トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

太った鯉が泳ぐ城下町、津和野

2011年08月17日 | 日記
SLやまぐち号で津和野に行きました。津和野は、島根県鹿足郡津和野町、「鯉の泳ぐ城下町」で知られています。白壁と堀割と鯉は、津和野の代名詞です。

私が学生の頃、旅行好きの友人が、「つわのはいいぞ!」と言っているのを聞いたのが、「津和野」に興味を持ったきっかけでした。何回か来たことがありますが、今一つ強い印象がないのです。

今回は、SLの動きに時間を取られ帰りの時間も決まっていたので、城下町の中心部、本町、殿町周辺を回っただけでした。

スタートは、JR津和野駅。そこから商人町の本町に入り、武家屋敷町、殿町を歩きました。


 
本町です。町中には、森鴎外生誕150周年を知らせる、のぼりがはためいていました。本町には、古い商家がたくさん残っています。中には、国の「登録有形文化財」に指定された商家も点在しています。
 



 
殿町に近づくと、古くからの酒造会社が3軒、かたまってありました。
 


路地もまたきれいです。白壁の土蔵も、伝統的な旅館街も。

殿町に入ると、すぐのところに「沙羅の木」があります。つぎつぎに入ってくる観光バスの乗客が、ここの職員の案内で、殿町を歩いて行きます。

向かいには、津和野カトリック教会。昭和6(1931)年、ドイツ人シェーファによって建てられたゴシック式の教会。石造りで重厚な印象でした。
 

 


さっそく、鯉の姿が見えてきます。ここからの約200mが、観光ガイドに載っている名所です。進むにつれて鯉が大きくなっていきます。その太り方は「異常な」としか言いようのない状態です。近くから聞こえる案内のお話では、「観光客にえさを任せるようになってから太ってきました」、「鯉の場合にはメタボはありません」、「冬になったら、食べなくなるし動かなくなるので、大丈夫」とのことでした。

人力車も走っていました、後方は元藩校の養老館。現在は、民俗資料館になっています。「養老院ではありませんよ、正しく覚えて帰ってください」との案内の声。

ここ津和野の城下町づくりに着手したのは、坂崎出羽守直盛です。岡山ゆかりの宇喜多秀家に仕えたが折り合いが悪く、関ヶ原の戦いでは東軍につき、その功績で津和野藩3万石を与えられました。元和元(1615)年、大坂夏の陣で大坂城落城のとき、徳川家康の孫娘(豊臣秀頼の正妻)、千姫をやけどを負いながら救出したことで知られています。(豊臣方の武将(堀内氏久)が坂崎の陣まで送り届けたのを、徳川秀忠のところまで送り届けたというのが真相のようです。) その功を認められて加増され、4万3千石を領しました。千姫の身の振り方を家康から依頼され、縁組みが決まりつつあったとき、突然、本多忠刻(姫路新田藩)との縁組みが決まったので、千姫奪還計画を立てたといわれます。そのため、翌元和2(1616)年自害して果ててしまいます。


鷺舞の像。津和野川のたもとに建てられています。毎年7月の20日と27日、祇園祭りのとき、重い鷺の衣装を着けて、弥栄神社から御旅所まで唄と笛の音に合わせて踊ります。ここで、子どもの姿を撮影する人がたくさんいました。

藩校の向かいは、城代家老多胡家表門です。坂崎直盛の後、津和野を領した亀井家の、3人の家老(他に大岡家、牧野家)の屋敷がここから並んでいました。

現在も、現役で役場として使われている屋敷跡。

きれいに敷き詰められた舗道を、沙羅の木まで帰ります。
「私たちも岡山に行ったときは、吉備団子を買って帰りました。今度は、源氏巻きを買って帰ってください」
あれっ!このグループは岡山の人たちだったの? 一行は、そのまま沙羅の木の中に消えていきました。


赤穂浪士が吉良上野介を討った「討ち入り」は有名です。その浅野内匠守が切腹した3年前、津和野藩主が公儀饗応役を命じられ、吉良の指導を受けました。あまりのいじめのひどさに「吉良を討つ」と決意します。その時、城代家老は源氏巻の菓子箱の下に小判を敷き詰めて吉良に贈り、お取り潰しの難を逃れたと言われています。
案内の方のお話です。

話の真偽は別にして、源氏巻きは手頃な値段ということもあって、津和野のおみやげとしてよく知られています。 「実は、私はおみやげ物屋のまわし者です」という案内の人たちは、帰るとすぐ、次のバスのグループの案内に走って行きました。

沙羅の木を出た観光客は、「いい日旅立ち」で用を足した後、バスで出発していきます。

私も、SLの出発時間を見ながら、駅に向かって出発することにしました。短い時間でしたが、津和野はなかなかおもしろい町で、楽しい時間が過ごせました。






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