本町、中央大通りに立つ船場センタービル。繊維の卸問屋とファッション・グルメの街です。
船場は、商いの町大阪を代表する商業地域で、河川と堀に囲まれた四角形の地域に広がっています。東は東横堀川、西は西横堀川、北は土佐堀川、南は長堀川(昭和39=1964年に埋め立てられ「長堀通り」になっています)の地域です。船場は、古代の「船着場」、その「着」を省いて「船場」となったというのが妥当な説のようです。船場センタービルに沿って東に向かいます。
ここから、南に延びる「せんば心斎橋商店街」。アーケード街になっています。その入口には「せんば、心斎橋」と書かれていました。ちなみに、船場は本町通りから北を北船場、ここから南を南船場と呼ぶようです。
心斎橋筋のアーケード内の商店街です。 御堂筋に戻り、南御堂を見ながら南下します。
すぐ、南久宝寺町に着きます。左(東)に折れて、心斎橋筋商店街のアーケードを見ながら進みます。南久宝寺町は、小間物問屋が集まる問屋街として歴史を重ねてきました。戦後は、衣料品やかばん、袋物、傘などの服飾雑貨を扱う現金問屋街で栄えました。バブルの崩壊後、閉店する店も増え、かつての活気は失われていますが、それでも大阪有数の問屋街です。
その先の南北の通りが、丼池(どぶいけ)ストリート。難読地名の多い大阪ですが、ここもその一つです。繊維問屋街です。大阪で最初にできたアーケード街でしたが、1993年老朽化により撤去されました。
難波神社から5分ぐらいで長堀通りに近づくと、波形の建物が見えます。地下につながる通路がありました。御堂筋の一つ東の通りが心斎橋筋です。ここから南に延びています。
波形だったところは天井でした。その下の地下街(クリスタ長堀)に続く通路です。ここ長堀通には、昭和39(1964)年に埋め立てられる前は長堀川が流れていました。元和元(1615)年大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した後、大阪城主となった松平忠明が、京の伏見から岡田新三、伊丹屋平右衛門らの有力町人を移住させ、焼け野原になった大坂の復興を進めました。その時、西横堀川などと共に開削させたのが、長堀川でした。美濃屋心斎と号した岡田新三は、その南岸に住み屋敷の前に土の橋を架け、心斎橋と名づけたといいます。心斎橋のあったところは、現在では横断歩道になっています。
さらに御堂筋を南に進みます。大丸百貨店が見えてきました。かつての”心斎橋そごう”の建物が大丸と名を変えて残っています。この裏側の心斎橋筋は、南の道頓堀に架かる戎橋までの700mが大阪を代表する商店街です。ちなみに、戎橋から南は”戎橋筋”と名前が変わります。
”大丸 創業 1717年”と正面にかかれているデパートの大丸です。
明治6(1873)年、心斎橋は、橋脚が一本もないドイツ製の鉄橋が架け替えられます。当時としては珍しい構造だったため見物の人々でにぎわいました。それとともに、多くの呉服商や古道具屋、小間物屋、書籍商、昆布屋などが軒を連ね、大坂を代表する商店街に発展しました。大丸やそごうは、大店の呉服商としてたくさんの客が押しかけていました。昭和の時代には、女性客や若者の町になり、呉服店は百貨店に変わり、また洋風の店舗も多くなり、東京の”銀ブラ”に対し”心ブラ”という言葉も生まれました。
大丸から南に進むとすぐ城壁のような建物が見えてきました。三津寺(みつでら)です。真っ白なコンクリート造りでした。
江戸時代の寛文(1661~73)年間に創建された真言宗御室派の寺院で、本尊十一面観音は平安時代のものだそうです。
昭和8(1933)年の御堂筋の拡張の時に、大阪で最初のコンクリート寺院になりました。
三津寺から南に進み、道頓堀橋を渡ります。橋の下を流れる道頓堀川の両側にあざやかな世界が広がっています。道頓堀川は、豊臣秀吉の時代につくられた東横堀と西横堀をつなぐために開かれた運河です。慶長17(1612)年、平野の七名家(しちみょうけ)の一つ成安家の道頓が、同郷の平野藤次郎や久宝寺村(八尾市)の安井治兵衛の協力で運河の開削と町屋の造成を開始しました。しかし、翌慶長18(1613)年、安井治兵衛が病死し、また、大坂冬の陣で豊臣方に属していた道頓と弟の長左衛門も戦死してしまいます。
道頓堀のシンボル、グリコの大看板です。 道頓堀の開削工事は、道頓の遺志を継いだ安井道卜(どうぼく)と平野藤次郎・次郎兵衛兄弟が工事を進め、元和元(1615)年に完成させました。大坂城主となった松平忠明が、私費もつぎ込んで開削を進めた道頓の功績を讃え、「道頓堀川」と名づけたといわれています。
道頓堀川です。正面の橋は”戎橋”(えびすばし)。平成19年にリニューアルされました。ここは、今宮戎神社の参道にあたるのでこの名がつけられたといわれています。昭和60(1985)年、阪神タイガースが優勝したときにファンが飛び込んだ戎橋は、大正14(1925)年に架けられた鉄筋コンリート製で御影石で飾られていました。
道頓堀川の南岸は、芝居町や色街として栄えます。芝居町は、寛永3(1626)年に、道卜が南船場にあった芝居小屋をこの南岸に移したのに始まります。その後、慶安5(1652)年には、中の芝居(後の中座)、角の芝居(後の角座)、大西の芝居(後の浪花座)等の歌舞伎の劇場が開かれ、貞享元(1684)年には、人形浄瑠璃の竹本座、元禄16(1703)年には豊竹座が開かれ、芝居町としてにぎわいました。特に、竹本座は竹本義太夫と近松門左衛門が組んで心中もので大ヒットを続け、歌舞伎をしのぐ人気を博したといわれています。
承応2(1653)年、芝居小屋5座が公認され、櫓(興行権免許の印)を正面に掲げた五座、弁天座、朝日座、角座、中座、浪花座が、戎橋から東にかけての地域に並んで、芝居町といえば道頓堀という歓楽街になりました。平成16年、道頓堀川の両側には”とんぼりリバーウオーク”が整備され、多くの人々が行きかっています。芝居小屋は姿を消しましたが、賑わいは健在です。
戎橋の東に架かる太左衛門橋です。橋の上に近くのたこ焼き店のたこ焼きを求めて、多くの人が並んでいました。道頓堀川に架かる橋は、南岸にあった芝居町と北の盛り場を結ぶ道でした。
太左衛門橋のたもとに、遊覧船の乗り場がつくられていました。
この橋の南詰めに「千日前」と書かれた看板が掲げられています。
くいだおれ太郎や手足が動く巨大なカニ、大きなふぐが泳いでいる千日前は、この日もものすごい数の人々が往来していました。ここは、牛がぶら下がっています。 江戸時代の元和元(1615)年、大坂城の落城後、大坂にあった墓地がこの地に集められ(千日墓地)、後に火葬場や刑場もできました。
法善寺横丁の水掛不動の前です。今の千日前大通りの北にあった法善寺や竹林寺では、千日ごとに念仏供養を行なっていたので、”千日寺”と呼ばれていました。その前ということから「千日前」と呼ばれるようになったそうです。、火葬場や刑場の北側の開発地に、料理屋や見せ物小屋が軒を連ね繁栄していました。さらに安政(1854~
60)年間、刑場の裏通りに遊女街もできました。
千日前の通りです。千日前大通りの向こうにビックカメラが入っているビルが見えています。明治時代になって、刑場が廃止され、墓地は阿倍野に移りました。賑わいは南に広がり、そこに新たに盛り場が生まれました。しかし、明治45(1912)年には、ミナミの多くが焼ける大火があり、遊女街も移転していきました。
ビックカメラの入るビルです。ミナミの大火で盛り場が消滅しようとしたとき、このビルがあるところに、”楽天地”ができました。明治17(1885)年に開業していた阪堺鉄道(南海鉄道の前身)の社長が、大阪興行界の重鎮の山川吉太郎の協力を得て設立しました。”楽天地は”地上3階、尖塔をつけ中央に円形のドームがある建物で、芝居や映画、ローラースケートやメリーゴーランド、水族館もあるレジャーセンターでした。”楽天地”は、昭和5(1930)年に廃業するまで多くの人々を集めていました。
ここで、再度、御堂筋に戻り1ブロック南に進みます。左折(東行)して入ると正面のアーチが印象的な建物があります。ネオ・ルネサンス様式の松竹座です。大正12(1923)年、日本初の様式劇場として建てらえました。松竹楽劇部(後のOSK)の本拠地となり、海外の舞踊団などの公演も行われました。その後、平成6(1995)年まで映画館として使われましたが、平成9(1999)年からはリニューアルして、松竹歌舞伎の拠点となっています。
再度、御堂筋に戻ります。前方右側に新歌舞伎座が見えます。 ”楽天地”が廃業した後、松竹の創業者の一人、白井松次郎がそれを購入し、昭和7(1932)年大阪歌舞伎座を建設しました。7階建て、南欧風の建物で、関西歌舞伎が定期的に上演されていました。
太平洋戦争で、大阪は焼け野原になり、歌舞伎座は接収され占領軍専用のキャバレーとして使われます。そして、昭和33(1958)年に新歌舞伎座として御堂筋のこの地に移って来ました。唐破風の桃山様式でつくられている華麗な建物です。一方、歌舞伎座の跡地は千日デパートとなりますが、昭和47(1972)年火災で大惨事を起こしてしまいます。御堂筋の新歌舞伎座も、今は、白い板で囲われたさみしい姿になっています。
その先に南海電鉄なんば駅が見えます。デパートの高島屋も入っています。ついに着きました。ここが御堂筋の終点です。
梅田から難波までの4.7km、普通に歩けば1時間程度で歩ける距離を、3回に分けて、少しづつ歩きました。大阪のメインルート、御堂筋の歴史を訪ねて歩く旅でした。歩きながら、御堂筋の歴史をたどる旅は、そのまま大阪の歴史そのものを学ぶ旅だったと気がつきました。たくさんの歴史をできるだけまとめたいと思っていましたが、たくさんの歴史のほんの一部しかとりあげられませんでした。しかし、銀杏並木の緑の中をゆっくりと歩くのはほんとうに心地よいことでした。満足感と充実感を得た旅になりました。