トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

帝国製鉄所へのトロッコ線があった駅、JR備後八幡駅

2017年05月13日 | 日記
私には、ときどき乗ってみたくなる鉄道があります。JR芸備線です。岡山県側のJR備中神代(びっちゅうこうじろ)駅からJR三次駅を経て、JR広島駅にいたる全長159.1kmの鉄道です。実際の運用は、JR新見駅・備後落合駅間、備後落合駅・三次駅間、三次駅・広島駅間で、区間運転が行われています。前回、芸備線の小奴可駅を訪ねたとき(「1日平均の乗車人員1名!JR小奴可駅」2017年2月24日の日記)、次はJR備後八幡(びんごやわた)駅を訪ねてみようと思っていました。この日は、久しぶりに芸備線に乗ってみることにしました。

JR西日本岡山支社管内の鉄道の1日乗り放題キップである「吉備之国 くまなく おでかけパス」をもって、JR新見駅で芸備線の列車に乗り継ぎ、備後八幡駅に向かいました。

芸備線で備後八幡駅に行く列車は1日3本しかありません。新見駅を13時01分に出発するワンマン運転の単行ディーゼルカーのキハ120336号車で、45分余。備後落合駅に着きました。”乗り鉄”と呼ばれている人たちで混み合っていましたが、下車したのは私一人。乗車した人はおられませんでした。ちなみに、備後八幡駅の1日平均乗車人員は、なんと0人(2014年)でした! 正確には1人未満ということになるのでしょう。

備後八幡駅は、広島県庄原市東城町菅(すげ)にあります。一つ前の東城駅から6.5km、次の内名駅まで3.7kmのところです。次のJR内名駅は、牛山隆信氏が主宰する「秘境駅ランキング」の28位にランクしている「秘境駅」として知られています。内名駅はすでに訪ねています(「1日3往復の秘境駅、JR芸備線内名駅」2014年7月7日の日記)。

これは、備後八幡駅のホームから見た内名駅方面です。2面2線のホームが見えました。しかし、運行される列車が1日3本になった今では、向こう側の線路は分断されており、使用されているのは、手前のホームと線路のみという、1面1線のホームになっています。ホームが途切れるあたりに踏切がありました。また、山の麓にはまとまった集落がありました。

向こう側のホームにあった駅名標の名残です。駅名の部分が剥ぎ取られて本体だけが残っている、痛々しい姿です。

こちらは、東城駅方面。向こう側の線路も途中で途切れています。線路の先に集落が見えています。また、向かいのホームの後方に、工場らしい白い建物が見えました。

東城寄りの線路が途切れているところです。白い工場の建物の中心にブッシュが見えました。この後、この工場を訪ねるつもりでした。

ホームから駅舎に向かいます。駅舎の向こうで、ホームにせり出しているのはトイレ。ホームから駅舎への入口には、改札口の設備の一部が残っていました。

駅舎内に入ります。左側の壁面に掲示されていた時刻表と運賃表です。1日3往復の列車の時刻が記されています。備後落合行きが5時57分発、乗ってきた13時47分発、19時14分。新見行きが7時19分発、15時14分発、20時49分発です。私は15時14分発の列車で新見駅に戻るつもりでした。もし、乗り遅れたら、次は20時49分までありません。芸備線に乗る旅は、いつもひやひやしています。

かつての駅によく見られた、壁に作り付けのベンチが残っていました。改修されているのでしょう、表面はきれいになっています。備後八幡駅は、備中神代駅から西に向かって延伸していった三神線(後、芸備線)が、昭和10(1935)年に東城駅から小奴可駅まで延伸したときに開業しました。木製の柱に開業当時の面影を感じることができます。

駅舎から駅前広場に出ます。駅舎への入口です。ドアの上部の梁の部分に、白い方形をした掲示物が見えます。

掲示されていたのは、「建物財産標」でした。「昭和9年9月」と書かれています。備後八幡駅が開業したのは、昭和10(1935)年6月でした。建設時に貼り付けたのでしょうか? 

駅舎の外観です。備後八幡駅は、かつての駅事務所があった部分を取り壊し、待合いのスペースだけを残したようです。建物の右側にはトイレが設置されています。かつての駅事務所は駅舎の左側、樹木の向こう側にあったようです。

駅舎の左側です。地面にコンクリートが打ってあるところが、かつて駅舎があったところです。

駅舎から左側に上っていくと、民家が並ぶ通りに出ます。

これは振り返って駅方面を撮影した写真です。途中にある白い看板がある赤い屋根の建物は菅簡易郵便局です。現在は、新見駅管理の無人駅になっていますが、備後八幡駅は、平成24(2012)年4月27日まで、200円区間のキップ(東城駅行きと小奴可駅行きのキップ)だけを販売する簡易委託駅になっていました。そのとき、受託していたのがこの郵便局だったそうです。

駅舎の前から、内名駅方面に向かって進みます。ホームから見えた踏切の近くに倉庫がありました。右側に金属の柵が見えています。

壁に書かれていたマークです。おなじみの農協(現JA)のマークです。かつて、貨物輸送が盛んだった頃には、全国の鉄道駅の近くに設置されていた農協の倉庫です。鉄道で輸送する米などの農産物の保管のためにつくられたものでした。かつて、備後八幡駅は貨物の取扱いが多い駅として知られていました。

農協倉庫の右側の柵があるところから下って踏切に向かいます。踏切の中央から見た備後八幡駅です。現在は、使用されていないホームの外側に広いスペースが残っています。

使われていないホームの先に残っていた線路跡です。かつての貨物側線跡です。

現在は、線路もホームも草に覆われてしまっています。左側の道路を進んで行きます。

道路は、備後八幡駅を過ぎたあたりで左に曲がって下っていきます。そして、その先の菅竹(すげたけ)橋で成羽川を渡ります。成羽川の右側に、鉄道の橋梁跡が残っています。ホームから見えた白い工場のところにあった橋梁です。工場の近くで草刈りをしておられた方のお話をお聞きすることができました。

白い工場は、広島和田金属東城工場です。お話では「自動販売機やATMの機器をつくっている会社」だそうで、昭和46、7(1971、2)年頃に操業を始めた」そうです。しかし、ここには、かつて、砂鉄を原料にした製鉄工場がありました。帝国製鉄株式会社の竹森工場でした。

製鉄工場に、備後八幡駅からまっすぐ延びていたナローゲージのトロッコ線がありました。製鉄のために使われた木材や薪、できあがった製品の輸送が行われていたそうです。橋桁の上には枕木が放置されていました。

成羽川を渡る橋梁跡です。お話では、菅竹橋を渡って左に山沿いに進んでいったところに、製鉄工場の従業員の住宅があったそうです。

成羽川を渡った対岸です。トロッコ線の線路跡に上りました。写真の中央から左下に向かう築堤が見えました。角度が悪くて見ることができませんが、中央のブッシュの向こうに備後八幡駅があるはずです。

トロッコ線の延長線上にあったコンクリート製の構造物です。トロッコ線のホームのようにも見えますが・・。

お近くにお住まいの方のお話によると、「大正時代から東京オリンピックの頃まで、砂鉄や木炭を使った製鉄工場があり、この近くの人たちも働いていました」とのこと。「菅竹小学校は、平成15(2003)年に廃校になったけど、子どもたちのために、製鉄工場の資料をつくったこともあった」そうです。自宅に帰って確認したところ、帝国製鉄竹森工場は、昭和37(1962)年に閉鎖されていました。写真は、工場の近くにあったお宅の手前に残っていた水路跡です。「上部も残っているけど上っていくのは難しい」そうです。

お宅の中から許可を得て、水路跡を撮影しました。大きなコンクリート製の水路でした。製鉄所で使用する工業用水が流れていたはずです。

これもお宅の中にあった、「従業員の方が仕事が終わった後、水をかけたり体を拭いたりしていたところだ」そうです。

現在は、1日平均乗車人員は0人(1人未満)といわれるJR備後八幡駅でしたが、かつては製鉄所があり、鉄道輸送も盛んな駅だったようです。お忙しいときにお話をしてくださった地元の方に、心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。

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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
修理固成 (出雲街道ツーリングX)
2020-10-18 16:38:30
やはり古事記神話の謎は天皇礼賛だけではないいびつな構造をしているある種の正直さが心惹かれるのでしょう。
古事記神話の構造をザックリいうと高天原の2度の地上への介入がその構造の中心となっている。1度目はイザナギとイザナミがオノゴロ島を作り、国生み神生みを行い、次にイザナミのあとを継ぎスサノオが
根之堅洲国で帝王となる。第二の高天原の介入はアマテラスによる九州への天皇の始祖の派遣とそれに続く天皇を擁する日本の話でこれは今も続いている。
これらの2度の高天原の介入に挟まれた形で出雲神話がある。天皇の権威を高めるのに出雲があまり役に立たないのに古事記で大きく取り上げられている。その神話の構造の歪さに我々は心を惹かれる。
たとえば天皇も大国主も大刀(レガリア)の出どころはスサノオでありその権威の根源を知りたくなってしまう。そうなると島根県安来市あたりの観光をしてしまいたくなる。
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