トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

土蔵が映える佐用川沿いの宿場町、平福

2011年12月11日 | 日記

佐用川の水面に映える土蔵の壁が、子どもの顔のようで、ずっと気になっていました。また、何年か前、水害で大きな被害を受けていて、復興の状況も気になっていました。鳥取藩主の参勤交代にも使われた因幡街道の最大の宿場町、平福です。現在の兵庫県佐用郡佐用町平福です。

JR山陽本線の上郡駅から智頭急行の普通列車に乗って出かけました。岡山から、この線を走って鳥取に向かう特急「スーパーいなば」には、以前出張で乗ったことがありましたが、普通列車に乗るのは初めてでした。11カ所のトンネルをこえて、約30分で、平福駅に着きました。眼下に平福の町が一望できました。

あの土蔵も、ほんの100mぐらいのところにありました。道の駅「ひらふく」の隣の山裾に、陣屋門も見えました。災害からは復興しているように感じました。

さて、平福はもともと城下町として整備されました。慶長6(1601)年、駅の裏にある標高373mの利神(りかん)山の山頂に、池田出羽守由之が、利神城を築城したのに始まります。

山頂につくられた3層の天守閣の跡を、今も、町から見ることができます。(石垣の崩落が激しく登山禁止になっていましたが・・。)町立郷土館の2階に模型が展示されていました。「雲突城」と呼ばれ、由之の叔父で後見役だった池田輝正が、幕府の反応を恐れて、破棄することを命じたと言われています。由之は、慶長14(1614)年、備前国の下津井城に移り、このとき、天守閣などが取り壊されたようです。

郷土館にあった利神城の模型です。

余談になりますが、由之は、その後、伯耆の国に移封されていた、幼少の池田光政の補佐役を務めました。由之の嫡子、由成は岡山藩主となった池田光政の家老となり、天城(現在の岡山県倉敷市藤戸町天城)に陣屋を構えました。ちなみに、由成の子、熊子は赤穂浪士の大石内蔵助良雄の母だった人です。寛永8(1631)年、時の藩主、池田輝興が赤穂に転封し、廃藩、廃城となりました。それからは、松平康朗の旗本領となり、因幡街道の宿場町、商業町として、発展していくことになりました。

因幡街道で運ばれてきた荷物は、平福で船に積み替えられ、佐用川から千種川を経由して、赤穂藩の坂越(さごし)に送られていました。

さて、それにしても、智頭急行の平福駅舎は立派な木造の建物でした。

「近畿の駅百選」に選ばれています。駅舎は屋根だけで囲いはありませんでした。

駅前からまっすぐに伸びる道を進み、佐用川にかかる京橋を渡ると、すぐ目の前を、東西に走っている旧因幡街道に着きます。

その右の向かい側に、平福宿の本陣跡。町内にある素盞鳴神社の御旅所になっているそうで、中のお堂に、神輿が保管されていました。

道の駅の手前につくられた道標に従って、因幡街道を右折して、岡山県方面に進みます。

1.2kmの間に、宿屋14軒(天保年間)、酒屋12軒(寛文年間)があったと言われ、繁栄していた宿場町の雰囲気が伝わってきます。

蔦がからまっている民家がありました。黒漆喰の壁に、装飾が着いたうだつのある見事な民家でしたが、住む人がいないのでしょう、蔦がからまったまま放置されているようでした。

しばらく進むと、旧田住邸に着きます。代々大庄屋をつとめ、18世紀には、旗本松平氏の代官を務めていました。元禄時代に築かれた「池泉鑑賞式庭園」が残っています。拝見していると、奥様から声をかけられお茶をごちそうになりながら、ご主人からまちづくりのお話をお聞きしました。

さらに進むと、江戸時代の初期創業といわれる「たつ乃醤油」本店。このあたりにも古い民家が残っていました。その先で、旧街道は左にカーブして宿場から離れていきます。

もと、牢屋敷があったところにつくられた郷土館の前を通って、国道373号線に出ます。

山側に正覚寺。町を歩きながら、この町のお寺は数も多く立派だと感じていましたが、ここも立派なお寺でした。

その先が、道の駅「ひらふく」。観光客は、ここで昼食です。地元の産品を販売する「平成福の市」やおみやげ店も営業していました。

代官所跡の陣屋門。松平氏の旗本領になってから、代官が支配していましたが、この門は、元治元(1864)年、代官、佐々木平八郎が建築したものだそうです。

もう一度、因幡街道にもどり、今度は南の佐用方面に向かって歩きます。

京橋の下流にかかる天神橋からの川端風景がきれいです。慶長から元和年間(1596~1623)年にかけて形成されたと言われています。佐用川沿いに川端の道が続き、民家から降りる出口がつくられています。

土蔵の石垣の中で黒く見えているところが出口で、「川戸」と呼ばれる木戸がついています。川端の景観を彩る石垣は、昭和49年河川改修工事のときに消滅の危機を迎えました。しかし、保存を求める住民の方々の景観保存運動によって、75mが保存されることになったそうです。

再び、因幡街道に戻ります。

ちょうど、川端の土蔵の表側に当たるのが、これらの民家です。

手前の白漆喰の民家が瓜生原(うりゅうはら)二郎氏邸。玄関に、兵庫県指定の「景観形成重要建造物」の標識がかかっていました。その奥の土色をした建物が、瓜生原恒男氏邸。瓜生原家は、江戸時代の享保年間(1716~1735)、美作の国津山(現岡山県津山市)の瓜生原から移り住み、「吹屋」の屋号で、鋳物業を営んでいたそうです。

瓜生原恒男氏邸の玄関に、この家でつくられた鍋や釜、喚鐘(かんしょう)が展示されていました。

町立郷土館の建物は、この民家の特徴を行かして建てられていました。


宿場町の外れ、金倉橋のたもとに六地蔵があります。ここは、江戸時代、藩の刑場があったところで、供養のために、元禄期(1688~1703)につくられたそうです。

また、宮本武蔵の決闘の場でもあります。彼の著書、「五輪書」には、「吾若年のむかしより兵法の道に心をかけ13歳にして初めて勝負す、その相手、新当流の有馬喜兵衛に打ち勝ち・・・」と書かれています。この勝負は、ここで、慶長元(1596)年に行われました。

武蔵の母が死亡したあと、父無二斉は、よし子を後妻に迎えたので、かれは、この義母によって育てられました。7歳の時に父も亡くなり、義母は平福に帰り、田住政久の後妻になったそうです。武蔵は後を追って平福に来て、正連庵の道林坊に預けられました。そして、その弟、長九郎に武芸を学んでいたのでした。

ここから、因幡街道は平福の宿場を離れ佐用に向かっていました。

土蔵の川端風景が魅力の町でしたが、それだけでなく、岡山藩にゆかりのある城下町であり、宿場町でした。また、大原町ゆかりの宮本武蔵にも強くかかわる町でした。        

これほど、岡山とのかかわりの強い町だったことは、行って初めて知りました。街道は人や物をつないでいるということを、再確認した旅でした。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
見ました (山田のクリ)
2011-12-12 19:58:12
トロッコと平福の宿場共に読ませていただきました。ユニークな所へ行かれますね。感心しました。「オタク」ですか?
 両方とものんびりと旅したいところですね!!
返信する
ありがとうございました (tosi)
2011-12-14 19:13:41
おたくかもしれませんが、
連休がとれないので、できるだけ、
自分の興味があるところに
行きたいとは思っています。
いつもありがとうございます。
返信する

コメントを投稿