トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
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貝塚市に残る寺内町の面影を訪ねて(2)

2018年12月12日 | 日記
大阪市貝塚市は寺内(じない)町として知られています。寺内町は、室町時代から江戸時代初期にかけて浄土真宗などの仏教寺院や御坊(道場)を中心に形成された集落です。壕や土塁で囲まれた集落では自治が行われ、信者や商工業者が居住していました。貝塚寺内町は浄土真宗、願泉寺を中心に成立、発展してきました。

前回は、貝塚市内で唯一周壕の遺構が残る感田神社と、中心寺院の願泉寺や町政を担った寺僧の寺院を訪ねて来ました。今回は、寺内町に残る商工業者の邸宅跡を訪ねて歩くことにしました。

前回と同じように、観光案内所でいただいた「貝塚寺内町登録有形文化財マップ」を手に寺内町を歩きました。マップにある、国の「登録有形文化財」に登録されている邸宅のうち、並河家、山田家、竹本(久男)家、利齋(りさい)家は前回訪ねてきました。今回は、それ以外の七家を訪ねるつもりでした。

貝塚市立北小学校からスタートしました。北小学校は、かつて、この地を支配した願泉寺の住職であった卜半(ぼくはん)家の政庁、「卜半役所」が置かれていたところです。小学校の正門前の通りは「御下筋(おしたすじ)」と呼ばれていました。御下筋を、地図の右(北)に向かって歩きます。

すぐに、前回訪ねた利齋(りさい)家の前の通り”堀之町筋”(堀之町通)を横切り、利齋家の土蔵の脇を北に進みます。利齋家では代々当主は「孫左衛門」を名乗り、江戸時代には薬種問屋を営む傍ら、北町の惣分年寄をつとめていました。寺内町には、中之町、北之町、南之町、西之町、近木(こぎ)町の五町がありました。それぞれの町には町会所が置かれ、年寄などの町役人がつとめていました。利齋家は17世紀の建物といわれ寺内町最古の町屋といわれています。国の登録有形文化財です。

利齋家から北に進んだところにあった岡本家の邸宅です。貝塚寺内で発展した代表的な産業は、廻船業と鋳物業、そして、特産の和泉櫛をつくる櫛挽(くしびき)だといわれていますが、江戸時代の中期以降木綿を扱う店も増えていったそうです。岡本家は、屋号を「唐津屋」といい、当主は代々「市郎兵衛」を名乗っていました。江戸時代には北之町の町年寄をつとめており、家業の醤油醸造業を、昭和30年代(1955~1965年)まで営んでいたそうです。主屋は江戸時代中期の建物といわれ、国の登録有形文化財に登録されています。

岡本家の先で、東西の通りを左折します。写真は、右折した正面にあった「堀之町太鼓」の格納庫です。寺内町の産土神(うぶすなかみ)である感田神社の夏祭りに行われる”御輿渡御(みこしとぎょ)”の太鼓台を納めています。左折して西に進みます。

10メートルぐらいで、かつての紀州街道である府道堺阪南線の北町(きたちょう)交差点に入ります。紀州街道は紀州和歌山藩の参勤交代の道でした。当時よりかなり拡幅されています。すき家の脇を右(大阪方面)に折れ、大阪方面に向かって進みます。

府道の右側に、ブルーシートに覆われた邸宅がありました。被災されているようです。宇野家です。本家で鋳物業を営んでいた「金屋長右衛門」(屋号)から分家して、江戸時代には製粉業を営んでいました。明治20(1887)年頃に、本家の居宅と家業を引き継いで、屋号を「金屋茂兵衛(かなやもへい)」と名乗り、鋳物業で栄えました。少し先にある土蔵のあたりから、振り返って撮影しました。国の登録有形文化財です。

やがて、府道が緩やかに右カーブするようになると、堀新の交差点になります。ここで、府道から左に分岐している通りがあります。この通りがかつての紀州街道でした。

かつての紀州街道に入ります。通りには、往事の雰囲気を残す建物も残っていました。

紀州街道を引き返して、堀新交差点まで戻りました。堀並橋の下に小さな川が流れています。寺内町の北の境になっている川でした。どっしりとした和風の建物の脇を流れる北境川です。大阪湾に向かって流れています。

こちらは、東側の北境川です。改修工事がなされていましたが、かつては、寺内町の防御のため、壕と土塁がありました。

大阪湾側の北境川の脇にあった尾食(おめし)家の主屋です。紀州街道が北境川とぶつかるこのあたり、現在の北町・堀三丁目付近は、寺内町への上方(大阪)側からの入口にあたるところから、「上方口」と呼ばれていました。また、周辺の地域は「二軒屋町」と呼ばれ、旅籠が軒を連ねていたそうです。尾食家も、江戸時代を通じて旅籠屋や両替商を営んでいました。幕末には、干鰯(ほしか)等の魚肥の販売や、木綿の仲買なども行っていたそうです。主屋は、天保10(1839)年に建てられ、国の登録有形文化財に登録されています。

寺内町の北の入口、北境川から紀州和歌山方面に向かって引き返します。先に見てきた宇野家が進行方向左側にありました。広い敷地に建てられていました。

「マップ」上に黒く引かれたラインは、紀州街道です。紀州街道は、通ってきた岡本家の上(西)のあたりで鍵形に曲がっています。枡形(ますがた)になっていました。

枡形のあるところは、先に上方口に行くために右カーブしたすき家のあった交差点付近にあたります。このあたりが枡形になっていたところのようです。

すき家のあった北町交差点を過ぎると、その次は北町南交差点です。通りは「堀之町筋(堀之町通り)」です。和風の建物の向こう側に利齋家の土蔵があります。右側の読売新聞・読売旅行の入るビルの向こうには北小学校がありました。

北町南交差点で右折して西に向かいます。通りは舗道になっており、「貝塚寺内町めぐり道」の銘がはめ込まれています。その先右側にある駐車場の手前を左折して、府道と並行した通りを進みます。

左側の駐車場越しに見えた北小学校です。

次の四つ辻の右にあった西町の竹本(章次)家。江戸時代末期に建設された主屋は登録有形文化財になっていますが、一部2階建ての部分が増築されているような印象でした。元の所有者の手を離れたときに改装されたようです。マップの説明では、江戸時代の「住人の職業は不明ですが、その建築構造から願泉寺卜半家の家来屋敷であった可能性がある」そうです。

竹本(章次)家の次の四つ角は、寺内町の中之町通(通称なかんちょ通り)、現在の西町海塚麻生中線です。横断します。貝塚寺内町の通りは、紀州街道が拡幅された府道堺阪南線と中之町通りを除けば、かつての通りがそのまま残っているそうです。

その先にあった吉村家です。厨子2階建ての主家はピンク色に塗られています。江戸時代には「泉久(いずきゅう)」という屋号で油屋や両替商を営む傍ら、西町の中老役をつとめていたそうです。主屋は、江戸時代中期から末期にかけて建てられたもので、登録有形文化財に登録されています。

吉村家の先の四つ辻です。右折して西に向かって進みます。

左側に間口も奥行きも広い、平入り、黒漆喰塗りの厨子2階建ての重厚な建物がありました。廣海(ひろみ)家の主屋です。天保6(1835)年に北前船の廻船問屋を開業しました。主に、肥料問屋として干鰯等を扱っていました。倉の2階に望遠鏡を備え(「めがね倉」というそうです)、港に入る廻船の種類を見分けていたといわれています。

さらに西に進み、振り返って撮影した廣海家です。明治時代中期に廻船問屋から撤退した後は、肥料を扱っていたといわれています。

廣海家の西にある四つ辻で、舗道の「貝塚寺内町めぐり道」が終わりになりました。そこで、左折、次の三差路を再度左折して、廣海家の裏側を東に向かって歩きます。廣海家はこのブロックの大半を敷地にしていたようです。

マップです。次は、名加家をめざして歩きます。吉村家からまっすぐ南に向かう通りに出て、さらに南に進んでいくことにしました。

廣海家の裏側の通りを歩いて、吉村家から南に向かう通りに戻りました。さらに南に向かいます。その先の四つ辻を左に向かうと紀州街道沿いに・・・

「村雨 塩屋堂」の看板を掲げたお菓子屋さん「(株)塩五」があります。観光案内所でいただいたパンフ「ぴたっと貝塚」には「口当たりよく、もちもち感があって甘さ控えめな小豆の蒸し菓子」で「貝浦の村雨にちなんで名づけられた由緒ある和菓子」だそうです。

吉村家から続く通りに戻ります。通りはその先で細い路地のような道になります。さらに南に進み、四つ辻の右前の向こうに黄色い壁のお宅がありました。そこで右折しました。南町になりました。

菊の花がきれいな名加(なか)家の邸宅です。江戸時代から大正年間(1912年~1925年)まで、貝塚の名産である黄楊(つげ)櫛の卸問屋を営んでいました。「ぴたっと貝塚」には「黄楊櫛(和泉櫛)は静電気を抑え髪や地肌にやさしく、素朴な手触りと使い込むほどになじむ質感が最高の伝統工芸品です。11世紀の発祥とされ、匠の技は代々受け継がれ生産量は日本一を誇っている」と書かれていました。 名加家の主屋は、江戸時代中期から後期にかけて建てられたもので、登録有形文化財に登録されています。

名加家から、黄色い壁のお宅のあるところに戻ります。さらに南に進みます。四つ辻の角に吉原地蔵堂があります。さらに進むと、鍋谷工務店のビルがあります。その前を右斜め前に進んで行きます。

その先に、小さい橋がありました。下を流れるのは清水川。ここが寺内町の南の境になります。この先は海塚(うみづか)三丁目です。

こちらは右(下流)側です。寺内町の防御のためにつくられた壕にあたる清水川と土塁があったところです。

その先にあった浄土宗寺院の龍雲寺です。貝塚市内で唯一の尼寺だそうです。

龍雲寺の前は「海塚(うみづか)町墓地」になっています。貝塚寺内の墓地にあった説明板には「慶安元(1648)年の『貝塚寺内絵図』の中にも記載されている。江戸中期につくられた墓石も多い」と書かれていました。

墓地内の六観音には、安永6(1756)年の銘があるそうです。

岩橋善兵衛の墓です。「案内板」には「岩崎善兵衛は、宝暦6(1756)年生まれで、レンズ磨きを営む傍ら蘭学を学ぶ。寛政5(1793)年『窺天鏡(きてんきょう)』と呼ばれる望遠鏡を制作した。伊能忠敬の日本沿海測量の時にも用いられた」と書かれていました。善兵衛の法名は「釈義天」でした。

墓地から出て、清水川の手前を右折して東に向かって歩きます。10分ぐらいで南北の通り、紀州街道にぶつかります。

紀州街道を左折して大阪方面に向かって歩きます。すぐ先のポストのそばに清水橋がありました。下には海塚町墓地の手前にあった清水川が流れていました。紀州街道が清水川にぶつかる辺りは「紀州口」と呼ばれていました。また、その周辺の現在、南町や海塚三丁目の地域は「旅籠町」と呼ばれ、旅籠が軒を並べていました。紀州和歌山藩の本陣も、このあたりに置かれていたそうです。

清水橋から見た清水川です。小さな流れになっています。

清水地蔵です。ご近所の方々が管理しておられるそうです。

今回は、寺内町の町政を担っていた卜半役所から、寺内町の北の境から南の境まで、寺内町で栄えた商工業者の邸宅の跡をたどりながら歩いてきました。前回訪ねた邸宅を含め、寺内町にあった登録有形文化財の11家をすべて訪ねることができました。
次回は、残る寺内町の面影をたどって、紀州口から歩くことにしています。






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