トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

もう一つの金比羅街道、宇多津道を歩く

2013年11月18日 | 日記
JRの「駅から歩こう」の案内の中に「宇多津発こんぴら参詣道を歩く」という企画を見つけました。「金毘羅さん」には何回も行きましたが、金毘羅街道を歩いたことは一度もなかったので、一度歩いてみようと思いました。 

江戸時代の中期以降、海上交通の守り神である金毘羅大権現への金毘羅参りが盛んになりました。それに伴い、金毘羅大権現へ向かう街道も高松藩などによって整備されていきました。 特に、「五街道」といわれる、高松街道、丸亀街道、多度津街道、阿波街道、伊予・土佐街道は多くの参詣の人々で賑わいました。

参加者は意外に少なく、スタッフを含めて15名ぐらいでした。「宇多津発」と書かれていましたが、私は宇多津から丸亀に向かい、そこから金毘羅をめざすものと思い込んでいました。なぜなら、丸亀街道を通って金比羅に向かう参詣者が最も多く、メインルートという印象があったからでした。

受付でいただいた地図を見てびっくりしました。宇多津から金比羅に向かう道が書かれていたからです。お恥ずかしい話ですが、私はこんなルートがあったことをまったく知りませんでした。  現在の宇多津の町には、かつて広がっていた塩田跡にできた新しい町も加わっています。JRの路線も海寄りに変わり、宇多津駅も西の丸亀駅に比較的近いところに移っています。この日は、琴平までの16kmを歩くことになっていました。

9時10分、宇多津駅前にあるホテルサンルートの前を通って、駅前通りを南に進み、県道33号に出て、次は東に向かいました。 先ほど宇多津駅は西に移ったと書きましたが、県道33号とぶつかるすぐ右(西)はもう丸亀市です。県道33号に沿って東に進みます。

15分ぐらい進むと、道路の左側に道標がありました。「右 へんろ道 西 丸亀道」と刻まれた、文久3(1863)年の銘がありました。その脇を海側に入ります。

言い伝えでは、金刀比羅の大神が海上から大亀に乗ってやってきてこの地に上陸し、さらに内陸に向かい象頭山に鎮座しました。このとき、乗ってきた大亀は石になったそうです。それがこの神社にある石なのだそうです。この亀石から神石神社になったそうです。

さらに東に向かって進みます。県道33号に出る手前に蛭子(えべす)神社があります。境内に金毘羅常夜灯がありました。享和3(1803)年の銘が刻まれていました。

もとは、県道33号沿いのたばこ店付近にあったそうです。このあたりも、参詣の人々の上陸点だったそうです。

県道33号に戻り、さらに東に進みます。右側に宇多津町役場が見えてきました。宇多津は、江戸時代、高松藩の藩領でした。町役場があったところには、高松藩の米蔵が設けられていました。高松藩の3分の1の米が蓄えられていたそうです。当時は周囲に壕もつくられていたそうで、米以外にも、砂糖や綿、塩(「讃岐三白」といわれる)なども保管されていました。これらは、ここから直接大坂に送られていたそうです。また、金毘羅街道は米を運ぶ道でもありました。

見せていただいた写真には、町役場のとなりに明治8(1875)年に建立された鳥居が写っていました。次のブロックに並んである消防庁舎のあたりだと思います。また、鳥居の西側には道標(天保9=1838年建立)がありました。案内してくださった方のお話によれば、「先ほど訪ねた神石神社や蛭子神社付近に船で上陸した参詣の人たちは、南に向かう道を進み金比羅に向かっていた」そうです。このあたりが金毘羅街道の出発点でした。なお、鳥居は昭和44(1969)年、宇夫階(うぶすな)神社に、道標は中央児童公園に移されているそうです。

南に進み2ブロックほど進んだところで、案内の方から「この右(西)のあたりが、琴平参宮鉄道の「宇多津駅前」という停車場があったところです」と教えていただきました。

東の方を振り返りました。この通りが線路跡のようです。琴平参宮電鉄は、昭和3(1928)年、坂出駅前まで延伸しています。橋も当時の幅のように見えました。参宮電鉄は、戦後、程なくしてバス路線に転換しやがて廃止されました。

その先に、古い町並みが残っています。最近、このような伝統的な商家が次々になくなっているそうです。

さらに南に進みます。道路にぶつかって左折(東行)。その先の理髪店で右折(南行)してさらに進みます。

役場を出てから15分ぐらいで、民家が途絶えます。道は、その先で、二つに分岐します。かつて、道の両側に常夜灯がありました。このあたりは農村部との境にあたり、かつては木戸が設置されていたところです。常夜灯は、宇夫階神社の御旅所に移されています。分岐した左の道を進み、御旅所に入ります。

入り口に常夜灯がありました。向かって左側の灯籠には寛政6(1794)年、右の灯籠には寛政8(1796)年と刻まれていました。

少し、引き返して、道の分岐点を、今度は右に向かって、山際の道を進んで行きます。

左側に、坂出と宇多津の分水嶺である角山(つのやま)が見えます。右側の青ノ山は宇多津と丸亀の分水嶺。二つの山の間にある宇多津の町を南に進みます。やがて正面に「讃岐富士」の飯ノ山が見えてきます。海抜421.9m。日本百名山の一つ。以前、登ったことがあります(2012年5月14日の日記)。すぐに、丸亀市飯野町になります。

途中の鍋谷コミュニティ分館で休憩した後、さらに進むと、右側に「鍋谷の金毘羅灯籠」がありした。正面に「金毘羅大権現と刻まれており、文政2(1819)年の銘がありました。

その先で、右の金毘羅街道を進みます。

道路の右側の田んぼの中に、煉瓦作りの工場跡がありました。煉瓦づくりの煙突が少し壊れています。瓦の製造工場跡です。懐かしい光景です。

道路の右脇にあった常夜灯。漢方医宮本立本らが建てたそうです。かれは、寛政(1789~1801)年間、鍋谷に野田塾(偕学舎)が開設されたとき、野田塾の教育を「手伝っていた」そうです。

その先から、田んぼの中の畦道に入ります。

国道11号にぶつかり左の横断歩道を迂回して、その先のあぜ道に再度入ります。

さらに進むと飯野小学校の手前の池に周囲の道に出ました。この先に、かつて道標がありました。

この先の民家の左の道が金毘羅街道でした。案内の方のお話では、道標がこの先の飯野小学校の脇にあるので、「ここだけ旧金毘羅街道をショートカットして進みます」とのことでした。

光線の関係で見にくい写真になってしまいましたが、この道標が先ほどの池の土手にあったものです。読みづらいのですが、金毘羅街道の道を示しているそうです。

ここから、高松自動車道の高架下をくぐる道に向かって歩きます。

高松自動車道に沿って歩きます。後ろは飯ノ山。宇多津を出てからずっと見守ってくれています。

高速道路の高架の手前にあった、旧琴平急行電鉄「登山口駅」跡です。この鉄道は、昭和5(1930)年から昭和19(1944)年まで、坂出駅と琴平駅を結んでいました。戦争の激化に伴い営業停止になりました。昭和23(1948)年に琴平参宮電鉄に吸収合併され廃止されました。案内の標識以外は何も残っていませんでした。

道路の右側に、目の不自由な母と子がここまでやってきて息絶えたということにちなんでつくられたお地蔵様、「母子地蔵」がありました。

右側にあった板谷の常夜灯。「金毘羅大権現」と刻まれた、文政8(1825)年の建立の常夜灯でした。

その先の左側にあった、琴平急行電鉄「飯野駅」跡。「電車はこの駅で90度近くカーブしていた」と案内の方は言われていました。ここも鉄道の名残りは、案内板以外は何も残っていませんでした。

道路の先を右に土器川に向かって行く道が、かつての線路跡だったようです。記録によれば、次の駅は「川西駅」。土器川を渡った西側にあったようです。ここから約900m先にあったそうです。

右側にあった西光寺を過ぎた左側に、道標が残っていました。明治6(1873)年製。「左 たきのみや 右 こんぴら街道」と刻まれていました。この先で旧街道は土器川の土手からやってきた道に合流します。

この先からは、土器川の土手に出ました。そして。12時5分、土器川河川敷公園、水辺の楽校に着きました。ここで昼食です。 土器川は讃岐山脈の竜王山(標高1059.5m)に源流をもつ長さ 32.4kmの河川です。香川県唯一の一級河川ですが、全国で2番目に短い川だそうです。河床勾配の急なことで知られています。 下流域で良質な粘土が産出されるため、古くから土器がつくられていたことから、「土器川」と名づけられました。短い川ですが、何度も洪水で災害を起こした暴れ川です。

水辺の楽校を出てすぐ右側に、樋之口常夜灯と地神社が鎮座しています。大川神社(いっしょに歩いた方は「だいせん」と呼んでおられました)は、まんのう町の大川山の山頂(1042m)に鎮座する雨乞いの神様とのことです。ここは、その大川神社の遙拝所だそうです。

土器川沿いの道を進みます。中方橋を過ぎたあたりで左の土器川に向かって入ります。土器川の伏流水を集めたような川に沿って旧街道に入ります。案内の方のお話では、「その前の橋がつくられたため、道が遮られたようです」とのこと。この先、土器川の土手にあがった後、左側のビニールハウスの間を下ってい行きます。 自然農法、有機栽培の「よしむら農園」の農場に入ります。

よしむら農園の前の橋のたもとに道標がありました。「左 金毘羅道  右 大川道」と記されていました。立派な御影石で土台部分が改修されていました。 よしむら農園の方のお話をお聞きしてから農園の中を、さらに先に進んでいきます。

案内をしてくださっている方が「この先すごい道に入りますよ」と言われました。道はその先で竹藪の中に入りました。日差しが遮られた中を歩いて、再度土器川の土手に出て行きます。この前に、「昭和30年代に、対岸の町と組合立の中学校を設立していて、生徒は土器川の中を歩いて通っていました」という話しをされていました。

川幅が150m~350mあるといわれる、土器川。はるか先に見える対岸にセメント工場の建物が見えます。その右側に小さな地蔵堂がありました。

写真の中央部やや右に見えるのが地蔵堂です。かつて、金毘羅街道を進む旅人は、この地蔵堂を目ざして、歩いて川を渡っていったそうです。先ほどのお話では、昭和30年代の中学生もそうだったようですね。

私たちは、もちろん川渡りはしません。「川の水量の問題というより、歩けるようにするための草刈りが大変だ」そうです。その先の垂水橋を渡って対岸に着きました。

垂水橋の上から土器川の下流を撮影しました。山はもちろん、讃岐富士の飯ノ山です。渡った後、橋の西詰めから、下流に垂水地蔵の社が見えていました。この地蔵堂は茶堂跡といわれています。旅人がほっと一息つくことができた場所だったようです。ここから、土器川の上流に向かって西側の土手を上流に向かって進みます。しばらくは、ひたすら歩く、我慢の道が続きました。

途中に、また大川神社がありました。土器川下流には、多くの神社が祀られているそうです。雨の少ない香川県らしい神社です。

やがて、乙井大橋です。

乙井大橋の西詰めに、道標がありました。「右 うたづ 三り(里) 左 丸がめ 三り(里)」と掘られていました。「東高篠の道標」です。もとは交差点の反対側の信号の下にあったのが移転したそうです。

ここからは、琴平電鉄琴平線を渡って、旧高松街道を琴平に向かって歩くコースになります。

丸亀方面からの道路を左に進み、その先にある琴平電鉄の高架橋を登っていきます。

下は琴平電鉄琴平線の線路です。この先に、琴平の温泉街の建物が象頭山の麓に見えていました。

高架の中央部から階段を降ります。降りたところに「金毘羅大権現」の石碑がありました。

その先、車が停まっているところで、右に曲がります。

宇多津から来た宇多津道は、ここで高松からの金毘羅街道(高松道)に合流します。道路の右側に大きな常夜灯がありました。このあたりに、四条(しじょう)村の郷倉が設置されていました。

さらに進みます。その先に鳥居が見えました。扁額には「象頭山」と書かれているように金毘羅宮の鳥居です。鳥居の前にあった、左右の水路から先が榎内(えない)村。江戸時代、四条村は高松領でしたが、榎内村は天領、(幕府領)でした。

その先の右側にあった籏岡(はとか)神社。金毘羅参詣の旅人は、この神社で最後の休憩をとって、金比羅宮まで一気に登っていっていました。ここが高松街道の終点でした。この神社の先の交差点を左折して進んでいきます。

50mぐらいで再度右折。写真の左方向に向かって進みます。

ここ榎内は天領であったため、近辺の領主の支配を受けることがありませんでした。比較的自由に商いができたため、豪農や豪商が軒を並べていました。

今もかつての繁栄を偲ばせる商家が残っていました。

これはJR土讃線の手前の民家の脇にあった「呑象楼跡」の碑。ここは榎内領と琴平領の境にあたるところです。

「呑象」とは「西に窓を設けて、杯に象頭山の姿を浮かべて酒を飲む」という意味だそうです。江戸時代には西日を避けるため、民家は西側に窓を設けなかったようです。天領で飲んでいる時には、琴平の領主も文句は言えなかったのですね。今では西に窓をつくるのは当たり前になっていますが・・。

これはJR土讃線の手前にある水路です。ここが村境。水路の右側が榎内村、左側が琴平領の地域でした。

土讃線をわたると、整備された舗道を通って琴平の商店街に向かいます。

琴平の商店街に入りました。

商店街を抜けると一の橋を渡って金毘羅表参道に入ります。


朝の9時10分にJR宇多津駅を出発し、途中で40分程度の昼食休憩を挟んで、15時過ぎに金比羅宮の表参道に着きました。5時間以上にわたって歩き続けました。 史跡として残るのは、金比羅常夜灯と道標のみ。常夜灯と道標を訪ねて歩く旅になりました。楽しくなったのは、琴平電鉄の高架を越えてから。天領である榎内の商家の見事さに感心しながら、終点である金刀比羅宮の表参道を目指して歩きました。 五街道よりもさらに古くからあった宇多津道。割に単調な道でしたが、なかなかおもしろい道でした。




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