白壁の土蔵が並ぶ、倉敷美観地区。
国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているところです。

私にとっては、余りにも身近な地区なので、
1つ1つの建物をしっかり見ながら歩いたことは、
これまでありませんでした。

昭和3(1928)年、倉敷市が市になった記念に発行された「倉敷市新地図」です。
倉敷美観地区を再発見しようと思い、
「絵図で歩く くらしきのまち」(吉備人出版)を手に、
(絵図は、この本の付録です)
倉敷川に沿って、ゆっくり歩いてみました。
倉敷駅前から南東に下る中央通りを進み、
スクランブル交差点を左に折れて美観地区に入ります。
入るとすぐ左側にあるのが「倉敷物語館」です。
倉敷市の観光・文化交流の拠点として使われていますが、
かつての東大橋家(屋号「東中島屋」)の住宅を、
倉敷市が整備したところです。
東大橋家は、江戸時代の後期から経済力を高めてきた
「新禄派」の商人で、中央大通りをはさんで西側にある、
大橋家(屋号「中島屋」)の一族です。
地主・金融業を営み、倉敷鶴新田の開発にもかかわったそうです。

江戸時代の初めから大きな経済力をもち、
倉敷村の運営を担ってきた「古禄派」の商人が、
18世紀後半には没落していきます。
かれらは多くの借地借家を持ち、問屋や醸造業で財をなした、
人たちでした。
新禄派は、それにかわって財力をつけてきた新興の商人で、
村の運営をめぐって、古禄派と対立するようになります。
文政7(1824)年、新禄派は江戸幕府に訴え、
同10(1827)年に勝利します。その結果、
村民の選挙によって村役人が選任されるようになり、
新禄派の商人が運営の中心になっていきました。
東大橋家は文政11(1828)年に倉敷村年寄、
文久元(1861)年に倉敷村庄屋に就任し、村運営にも力を発揮しました。
その並びにあるのがレストラン亀遊亭です。

建物の前にある「倉敷教会旧会堂・竹中幼稚園開園の地」の碑。
明治44(1911)年、倉敷でのキリスト教の広がりに伴い、
仮会堂が建てられたところです。
江戸時代から明治まで「大黒」が祀られていた惣堂宮があったところで、
明治43(1910)年、阿智神社に合祀された後、
大正11(1922)年、附属幼稚園がここに開園しました。

仮会堂が手狭になって、大正12(1923)年旭町に移転しました。
「倉敷新地図」(昭和3年)には、「裁縫堂」と書かれていましたが、
診療所、戦後は料亭「かき増」を経て、亀遊亭になりました。
倉敷川に浮かぶ白鳥の姿が見えると、
その先に旧大原家住宅(国指定重要文化財)
そして、倉敷川にかかる今橋が見えてきます。

倉敷を代表する新禄派の大商人、明治時代になってからは、
地場の資本で設立した倉敷紡績の経営や
倉敷市のシンボルである大原美術館の設立など、
まちづくりにも大きな貢献をした大原家の住宅です。
本瓦葺き、倉敷窓、親付切子格子(倉敷格子)という、
倉敷独特の意匠を備えています。
蔵は腰に瓦を張り、目地を白漆喰で仕上げる「なまこ壁」となっています。
旧大原家住宅の敷地は、「屋敷割絵図」(宝永7=1710年)には、
妹尾屋十之兵衛、俵屋又三郎、今蔵屋長左衛門などの屋敷が、
あったところでした。
大原家は、元禄年間(1688~1703)、
備前の国児島郡片岡村から倉敷市に移住しました(屋号「児島屋」)。
もとは原野姓でしたが、原姓に改め、
幕末に名字帯刀を許されたとき、大原と改名したと言われます。
3代目の与兵衛金基は、綿繰仲買を営んでいました。
寛永7(1795)年に住宅建築に着工し、
翌年完成したのが、写真の主屋です。
この写真は、旧大原家住宅の脇道から見た大原美術館です。

大原家は、5代目の与兵衛のとき、
倉敷村有数の豪農・豪商に成長しました。
万延元(1860)年には倉敷村年寄になり、
文久元(1861)年には庄屋に就任したそうです。
その後、壮平と改名しました。
明治になって大地主として大きな経済力を蓄え、
大原家の中興の祖と称えられているそうです。

美観地区を代表する大原美術館。
石造りに見えますが、実は鉄筋コンクリート2階建てだそうです。
洋画家児島虎次郎が収集した西洋絵画を展示するため、
大原孫三郎が建設した日本初の西洋美術館です。
設計は薬師寺主計(かずえ)。
昭和5(1930)年に公開されました。
大原孫三郎の父、大原孝四郎は、
もと、岡山藩の儒家藤田家の生まれで、藤田幸三郎と称していました。
後に、壮平の孫娘の婿養子となり、大原家を継ぎました。
明治21(1888)年倉敷紡績所を設立し初代頭取となり、
明治24(1891)年には倉敷銀行を設立しました。
大原孫三郎は、その3男として生まれました。
「富豪の跡継ぎとして放蕩生活を送り・・・放蕩の果てに
現在の金額で1億円のも借金をかかえ・・・
謹慎中に社会福祉家石井十次と知り合い、
社会福祉事業に興味を示すようになった」(「Wikipedia」より)
え!
最近、これに似た、富豪の跡継ぎの放蕩の話がありましたね。
しかし、かれは、その後がすごいのです!
大原孫三郎は、父が設立した倉敷紡績の社長のほか、
倉敷絹織(現クラレ)、中国合同銀行(中国銀行の前身)、
中国水力電気会社(中国電力の前身)の社長も兼務しました。
一方で、石井十次との交流を通して、
先にあげた倉敷教会に通うようになり、
社会・文化事業にも熱心に取り組み始めました。
倉紡中央病院(現倉敷中央病院)、大原奨農会農業研究所(現岡山大学)、
倉敷労働科学研究所・大原社会問題研究所(現法政大学)
私立倉敷商業補修学校(県立倉敷商業高校)などを設立しました。
ちなみに、大原美術館の所蔵品を収集した児島虎次郎は、
大原孫三郎の媒酌で石井十次の娘と結婚したといわれています。

喫茶 エル・グレコ。
この建物は、大正15(1926)年に奨農土地株式会社の本社事務所として
つくられたもので、大原孫三郎の長男、大原総一郎が、
美術館の来訪者の休憩施設としてオープンさせたそうです。

やはり、蔦が生い茂った夏場の方がきれいですね。

旧大原家住宅と倉敷川に沿って並んでいるのが、
「緑御殿」の有隣荘です。
昭和3(1928)年、大原家別私邸として建築されました。
設計は大原美術館と同じ、薬師寺主計。
洋風建築と和風建築とをつないだ構成になっているそうです。
「緑御殿」といわれるもとになった緑の釉薬瓦(ゆうやくがわら)は、
泉州の谷川(たがわ)の窯で焼かれた特別製です。
六高(岡山大学)の松尾哲太郎教授が、
「有隣荘」と命名したそうです。
昭和22(1947)年昭和天皇が全国御幸されたとき、
宿泊所に指定されるなど、迎賓館としても使用されました。
倉敷川をまたいで、大原美術館と旧大原家住宅、有隣荘をつなぐ、今橋。

「屋敷割絵図」(宝永7=1710年)には、「今橋」と書かれていて、
木の橋が描かれていますが、
「倉敷村本田小割絵図」(文久3=1863年)には
石橋になっているそうです。
この石橋を、大正15(1926)年に付け替えたのが、
現在の今橋なのだそうです。
皇太子だった昭和天皇が、倉敷を訪問された時のことでした。

橋の外観は花こう岩、内部は鉄筋コンクリート構造なのだそうです。
高欄には、児島虎次郎がデザインした竜の彫刻が残っています。

親柱の上には、菊の紋章が彫刻されています。

今橋の文字は、大原孫三郎の手になるもので、
彼の資金援助によって、豊かな装飾がなされたということです。
倉敷川沿いに多くの観光客を集める倉敷美観地区。
歩きながら、
新禄派の商人として富を蓄えた大原家の
まちづくりに対する大きな貢献を再確認することになりました。
国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているところです。

私にとっては、余りにも身近な地区なので、
1つ1つの建物をしっかり見ながら歩いたことは、
これまでありませんでした。

昭和3(1928)年、倉敷市が市になった記念に発行された「倉敷市新地図」です。
倉敷美観地区を再発見しようと思い、
「絵図で歩く くらしきのまち」(吉備人出版)を手に、
(絵図は、この本の付録です)
倉敷川に沿って、ゆっくり歩いてみました。
倉敷駅前から南東に下る中央通りを進み、
スクランブル交差点を左に折れて美観地区に入ります。

入るとすぐ左側にあるのが「倉敷物語館」です。
倉敷市の観光・文化交流の拠点として使われていますが、
かつての東大橋家(屋号「東中島屋」)の住宅を、
倉敷市が整備したところです。
東大橋家は、江戸時代の後期から経済力を高めてきた
「新禄派」の商人で、中央大通りをはさんで西側にある、
大橋家(屋号「中島屋」)の一族です。
地主・金融業を営み、倉敷鶴新田の開発にもかかわったそうです。

江戸時代の初めから大きな経済力をもち、
倉敷村の運営を担ってきた「古禄派」の商人が、
18世紀後半には没落していきます。
かれらは多くの借地借家を持ち、問屋や醸造業で財をなした、
人たちでした。
新禄派は、それにかわって財力をつけてきた新興の商人で、
村の運営をめぐって、古禄派と対立するようになります。
文政7(1824)年、新禄派は江戸幕府に訴え、
同10(1827)年に勝利します。その結果、
村民の選挙によって村役人が選任されるようになり、
新禄派の商人が運営の中心になっていきました。
東大橋家は文政11(1828)年に倉敷村年寄、
文久元(1861)年に倉敷村庄屋に就任し、村運営にも力を発揮しました。
その並びにあるのがレストラン亀遊亭です。

建物の前にある「倉敷教会旧会堂・竹中幼稚園開園の地」の碑。
明治44(1911)年、倉敷でのキリスト教の広がりに伴い、
仮会堂が建てられたところです。
江戸時代から明治まで「大黒」が祀られていた惣堂宮があったところで、
明治43(1910)年、阿智神社に合祀された後、
大正11(1922)年、附属幼稚園がここに開園しました。

仮会堂が手狭になって、大正12(1923)年旭町に移転しました。
「倉敷新地図」(昭和3年)には、「裁縫堂」と書かれていましたが、
診療所、戦後は料亭「かき増」を経て、亀遊亭になりました。
倉敷川に浮かぶ白鳥の姿が見えると、
その先に旧大原家住宅(国指定重要文化財)
そして、倉敷川にかかる今橋が見えてきます。

倉敷を代表する新禄派の大商人、明治時代になってからは、
地場の資本で設立した倉敷紡績の経営や
倉敷市のシンボルである大原美術館の設立など、
まちづくりにも大きな貢献をした大原家の住宅です。
本瓦葺き、倉敷窓、親付切子格子(倉敷格子)という、
倉敷独特の意匠を備えています。
蔵は腰に瓦を張り、目地を白漆喰で仕上げる「なまこ壁」となっています。
旧大原家住宅の敷地は、「屋敷割絵図」(宝永7=1710年)には、
妹尾屋十之兵衛、俵屋又三郎、今蔵屋長左衛門などの屋敷が、
あったところでした。
大原家は、元禄年間(1688~1703)、
備前の国児島郡片岡村から倉敷市に移住しました(屋号「児島屋」)。
もとは原野姓でしたが、原姓に改め、
幕末に名字帯刀を許されたとき、大原と改名したと言われます。
3代目の与兵衛金基は、綿繰仲買を営んでいました。
寛永7(1795)年に住宅建築に着工し、
翌年完成したのが、写真の主屋です。
この写真は、旧大原家住宅の脇道から見た大原美術館です。

大原家は、5代目の与兵衛のとき、
倉敷村有数の豪農・豪商に成長しました。
万延元(1860)年には倉敷村年寄になり、
文久元(1861)年には庄屋に就任したそうです。
その後、壮平と改名しました。
明治になって大地主として大きな経済力を蓄え、
大原家の中興の祖と称えられているそうです。

美観地区を代表する大原美術館。
石造りに見えますが、実は鉄筋コンクリート2階建てだそうです。
洋画家児島虎次郎が収集した西洋絵画を展示するため、
大原孫三郎が建設した日本初の西洋美術館です。
設計は薬師寺主計(かずえ)。
昭和5(1930)年に公開されました。
大原孫三郎の父、大原孝四郎は、
もと、岡山藩の儒家藤田家の生まれで、藤田幸三郎と称していました。
後に、壮平の孫娘の婿養子となり、大原家を継ぎました。
明治21(1888)年倉敷紡績所を設立し初代頭取となり、
明治24(1891)年には倉敷銀行を設立しました。
大原孫三郎は、その3男として生まれました。
「富豪の跡継ぎとして放蕩生活を送り・・・放蕩の果てに
現在の金額で1億円のも借金をかかえ・・・
謹慎中に社会福祉家石井十次と知り合い、
社会福祉事業に興味を示すようになった」(「Wikipedia」より)
え!
最近、これに似た、富豪の跡継ぎの放蕩の話がありましたね。
しかし、かれは、その後がすごいのです!
大原孫三郎は、父が設立した倉敷紡績の社長のほか、
倉敷絹織(現クラレ)、中国合同銀行(中国銀行の前身)、
中国水力電気会社(中国電力の前身)の社長も兼務しました。
一方で、石井十次との交流を通して、
先にあげた倉敷教会に通うようになり、
社会・文化事業にも熱心に取り組み始めました。
倉紡中央病院(現倉敷中央病院)、大原奨農会農業研究所(現岡山大学)、
倉敷労働科学研究所・大原社会問題研究所(現法政大学)
私立倉敷商業補修学校(県立倉敷商業高校)などを設立しました。
ちなみに、大原美術館の所蔵品を収集した児島虎次郎は、
大原孫三郎の媒酌で石井十次の娘と結婚したといわれています。

喫茶 エル・グレコ。
この建物は、大正15(1926)年に奨農土地株式会社の本社事務所として
つくられたもので、大原孫三郎の長男、大原総一郎が、
美術館の来訪者の休憩施設としてオープンさせたそうです。

やはり、蔦が生い茂った夏場の方がきれいですね。

旧大原家住宅と倉敷川に沿って並んでいるのが、
「緑御殿」の有隣荘です。
昭和3(1928)年、大原家別私邸として建築されました。
設計は大原美術館と同じ、薬師寺主計。
洋風建築と和風建築とをつないだ構成になっているそうです。
「緑御殿」といわれるもとになった緑の釉薬瓦(ゆうやくがわら)は、
泉州の谷川(たがわ)の窯で焼かれた特別製です。
六高(岡山大学)の松尾哲太郎教授が、
「有隣荘」と命名したそうです。
昭和22(1947)年昭和天皇が全国御幸されたとき、
宿泊所に指定されるなど、迎賓館としても使用されました。
倉敷川をまたいで、大原美術館と旧大原家住宅、有隣荘をつなぐ、今橋。

「屋敷割絵図」(宝永7=1710年)には、「今橋」と書かれていて、
木の橋が描かれていますが、
「倉敷村本田小割絵図」(文久3=1863年)には
石橋になっているそうです。
この石橋を、大正15(1926)年に付け替えたのが、
現在の今橋なのだそうです。
皇太子だった昭和天皇が、倉敷を訪問された時のことでした。

橋の外観は花こう岩、内部は鉄筋コンクリート構造なのだそうです。
高欄には、児島虎次郎がデザインした竜の彫刻が残っています。

親柱の上には、菊の紋章が彫刻されています。

今橋の文字は、大原孫三郎の手になるもので、
彼の資金援助によって、豊かな装飾がなされたということです。
倉敷川沿いに多くの観光客を集める倉敷美観地区。
歩きながら、
新禄派の商人として富を蓄えた大原家の
まちづくりに対する大きな貢献を再確認することになりました。