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Jリーグ、J-1の”ジュビロ磐田”で知られる静岡県磐田市。
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駅前の通りには、マスコットの”ジュビロくん”の像が立っています。彼は静岡県鳥のサンコウチョウで、”ジュビィちゃん”という恋人がいます。
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国道1号線の近くにあったお店、”ジュビロ”にあやかったのでしょうか?市民のチームに寄せる気持ちを感じました。ちなみに”ジュビロ”とはポルトガル語やイタリア語の「歓喜」を表す言葉らしいですね。
磐田市は、見附宿があった見附村とJR磐田駅南付近の中泉村が昭和15(1940)年に合併してできた磐田町が、昭和23(1948)年市政を敷いたことで生まれました。
暑さの厳しい夏の一日、見附宿の入り口から旧東海道に沿って、JR磐田駅まで歩きました。
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江戸時代、ここは旧東海道53次の28番目の宿場、見附宿でした。
京から江戸に上る旅人が、ここで初めて富士山を見ることができたことから名づけられました。
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「遠州鈴ヶ森」で国道1号線と別れて旧街道に入ります。ここは、遠江金谷生まれの大盗賊、日本左衛門の首が晒されたところです。彼は美濃から相模にかけて60人ともいわれる盗賊団を率いて荒らし回った末、江戸で火付盗賊改に捕らえられたそうです。
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ここにもあった秋葉灯籠の常夜灯。火を絶やさず燃やし続けました。遠江から三河にかけての地域の秋葉信仰を今に伝えています。大正4(1515)年につくられたものです。
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この先の坂を下ると、見附宿に入ります。
その手前に、「阿多古一里塚」があります。江戸から62里。両側の塚が現存していると聞いて捜してみました。しかし、右(西)側の塚(と思われる盛り上がり)が民家の間に見えたのですが、個人の住宅の中を通らなければならないため確認できませんでした。また、「左(東)側の塚は坂の下から登る愛宕神社の中だ」と近所の方からお聞きして、行ってみたのですが、草が生い茂っていて神社の裏まで行けず確認できませんでした。写真の左上の樹木の中だと思いますが・・。時間をかけて捜したのですが、残念でした。
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坂を下ると、東の木戸のモニュメントが建てられています。この辺りが宿の入り口です。
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民家の前に置かれた案内標識です。
見附宿は、東西11町40間。
天保14(1843)年には、2つの本陣と1つの脇本陣、旅籠が56あり、3935人(男1898人、女2037人)が居住していました。
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旧街道を、のんびり10分ほど歩くと、宿場の中央部に入ります。
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平成19年(2007)年に移築復元された、脇本陣大三河屋の門。重厚で落ち着きがある脇本陣らしい風格を備えています。脇本陣の門として使われた後、中泉村の中津川家に移されていました。大三河屋はふつうの旅籠から、文化2(1805)年に脇本陣になったそうです。
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静岡銀行の一角にある問屋場跡の碑。伝馬の継ぎ立ての事務を行っていた役所です。
案内板を見ると、脇本陣大三河屋は問屋場の向かいにあったようですね。
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旧街道沿いでしたが、うっかりすると見逃しそうなところに、私たち岡山県人にはなじみの深い名前を見つけました。「鳥人浮田幸吉住居跡」です。
岡山城下町の入り口にあった京橋で、日本で初めて空中を飛んだ人です。
岡山では、表具師幸吉の名で知られています。かれは、宝暦7(1857)年、備前国八浜村(現玉野市)の生まれ。父の死後、岡山城下町の紙屋に奉公に出て表具を学びます。天明5(1785)年、竹を骨組みにし紙と布でつくった翼で、岡山城下町の入り口にある京橋から飛び降りました。世間を騒がせたということで、岡山藩から「所払い」の処分を受けます。
その後、駿河国駿府で「備前屋幸吉」の名で、ふるさとの児島木綿を扱う店を開きます。商いが軌道に乗ったところで兄の子に店を譲ります。こちらでは、技術力の高い義歯をつくることで名前を知られていたそうです。
その先で、南北に交差する秋葉道を渡ります。
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渡ってすぐ、川根茶を扱うお店があります。
そこに、「本陣跡」の標識があります。二つあった本陣の一つ、北本陣の跡。もう一つの南本陣は、その向かいにあったようですが、案内は見つかりませんでした。
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北本陣の脇の道を北に入ると、現存している木造洋風校舎の見付学校に着きます。磐田市が誇る文化財の一つです。
見附宿は「附」の字で表記されるケースが多い印象ですが、ここには「付」の字が使われていました。
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明治8(1875)年に完成しました。設計は「堂宮棟梁」伊藤平右衛門でした。
明治5(1872)年の学制発布の後、各地に学校がつくられるようになりました。
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私が訪ねたところでは、松本市の開智学校が明治8(1875)年に、宇和島市卯之町の開明小学校が明治15年(1882)年に完成しています。写真は松本市に残る開智学校です。
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岡山県真庭市久世の遷喬小学校です。この学校は、明治40(1907)年に完成しました。見付学校は、全国的に見てもかなり早い時期に設立された学校でした。
明治14(1881)年には、男300人、女182人(482)人が在籍していました。当時の就学率は66%だったそうです。
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机の上には教科書が、1冊ずつ置かれていました。
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当時の卒業証書が掲示されていました。中に書かれている「中泉学校」は、隣村にあった学校なのでしょうか?
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5階建ての見付学校の最上階部分です。太鼓楼で、明治8(1875)年から大正末期まで使われたそうです。登校の合図や正午の時報として、最初は「小使いさん」が、後には太鼓当番の上級生が毎日たたいていたそうです。
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「伝酒井の太鼓」。
三方原の戦いのとき、敗れて逃れる徳川家康のために、浜松城で酒井忠次が打ち鳴らしたと伝えられています。
旧東海道をさらに西に向かって歩きます。
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15分ぐらいで、旧東海道は左折します。まっすぐにやや狭い道を進むと「姫街道」です。ここは姫街道との分岐点でした。
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入り口に「姫街道」の標識が立っていました。
姫街道は旧東海道の脇往還。海路を嫌う女性が好んだため名付けられた街道で、35番目の御油宿の東で、旧東海道に合流していました。
左折して、JR磐田駅方面に向かって歩きます。
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右側の西光寺の表門は、中泉村にあった中泉御殿(徳川家康や将軍の宿泊所で、後に代官所として使われました)の門を移築したものです。
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西光寺のそばに、西木戸跡のモニュメントがつくられています。
この辺りで、見附宿を出ることになります。
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旧東海道は、さらに、遠江国分寺跡や府八幡宮を経てJR磐田駅に向かって進みます。
暑い中、汗をだらだらかきながら、30分以上歩きました。
途中の案内板で確認すると、旧東海道はJR磐田駅の手前で右(西)に進むようです。
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どの通りかわからなかったので、観光案内所で確認しました。旧東海道は駅前通りの一本北の通りだったようです。JTBが入る建物の北側を西に向かっておりました。
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つきあたりがJR磐田駅。やっと着きました。朝から歩いたのですが、もう昼食時を過ぎていました。
色あざやかな駅舎でした。
”ジュビロ磐田”の磐田市は、見付学校や、岡山ゆかりの「表具屋幸吉」の生家跡など、見どころ満載の町でした。