トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

兵庫運河を歩く

2013年03月05日 | 日記

清盛塚です。これまで、築島水門から西南へ、新川運河に沿って、清盛塚まで歩いてきました(平成25年2月22日の日記)。この日は、清盛塚の南にかかる清盛橋を渡って、兵庫運河沿いに高松橋まで歩きました。

清盛橋からの新川運河です。写真の左から、正面のマンションの脇を向こうに向かっています。手前に来る水路が兵庫運河です。

昭和62(1987)年に橋の拡幅工事を実施したとき、市民の要望により清盛橋と名づけられました。清盛橋には、源平の戦いのレリーフがはめ込まれていました。渡ってそのまま進んで行くと、JR和田岬駅方面に向かっていきます。

この案内図は、運河沿いのプロムナードに展示されていたものですが、図の中央が清盛塚で、運河を下に渡っているのが清盛橋。渡ってから、運河沿いに図の左の方に向かって進みました。

兵庫運河です。和田岬の西の東尻池(ひがししりいけ)と新川運河を結ぶ掘削工事を進めるために、明治26(1893)年に兵庫運河株式会社が設立されました。そして、工事が始まって3年後の明治32(1899)年に完成しました。船の通行がないせいか、兵庫運河はやたら広く感じました。中央の橋は住吉橋です。

さらに西に進みます。JR和田岬線にかかる和田旋回橋です。兵庫運河には、清盛橋を含めて6つの橋が架かっています。この西に、さらに材木橋、御崎橋と高松橋が架かっていました。これは、JR和田岬線の和田回旋橋です。船がここを通るときには、橋が水平に回転していました。今は、固定されていて動きません。一時、JR和田岬線の廃止の要望書がJRに出されたこともあったそうです(平成25年2月28日の日記)。

材木橋です。 兵庫運河が完成してから、利用する船が増え、両岸にはやがて工場や倉庫が建てられるようになりました。また、食品や木材などの運搬も活発になりました。後になって船の通行が少なくなってからは、貯木場としても使われました。 南側の兵庫運河に面したところには材木問屋が多く材木町と呼ばれ、橋名にもなったようです。

これは、西側のプロムナードから見た材木橋です。原木ではなく加工木材が輸入されるようになってからは、貯木場としての機能はなくなっていきます。

材木橋から見た兵庫運河の西の風景です。写真の左側には学校や集合住宅が並んでおり、河岸はプロムナードになっていました。西側には船溜まりもありました。

プロムナードにあった案内板です。兵庫運河の歴史が説明されていました。

プロムナードにあったミニ花壇です。兵庫運河を移動する船が少なくなり、現在では水上スポーツや地域イベントに利用されています。市民による町づくりが進んでおり、この花壇も「市民花壇」の名がついています。

西側にあった船溜まりです。レジャー用の船が舫っていました。

西側から見た御崎橋(みさきばし)です。橋の北側に川崎重工の車両工場がありました。

車両も見えました。御崎橋から西は運河沿いには歩けないので、迂回して高松町に出ました。

不二製油の工場の脇から、高松橋で兵庫運河を渡ります。高松橋を渡った北側は神戸市長田区になります。イオンショッピングセンターがありました。

ショッピングセンターの手前の橋の上に、八尾善四郎の銅像が立っています。兵庫運河建設の功労者です。兵庫運河株式会社は、和田岬を迂回しないで兵庫港に入るための運河の建設を計画していましたが、「運河をつくると作物がつくれなくなる」とか「井戸水が枯れてしまう」という反対の声も出ていました。

仲間が離れていくなか、八尾善四郎は私財を投げ打って、兵庫運河を完成させたといわれています。

銅像の八尾善四郎の目の先にあるにある風景です。船の先の方に建物が見えますが、そこは、人工島の苅藻島(かるもじま)です。運河を掘削した土砂で浅瀬を埋め立ててつくったところです。

昭和3(1928)年に架橋された高松橋は可動橋でした。水平に回転したJR和田岬線の和田旋回橋に対して、高松橋は上下に移動する可動橋でした。ちょっと見づらいのですが、写真は高松橋にあった説明です。高松橋は、オランダで17世紀に生まれ19世紀後半から20世紀前半に欧米で流行した「一葉式跳開橋」でした。不二製油のある橋の東側の27.889mが跳ね上がり、下を進む船を通していたようです。同じような橋に、東京の隅田川にかかる勝鬨橋(かちどきばし)があります。現在の橋は、平成6(1994)年に完成した橋ですが、以前の「はね橋」に似せた形であり、親柱も以前のものを修復復元しています。しかし固定されており、可動橋ではありません。

高松橋を越えてさらに進み、「苅藻島入口」の標識で左折します。その先にある苅藻橋を渡ると苅藻島に入っていきます。

苅藻橋から見た苅藻島です。

新川運河から高松橋まで、兵庫運河に沿って歩いてきました。和田岬の沖合の海の難所を通ることなく、兵庫の港に入るためにつくられた兵庫運河は、歩いてみるとその規模の大きさに驚いてしまいます。現代とは比較にならないぐらいの格差社会だったのかもしれませんが、難工事のなか、私財を投げ打って完成させた八尾善四郎の行動には頭が下がります。橋をたどって歩く旅でしたが、八尾善四郎の使命感と熱意に触れた旅でした。  太平洋戦争中、私財が不足して銅像が接収されそうになったとき、地元住民がそれを阻止して銅像を守ったというお話に救われたような気持ちになりました。









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1 コメント

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見ました (山田)
2013-03-16 17:06:23
 時代の流れを感じる所ですね。物流が舟から列車へ、トラックへと動きました。それにつれて、必要なくなった物も多いのでしょうね!
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