた車輌が多いことで知られています。
向かいのホームにあった車輌には、西武ライオンズの“レオ”のマークがありました。八日市駅方面に向かう列車に乗りました。
最初の駅、水口城南駅で下車しました。「水口石橋」など「水口」がつく駅が4つありました。
なつかしい鉄製の改札口です。待合室のいすにはきれいにカバーが掛けられていました。心も温かくなりました。
駅前の広場は、曳山の広場になっていました。享保20(1725)年に、町衆の力で巡行したことに始まります。今年も4月20日~21日の曳山祭りには、町内各町の曳山が巡行することになっています。
町内の各所に、曳山を収納するための山蔵が設置されていました。
水口の町の北に横たわる大岡山です。水口は、古代から東国や伊勢に向かう街道があって人の往来も頻繁だったところです。現在につながる町の基礎ができたのは、天正13(1585)年、豊臣秀吉が家臣の中村一氏(かずうじ)に命じて水口岡山城を築かせ、山麓の集落を城下町として整備させてからです。この山に、水口岡山城は築かれました。
曳山の広場を出て右折。水口岡山城があった方向に向かって歩きます。道路の左側に「御本丸町」の石標がありました。石碑から目を上げると、平成3(1991)年、木造で再建された水口城、「水口城資料館」でした。もとの水口城は、寛永11(1634)年、江戸幕府の3代将軍徳川家光が30万人の大軍を率いて上洛したとき、家光の宿館として築城されたことに始まります。作事奉行には小堀遠江守政一(小堀遠州)が任命され幕府の直営事業として建設されました。このとき、小堀遠州はほとんど伏見の邸宅に帰らず、熱心に築城の指揮監督をつとめたそうです。
水口城の周囲には水堀がありますが、それに沿って遊歩道があり一回りすることができます。かつての水口城は、南北75間、東西73間のほぼ正方形で、東側に出丸(枡形)がつけられていました。水口城資料館はその枡形の中につくられていました。水口城資料館になっている水口城跡に入る前に、堀に沿って一回りすることにしました。
城の南東の隅から北の水口城資料館を撮った写真です。水口城は、別名“碧水城”と呼ばれていました。堀には注水坑がないにもかかわらず、今もたっぷりと水をたたえており枯れたことがないそうです。豊かな湧水があるそうです。
水口城跡を南から北に向かって歩いていると右前方に矢倉跡の石積み(水口岡山城の石を転用しているそうです)が見えました。乾(いぬい)御矢倉跡です。正方形をした水口城の本丸の四隅には矢倉が置かれていました。北東の艮(うしとら)御矢倉、南東の巽(たつみ)御矢倉、南西の坤(ひつじさる)御矢倉、そして北西の乾御矢倉でした。その中で、乾御矢倉の規模が最大だったそうです。ちなみに、現在の水口城資料館は乾御矢倉をモデルにして建てられています。
本丸の宿館(御殿)があったところは、現在、滋賀県立水口高校のグランドになっています。休日だったこの日は、野球部が練習試合をしていました。
水口高校のグランドと堀の間に、土塁跡が残っています。
「水口城址」の碑から堀にかかる橋を渡って枡形にある水口城の出丸に入ります。かつての水口城もこの橋から出丸に入り、枡形を右の方に進んで大手門から本丸の御殿に入っていました。
これは、資料館に展示してあった宿館(御殿)の模型です。宿館として建てられたため天守閣はありません。出丸は模型の右端にある小さい四角形の部分です。写真の向こう側から手前に橋を渡って入ります。その後、枡形で右折して大手門から本丸御殿に入っていました。水口城の宿館(御殿)は、京都の二条城を摸してつくられており、すべて柿(こけら)葺きだったそうです。将軍家光の入洛に際してつくられた宿館は、その後は2度と使われることはありませんでした。城番を置いて幕府の管理の下に置かれていました。ちなみに初代城代は坪内玄蕃という人だったそうです。
天和2(1682)年、石見国吉永(現島根県大田市)から、加藤明友が甲賀郡など2万石を与えられて入封し水口藩が成立しました。加藤明友は“賤ヶ岳の七本槍“で知られる加藤嘉明の孫でした。資料館の職員の方のお話しでは、明友は、本丸の宿館(御殿)に「三つ葉葵」の瓦が使われていたため、本丸を使用せず「お預かりしている」という意識で生活していたということです。なお、本丸御殿は、正徳(1711~1715)年間に撤去されています。
水口城から近い藤栄(ふじさかえ)神社は、加藤氏の祖、加藤嘉明を祀っています。社標の文字は、明治の書家、巌谷一六の手になるものだそうです。
石標を裏からみて驚きました。リユースの素材だったからです。明治時代になって必要がなくなった国境石に彫られていました。高名な書家の文字を刻むのに・・・です。
水口藩の2代藩主加藤明英は、元禄8(1695)年、5千石の加増を受けて2万五千石で下野国壬生(みぶ)藩主になりますが、正徳2(1712)年、その子、嘉矩(よしのり)の時、再び水口藩に戻って来ます。その間は、入れ替わりに下野壬生藩にいた鳥居忠英(ただてる)が水口藩主をつとめていました。再入封した加藤氏は「加藤和泉守条目」を制定して支配体制の整備を行いました。また、江戸末期には藩校「翼輪堂」(よくりんどう)を設立して藩士の子弟教育にも力を入れるなど加藤氏は明治維新まで、11代にわたってこの地を支配しました。
2万5千石の加藤氏の家臣は、国元、江戸詰あわせて江戸末期には300名ほどいたそうです。家臣のトップの家老は俸禄600石を受けていました。資料館には文政期の分限帳が展示されていました。
家臣は「郭内(かくない)」とよばれる武家地に住み、許可なくそこから出ることはできませんでした。 60石以上の俸禄を受けていた士分の家臣は、長屋門のついた屋敷に住んでいました。現在町内の真徳寺の表門として、60石~80石取りの中級の家臣(蜷川氏)の長屋門が移築されていて、当時の面影を今に伝えています。
下級武士は扶持米を受けていました。かれらの生活は苦しく内職に精を出す毎日だったようです。「郭内」(かくない)の北の境、街道沿いにある長屋、百間(ひゃっけん)長屋がかれらの住まいでした。彼らの生活のようすが説明に書かれていました。
水口藩政の最大のできごとは、天保13(1842)年に、幕府の検地に反対して1万人の農民が蜂起した大一揆でした。町内の大徳寺には、一揆の指導者として処刑された11人の農民を慰霊する五輪塔が祀られています。
江戸幕府の3代将軍、徳川家光の入洛の際の宿館としてつくられた水口城は、江戸時代を通して水口藩2万5千石、加藤氏の政治の中心として機能していました。また、水口の町は、東海道の50番目の宿場町として、また、この地域の経済の中心地としても大きな役割を果たしていました。
午後から降り出した激しい雨の中を歩いた水口でした。来たときと同じ水口城南駅から帰途につくことにしました。
水口城南駅で列車を待っていたときにやってきた近江鉄道車輌です。車輌の全面が警察の広告(?)になっていました。珍しい、私は初めて見ました。 17時21分発の電車で貴生川まで行き、青春18きっぷで帰途につきました。
今回は、江戸幕府の3代将軍徳川家光の入洛の際の宿館として建てられた水口(みなくち)城跡を訪ねることにしました。現在の滋賀県甲賀郡水口町にあります。
JR岡山駅を、7時07分発の電車で姫路へ、そこから新快速の電車に乗り継いで、10時35分にJR草津駅に着きました。
草津駅から、10時57分発のJR草津線の電車に乗り換えて、近江鉄道の電車に乗り継ぐため、JR貴生川駅に向かいました。JR草津線は、江戸時代の東海道に沿って走っていました。
11時20分に貴生川駅に着きました。岡山駅を出てから、乗り継ぎ時間も含めて4時間15分後でした。 同じ貴生川駅舎内にある近江鉄道の貴生川駅のホームに向かいました。
「近江鉄道」の案内にしたがって、近江鉄道貴生川駅のホームにおりました。東海道線のホームの隣にありました。
階段を下りると、ホームの手前にある出札口に列ができていました。切符を買う乗客の列でした。事務室では女性の駅員の方が切符を売っておられました。私も列に並んで、1駅先の「水口城南駅」行の切符を160円で買いました。自動販売機で買うものと思い込んでいましたので、駅員さんから渡されたときは少し感動しました。
もっと驚いたのは、渡された切符が硬券だったことです。ほんとになつかしい・・・。
男性の駅員さんの脇を通ってホームへ入ります。切符はすでにはさみが入れてあって、ここではチェックしていただくだけ。
ホームには、すでに電車が入っていました。黄色い車体の元西武鉄道の車輌です。近江鉄道は、西武鉄道で使用されていた車輌が多いことで知られています。
向かいのホームにあった車輌には、西武ライオンズの“レオ”のマークがありました。八日市駅方面に向かう列車に乗りました。
最初の駅、水口城南駅で下車しました。「水口石橋」など「水口」がつく駅が4つありました。
なつかしい鉄製の改札口です。待合室のいすにはきれいにカバーが掛けられていました。心も温かくなりました。
駅前の広場は、曳山の広場になっていました。享保20(1725)年に、町衆の力で巡行したことに始まります。今年も4月20日~21日の曳山祭りには、町内各町の曳山が巡行することになっています。
町内の各所に、曳山を収納するための山蔵が設置されていました。
水口の町の北に横たわる大岡山です。水口は、古代から東国や伊勢に向かう街道があって人の往来も頻繁だったところです。現在につながる町の基礎ができたのは、天正13(1585)年、豊臣秀吉が家臣の中村一氏(かずうじ)に命じて水口岡山城を築かせ、山麓の集落を城下町として整備させてからです。この山に、水口岡山城は築かれました。
曳山の広場を出て右折。水口岡山城があった方向に向かって歩きます。道路の左側に「御本丸町」の石標がありました。石碑から目を上げると、平成3(1991)年、木造で再建された水口城、「水口城資料館」でした。もとの水口城は、寛永11(1634)年、江戸幕府の3代将軍徳川家光が30万人の大軍を率いて上洛したとき、家光の宿館として築城されたことに始まります。作事奉行には小堀遠江守政一(小堀遠州)が任命され幕府の直営事業として建設されました。このとき、小堀遠州はほとんど伏見の邸宅に帰らず、熱心に築城の指揮監督をつとめたそうです。
水口城の周囲には水堀がありますが、それに沿って遊歩道があり一回りすることができます。かつての水口城は、南北75間、東西73間のほぼ正方形で、東側に出丸(枡形)がつけられていました。水口城資料館はその枡形の中につくられていました。水口城資料館になっている水口城跡に入る前に、堀に沿って一回りすることにしました。
城の南東の隅から北の水口城資料館を撮った写真です。水口城は、別名“碧水城”と呼ばれていました。堀には注水坑がないにもかかわらず、今もたっぷりと水をたたえており枯れたことがないそうです。豊かな湧水があるそうです。
水口城跡を南から北に向かって歩いていると右前方に矢倉跡の石積み(水口岡山城の石を転用しているそうです)が見えました。乾(いぬい)御矢倉跡です。正方形をした水口城の本丸の四隅には矢倉が置かれていました。北東の艮(うしとら)御矢倉、南東の巽(たつみ)御矢倉、南西の坤(ひつじさる)御矢倉、そして北西の乾御矢倉でした。その中で、乾御矢倉の規模が最大だったそうです。ちなみに、現在の水口城資料館は乾御矢倉をモデルにして建てられています。
本丸の宿館(御殿)があったところは、現在、滋賀県立水口高校のグランドになっています。休日だったこの日は、野球部が練習試合をしていました。
水口高校のグランドと堀の間に、土塁跡が残っています。
「水口城址」の碑から堀にかかる橋を渡って枡形にある水口城の出丸に入ります。かつての水口城もこの橋から出丸に入り、枡形を右の方に進んで大手門から本丸の御殿に入っていました。
これは、資料館に展示してあった宿館(御殿)の模型です。宿館として建てられたため天守閣はありません。出丸は模型の右端にある小さい四角形の部分です。写真の向こう側から手前に橋を渡って入ります。その後、枡形で右折して大手門から本丸御殿に入っていました。水口城の宿館(御殿)は、京都の二条城を摸してつくられており、すべて柿(こけら)葺きだったそうです。将軍家光の入洛に際してつくられた宿館は、その後は2度と使われることはありませんでした。城番を置いて幕府の管理の下に置かれていました。ちなみに初代城代は坪内玄蕃という人だったそうです。
天和2(1682)年、石見国吉永(現島根県大田市)から、加藤明友が甲賀郡など2万石を与えられて入封し水口藩が成立しました。加藤明友は“賤ヶ岳の七本槍“で知られる加藤嘉明の孫でした。資料館の職員の方のお話しでは、明友は、本丸の宿館(御殿)に「三つ葉葵」の瓦が使われていたため、本丸を使用せず「お預かりしている」という意識で生活していたということです。なお、本丸御殿は、正徳(1711~1715)年間に撤去されています。
水口城から近い藤栄(ふじさかえ)神社は、加藤氏の祖、加藤嘉明を祀っています。社標の文字は、明治の書家、巌谷一六の手になるものだそうです。
石標を裏からみて驚きました。リユースの素材だったからです。明治時代になって必要がなくなった国境石に彫られていました。高名な書家の文字を刻むのに・・・です。
水口藩の2代藩主加藤明英は、元禄8(1695)年、5千石の加増を受けて2万五千石で下野国壬生(みぶ)藩主になりますが、正徳2(1712)年、その子、嘉矩(よしのり)の時、再び水口藩に戻って来ます。その間は、入れ替わりに下野壬生藩にいた鳥居忠英(ただてる)が水口藩主をつとめていました。再入封した加藤氏は「加藤和泉守条目」を制定して支配体制の整備を行いました。また、江戸末期には藩校「翼輪堂」(よくりんどう)を設立して藩士の子弟教育にも力を入れるなど加藤氏は明治維新まで、11代にわたってこの地を支配しました。
2万5千石の加藤氏の家臣は、国元、江戸詰あわせて江戸末期には300名ほどいたそうです。家臣のトップの家老は俸禄600石を受けていました。資料館には文政期の分限帳が展示されていました。
家臣は「郭内(かくない)」とよばれる武家地に住み、許可なくそこから出ることはできませんでした。 60石以上の俸禄を受けていた士分の家臣は、長屋門のついた屋敷に住んでいました。現在町内の真徳寺の表門として、60石~80石取りの中級の家臣(蜷川氏)の長屋門が移築されていて、当時の面影を今に伝えています。
下級武士は扶持米を受けていました。かれらの生活は苦しく内職に精を出す毎日だったようです。「郭内」(かくない)の北の境、街道沿いにある長屋、百間(ひゃっけん)長屋がかれらの住まいでした。彼らの生活のようすが説明に書かれていました。
水口藩政の最大のできごとは、天保13(1842)年に、幕府の検地に反対して1万人の農民が蜂起した大一揆でした。町内の大徳寺には、一揆の指導者として処刑された11人の農民を慰霊する五輪塔が祀られています。
江戸幕府の3代将軍、徳川家光の入洛の際の宿館としてつくられた水口城は、江戸時代を通して水口藩2万5千石、加藤氏の政治の中心として機能していました。また、水口の町は、東海道の50番目の宿場町として、また、この地域の経済の中心地としても大きな役割を果たしていました。
午後から降り出した激しい雨の中を歩いた水口でした。来たときと同じ水口城南駅から帰途につくことにしました。
水口城南駅で列車を待っていたときにやってきた近江鉄道車輌です。車輌の全面が警察の広告(?)になっていました。珍しい、私は初めて見ました。 17時21分発の電車で貴生川まで行き、青春18きっぷで帰途につきました。