トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

重要文化財の蒸気機関車がある加悦SL広場

2015年09月11日 | 日記

この蒸気機関車は、加悦鉄道2号(鉄道院123号)機関車です。加悦鉄道の大江山鉱山駅跡に整備された「加悦SL広場」に展示されています。平成17(2005)年、国の重要文化財に指定された蒸気機関車です。国指定重要文化財の蒸気機関車は、私の知る限りでは、平成8(1996)年に指定され、鉄道博物館に保存展示されている1号機関車(国鉄150形機関車)とこの2号機関車の二機しかありません。この日、私はこの2号機関車を会うため、「加悦SL広場」にやって来ました。

加悦鉄道2号機関車を斜め前から撮影しました。さて、丹後ちりめんを京都へ運搬することを大きな目的として、地域住民823名が出資した30万円をもとに、大正15(1926)年、丹後山田駅(現・与謝野駅)と加悦駅間、5.7kmが開通しました。その後、昭和14(1939)年に大江山で発見されたニッケル鉱の輸送を担うため、大江山鉱山駅・加悦駅間と、ニッケル鉱の精錬を行う岩滝工場(日本冶金工業大江山製造所)・丹後山田駅間の、専用鉄道を延伸させました。しかし、昭和60(1985)年、国鉄宮津線が貨物輸送を廃止したことにより経営が成り立たなくなり、廃止を余儀なくされました。

しかし、一方で、与謝野町の人々は加悦鉄道に対する愛着を持ち続けています。加悦鉄道はその思いに応えるように、昭和52(1977)年に加悦駅構内に「加悦SL広場」を開設し、加悦鉄道で活躍した蒸気機関車や木造客車などの車両の展示を始めました。そして、平成8(1996)年には、旧大江山鉱山駅の跡地に移設させます。さらに、平成15(2003)年には、与謝野町が加悦鉄道で使用された機関車やデーゼルカー、貨車など11種の車両を与謝野町指定文化財に認定しました。この写真は、その「加悦SL広場」の入口を撮影したものですが、ここから入場しました。

加悦SL広場の広い駐車場です。敷地の半分ぐらいを占めています。周囲には車両が展示されていました。正面は休憩所として使用されている南海電鉄のモハ1202号車。昭和(1933)年に製造され、平成7(1995)年まで南海電鉄貴志川線で使用されていました。南海電鉄貴志川線は、現在の和歌山電鐵貴志川線。”タマ駅長”で全国に知られるようになりました。モハ1202号車は、展示用としてここに移ってきました。

モハ1202号車の隣、”カフェトレイン蒸気屋”になっているサハ3104号車。大正14(1925)年、東急電鉄が藤永田造船所で製造した電動客車でした。付随客車に改造した後、加悦鉄道に移り、昭和47(1972)年まで使用されました。

日本最古の市電、京都市電N0.5(狭軌1形23号車)です。明治28(1895)年に、京都七条と伏見の間で、日本最初の路面電車として開通しました。

明治43(1910)年に大阪の梅鉢鉄工所で製造されました。明治・大正・昭和の66年間、ちんちん電車として京都市民に親しまれた後、昭和36(1961)年、京都市電の京都駅~北野神社間が廃止されたときに廃車となりました。ここには、展示のために移ってきました。

加悦SL広場の事務所です。旧加悦駅を再現した建物です。左に見えるディーセルカーは、与謝野町指定文化財に認定されているキハ1018号車です。

事務所内部です。出札口です。ここで、私もSL広場の入場券を、400円で購入しました。

購入した入場券です。かつての乗車券を思わせる硬券でした。加悦鉄道で働き、与謝野町の文化財に指定された、キハ1018号車など11種の車両を確認するつもりでした。

改札口から入場します。平成8(1996)年に、与謝野町指定文化財に認定された車両とは・・? 機関車は、加悦鉄道2号(鉄道院123号)など3両の蒸気機関車。ディーゼルカー(DC)は、キハユニ51号内燃動車など2両。客車は、ハブ3号など6両の木造客車です。いずれも、他所ではなかなか見ることができない、希少価値のある珍しい車両ばかりです。その中で、気になる車両は、やはり加悦鉄道2号蒸気機関車でした。先に書いたように、平成17(2005)年に、国の重要文化財に指定されている車両です。

改札口を越えて展示場に入り、振り返って事務所の方向を撮影しました。向かって右側に加悦鉄道2号蒸気機関車、左側には1261号蒸気機関車が展示されていました。

平成17(2005)年に国の重要文化財に指定された、加悦鉄道2号(鉄道院123号)蒸気機関車です。全長8.225m。明治6(1873)年6月、イギリスのロバート・スティーブンソン社で製造された蒸気機関車で、大阪ー神戸間の鉄道建設に使われました。翌、明治7(1874)年の鉄道開通後には、大阪ー神戸間の旅客列車を牽引し「陸(おか)蒸気」として人気を博しました。内閣鉄道院が鉄道を所管していた時代(明治4年~大正9年、初代総裁は後藤新平でした)に「123号」に変更されたので、「鉄道院123号」と呼ばれていました。

その後、大正4(1915)年に、鉄道院から簸上(ひのかみ)鉄道(JR木次線の前身)に払い下げられて旅客輸送に活躍した後、創業した加悦鉄道に移ってきました。加悦鉄道では2号蒸気機関車として、昭和31(1956)年まで運用され、297,800kmを走行したといわれています。

左側の蒸気機関車は、1261号(旧鉄道省形式1260形)蒸気機関車です。大正12(1923)年、簸上鉄道が日本車輌製造で新造した国産の機関車で、全長8.307mでした。昭和18(1943)年、ニッケル鉱石の輸送のため、旧鉄道省から同形の1260号機関車(昭和22=1947年、昭和電工富山工場に売却された)とともに移ってきました。

1261号蒸気機関車は、昭和20(1945)年までニッケル鉱石の輸送にあたり、その後、旅客輸送と岩滝線の貨物輸送に活躍した機関車です。昭和42(1967)年の休業までの走行距離は、565,210kmになりました。平成17(2005)年、旧加悦鉄道車両群として、与謝野町指定文化財になりました。

1261号蒸気機関車に牽引される形で展示されていた、ハブ3号形付随荷物緩急車(木造客車)です。三等客車と手荷物車が一体となった車両でした。定員24人、全長8.225mと書かれていました。明治22(1889)年、讃岐鉄道(現、高松琴平電鉄の前身)がドイツのファンデル・チーペン社から購入しました。大正11(1992)年、伊賀鉄道に払い下げられた後、昭和2(1927)年、加悦鉄道に移って来ました。そして、昭和44(1964)年に廃車となりました。

ハブ3号付随荷物緩急車の内部です。横シートの客室は三等車で定員24名でした。昭和45(1970)年の大阪万国博覧会では、クラップ17号機関車(ドイツ)に牽引される形で展示されたそうです。

この客車は、ハ4975形・ハ4995号付随客車(木造客車)です。赤いラインの入った客車で三等車として使用されました。明治26(1893)年、旧逓信省鉄道庁の新橋工場で製造された国産の車両です。昭和3(1928)年鉄道省から払い下げられ、加悦鉄道に移ってきました。昭和10(1935)年に廃車されてからは、加悦駅構内で倉庫として使用されました。

その後、ハ4995号客車の台車を使って、ハ21号客車を製造しました。ハ21号客車は、同じ形のハ20号客車(もとハ4999号車)の台車を使って復元され、加悦SL広場に展示されていました。木造で、二重屋根をもつ明治中期頃までの典型的な車両で「マッチ箱」と呼ばれ、親しまれました。

これは、ハ4995号客車の内部です。機関車の方向に向かって撮影しました。ヨーロッパのコンパートメント車両のように、座席のそばのドアを開けて乗車する客車で、非貫通車両でした。写真からは見えませんが、製造当初は、照明は天井からのつり下げランプだったそうです。この木造客車も与謝野町指定の文化財です。

これも、与謝野町指定文化財の加悦鉄道4号蒸気機関車です。全長7.798m。大正10(1921)年、河東鉄道(大正15年長野電鉄と合併)が川崎造船所兵庫工場で製造した国産蒸気機関車です。昭和9(1934)年、長野電鉄から加悦鉄道に移ってきて、昭和27(1952)年まで運用されました。昭和44(1969)年に廃車。説明には「加悦鉄道の60年の歴史で、旅客・貨物輸送に最も活躍した蒸気機関車だ」書かれていました。

整備中で車庫に入っていたハ10号付随客車です。大正15(1926)年、大阪梅鉢鉄工所で製造された木造客車です。伊賀鉄道(現、近鉄伊賀線)が発注していた車両でしたが、加悦鉄道の開業に合わせて譲渡してもらったそうです。「二重屋根(後ろから一部が見えています)をもち、客室は二等車と三等車に分かれていた」と、「説明」に書かれていましたが、実際の運用は仕切りを外して、三等車(定員73名)として使用していたそうです。全長8.225m。加悦鉄道の開業時から昭和43(1968)年まで、旅客輸送に使用され、走行距離は619.360kmに達っしたといわれています。平成6(2014)年、新造された当時の姿に復元されました。整備を終えて展示場所の早く戻ってきてほしいものです。

ワブ3号(ワブ形有蓋荷物緩急車)です。大正5(1916)年、ト2号(ト1形無蓋貨車)として、大阪梅鉢鉄工所で製造されました。昭和18(1943)年加悦機関区で、ト2号を有蓋貨車に改造してワブ3に形式変更をしました。平成9(1997)年に大修理を行っているそうです。もとは屋根のない貨車を、現在の形に改造したもののようです。

ハ21号(ハ20形付随客車)。先にまとめたハ4995号付随客車(2号蒸気機関車に牽引されて展示されていた)の台車を使って、昭和10(1935)年福知山にあった北丹鉄道機関区で製造されました。三等車、定員32人、全長7.977mの客車です。

フハ2号客車です。木造欅(けやき)張り、加悦SL広場で最も軽量の木造客車。大正5(1916)年、名古屋電車製造所で製造されました。表面の塗装がはげていて木造の地肌が見えています。

加悦SL広場の中央に展示されていた手動の転車台です。与謝野町加悦庁舎(かつての加悦駅構内)の転車台があったところに円形広場(2015年8月21日の日記)が残されていることを思い出しました。

「昭和17(1942)年、大江山鉱山から精錬を行う岩滝工場まで、鉄道によるニッケル鉱の一貫輸送体制ができあがったことに呼応して、加悦駅構内に設置された」と、与謝野町加悦庁舎にあった説明に書かれていました。「宮地鉄工所製 20米下地路式」だそうです。

キハユニ51号ディーゼルカー(DC)です。昭和11(1936)年、芸備鉄道が日本車輌株式会社で製造しました。昭和12(1937)年、芸備鉄道が国有化され、キハニ40921となり、国鉄で使用されましたが、昭和27(1952)年、山口県の舟木鉄道に移りました。昭和36(1961)年舟木鉄道が廃線となるに伴い、昭和37(1962)年、加悦鉄道に移ってきました。加悦機関区で全面改修(キハ51となる)を行い、営業運転に入り、昭和60(1985)年の廃線まで活躍しました。その後、平成5(1993)年の大修理で、荷物室、郵便室を復元し、キハユニ51となりました。

これは、事務所の一角に設置されていた「鉱山駅」です。復元されたのかどうかはっきりしませんが、駅のホームらしい雰囲気が漂っています。

鉱山駅の脇に展示されていたキハ1018号(キハ10形内燃動車)ディーゼルカーです。昭和31(1956)年、国鉄が帝国車両で製造しました。全長20.000mの大型DCで、定員は92人だそうです。加悦鉄道には、昭和55(1980年)に移ってきて、昭和60(1985)年の廃線まで活躍しました。なお、キハ10形DCは、キハ17形DCの両運転台でトイレのついていないものの型式番号になっています。駐車場から事務所を見たとき、左側に見えていたDCです。

加悦鉄道で活躍した車両が指定されている11種の与謝野町文化財の車両を見て回りました。
60年に渡って営業してきた加悦鉄道だけに、蒸気機関車の牽引による客車や貨物、DCなど珍しい車両の宝庫という印象でした。特に、国指定重要文化財の加悦鉄道2号蒸気機関車は魅力いっぱいでした。
地元の人が資金を出して開業させた加悦鉄道は、そこで活躍していた車両群の活躍の場をこれからも守っていってくれることでしょう。

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