「旧山陽道ロータリー親子ウオーク」というイベントに参加して、
多くの仲間とともに、旧山陽道を歩きました。
スタートは岡山駅西口の旧万町。
旧藩時代、岡山城下町の西国への出口にあたり
総門と番屋敷が設けられていました。
東の岩田町との間には、山陽本線の線路が通っていて、
かつて万町踏切でつながっていましたが、
今はその下につくられた地下道で結ばれています。
奉還町商店街に入ります。
「岡山市街地にある2大商店街」と、表町商店街とともに
「アドマチック天国」(テレビ東京系列)で紹介された商店街です。
食料品店や雑貨店など日常生活に密着した商品を扱う店が並んでいます。
明治維新で失職した武士が、
藩からの家禄奉還金(禄高3年分を年利6分で渡された退職金)で、
商売を始めたことに由来する商店街です。
旧奉還町交番の跡地(現在「防犯防災センター」の看板が掛かっている)は、
御津郡役所(明治33=1900年設置)があったところです。
当時の郡役所には、郡議会も設置されていたそうです。
コーンの右の道路に残る4本の敷石が、当時の姿を伝えています。
郡役所の向かい側には、かつて専売所工場がありました。
(その後、今、イトーヨーカドーのある場所に移りました)
約1キロの奉還町商店街を抜けると国道180線に出ます。
「奉還町西口」の信号を渡って、
国道180号線の一つ裏の道に入ると、旧山陽道です。
左に進んで行きます。
道の左側に、「京橋江ちか道」(明治16=1886年)の道標が残っています。
虫籠窓に格子のある、旧街道の面影を残す民家も残っています。
さらに進むと、玉垣が見えて来ました。 国神社。
「延喜式神名帳」に名が残る式内社です。
大国魂神(大国主命)を祀っています。
鳥居前の石灯籠には「嘉永7年甲寅歳(1854年)」の銘がありました。
さらに西に向かいます。
右手に、三門公会堂。
入り口には、少年の頃駐在所でよく見かけた、
赤い玄関灯がついていました。
その先の右手が三門公園です。
公園に沿って右折します。
ここまで旧街道に並んで流れていた観音寺用水は、
この先、さらにまっすぐ流れ、大安寺地区から笹ヶ瀬川に合流します。
曲がってすぐ、左手の畑理容所の方に入る道が旧街道です。
右手に、「備前国醍醐山成願院本坊」の碑が見えました。
不動明王が本尊の真言宗の寺院です。
坂道を登ると国道180号線に合流します。そのまま国道を進みます。
いわい保育園のところの信号で、国道180号線と別れ、左の道を登っていきます。
旧山陽道は矢坂東町に入り、静かな住宅地を進みます。
写真のあたりが峠になります。
途中に、井戸のつるべが残っている民家がありました。
緩い下り坂を進んで行くと、
「北向八幡宮(きたむきはちまんぐう)」の、
大きな万成石(まんなりいし)の碑が見えます。
この道を登っていくと、矢坂山上にある富山城跡に着きます。
富山城は、岡山城が築かれるまで、岡山平野で最大の城だったそうです。
明応6(1497)年の富山城攻防戦で知られています。
後に、宇喜多忠家(直家の異母弟)が富山城主となります。
忠家の隠居後に跡を継いだ詮家(あきいえ)が、
後に津和野藩主となった坂崎出羽守でした。
この北向八幡宮は、富山城の鎮守の神でした。
矢坂の町は、万成石の産地として知られています。
街道の左の山裾には、石材会社の工場が並んでいました。
武田石材さんの近くには、「桜御影 岡山県産 万成石」の幟が立っていました。
矢坂本町の坂道を下ると、矢坂橋で笹ヶ瀬川を渡ります。
旧山陽道は、この先、国道180号線と重なっています。
交通量が多く、「親子ウオーク」には危険ということで、
ここからは、吉備路自転車道を通って吉備津彦神社へ、
その後は、田んぼの中のあぜ道を吉備津神社に向うことになりました。
私は、お断りをして別行動をさせていただき、
180号線をまっすぐ板倉宿に向かいました。
吉備津彦神社への参道との分かれ道に、
一宮村の「道路元標」がありました。
さらに、中川橋を渡ります。中川の土手道に大覚僧正道の石碑があります。
「是より北五町 昭和7年8月朔日 三宅 」と書かれていました。
西辛川の信号の手前の左側に道標を見つけました。
「←岡山へ二里 →高梁へ十里」、
右横には「吉備津宮 馬屋上村 へ」と刻まれていました。
さらに、180号線を進みます。
この道路の先で、旧山陽道は左カーブします。
このカーブの右に行く道は、古代・中世の頃の山陽道です。
国道沿いに昭和の民家が残っています。
そして、国道がゆるやかに左にカーブする手前の左側に、
「境目」というバス停がありました。
境目集落。備前と備中の国境の集落です。
その先に国境を示す石柱が残っています。
石柱の先を流れる小さな川が国境だったそうです。
「是より東備前国」
岡山藩が立てた国境石です。
旧山陽道は、左カーブする180号線から分かれて、まっすぐ進みます。
50mぐらい進むと、真金一里塚です。
「岡山城下から2番目の一里塚(もう一つは万成一里塚)。
山陽道をはさんで塚を2つ築き、
北側に松、南側に榎が植えられていた」(案内板の説明)そうです。
当時の様子をよく伝えているといわれます。
これは、南側、2代目の榎の木です。
さらに、旧山陽道を進んだ左側には、大きな石の鳥居と松並木が見えます。
吉備津神社の参道です。
左下に、JR吉備津駅が見え始めると、道は下りになっていきます。
下りきると、JR吉備線を渡ります。
板倉大橋を渡ったところに、
「旧山陽道板倉宿」の案内板がつくられています。
川沿いに大きな石灯籠が残っています。
道標にもなっていて、
「金毘羅大権現 吉備津宮 瑜伽大権現」と書かれていました。
さらに進むと、再度、国道180号線に出合います。
旧山陽道は、180号線を横切って、その先もまっすぐ続いています。
その左に、道標がありました。
「右 松山江8里 足守江2里
南 庭瀬江30丁
西 井山宝福寺江 2里半」
ここは、真金十字路。
旧松山往来と旧山陽道の交差点でした。
ここから、JR吉備津駅に向かって引き返しました。
来るときには気がつきませんでしたが、鯉山コミュニティハウスに、
「江戸時代の板倉宿場図」が掲示されていました。
それを見ると、
このコミュニティハウスのあたりに「本陣」があったと説明されています。
しかし、その説明はどこにもなく、結局わかりませんでした。
岡山駅西口の「万町」から、JR吉備津駅の西の「板倉宿」まで、
約8キロの道を、説明を聞きながら歩きました。
部分、部分は、何回も歩いた道でしたが、
通して歩いたのは初めてでした。
多くの仲間とともに、旧山陽道を歩きました。
スタートは岡山駅西口の旧万町。
旧藩時代、岡山城下町の西国への出口にあたり
総門と番屋敷が設けられていました。
東の岩田町との間には、山陽本線の線路が通っていて、
かつて万町踏切でつながっていましたが、
今はその下につくられた地下道で結ばれています。
奉還町商店街に入ります。
「岡山市街地にある2大商店街」と、表町商店街とともに
「アドマチック天国」(テレビ東京系列)で紹介された商店街です。
食料品店や雑貨店など日常生活に密着した商品を扱う店が並んでいます。
明治維新で失職した武士が、
藩からの家禄奉還金(禄高3年分を年利6分で渡された退職金)で、
商売を始めたことに由来する商店街です。
旧奉還町交番の跡地(現在「防犯防災センター」の看板が掛かっている)は、
御津郡役所(明治33=1900年設置)があったところです。
当時の郡役所には、郡議会も設置されていたそうです。
コーンの右の道路に残る4本の敷石が、当時の姿を伝えています。
郡役所の向かい側には、かつて専売所工場がありました。
(その後、今、イトーヨーカドーのある場所に移りました)
約1キロの奉還町商店街を抜けると国道180線に出ます。
「奉還町西口」の信号を渡って、
国道180号線の一つ裏の道に入ると、旧山陽道です。
左に進んで行きます。
道の左側に、「京橋江ちか道」(明治16=1886年)の道標が残っています。
虫籠窓に格子のある、旧街道の面影を残す民家も残っています。
さらに進むと、玉垣が見えて来ました。 国神社。
「延喜式神名帳」に名が残る式内社です。
大国魂神(大国主命)を祀っています。
鳥居前の石灯籠には「嘉永7年甲寅歳(1854年)」の銘がありました。
さらに西に向かいます。
右手に、三門公会堂。
入り口には、少年の頃駐在所でよく見かけた、
赤い玄関灯がついていました。
その先の右手が三門公園です。
公園に沿って右折します。
ここまで旧街道に並んで流れていた観音寺用水は、
この先、さらにまっすぐ流れ、大安寺地区から笹ヶ瀬川に合流します。
曲がってすぐ、左手の畑理容所の方に入る道が旧街道です。
右手に、「備前国醍醐山成願院本坊」の碑が見えました。
不動明王が本尊の真言宗の寺院です。
坂道を登ると国道180号線に合流します。そのまま国道を進みます。
いわい保育園のところの信号で、国道180号線と別れ、左の道を登っていきます。
旧山陽道は矢坂東町に入り、静かな住宅地を進みます。
写真のあたりが峠になります。
途中に、井戸のつるべが残っている民家がありました。
緩い下り坂を進んで行くと、
「北向八幡宮(きたむきはちまんぐう)」の、
大きな万成石(まんなりいし)の碑が見えます。
この道を登っていくと、矢坂山上にある富山城跡に着きます。
富山城は、岡山城が築かれるまで、岡山平野で最大の城だったそうです。
明応6(1497)年の富山城攻防戦で知られています。
後に、宇喜多忠家(直家の異母弟)が富山城主となります。
忠家の隠居後に跡を継いだ詮家(あきいえ)が、
後に津和野藩主となった坂崎出羽守でした。
この北向八幡宮は、富山城の鎮守の神でした。
矢坂の町は、万成石の産地として知られています。
街道の左の山裾には、石材会社の工場が並んでいました。
武田石材さんの近くには、「桜御影 岡山県産 万成石」の幟が立っていました。
矢坂本町の坂道を下ると、矢坂橋で笹ヶ瀬川を渡ります。
旧山陽道は、この先、国道180号線と重なっています。
交通量が多く、「親子ウオーク」には危険ということで、
ここからは、吉備路自転車道を通って吉備津彦神社へ、
その後は、田んぼの中のあぜ道を吉備津神社に向うことになりました。
私は、お断りをして別行動をさせていただき、
180号線をまっすぐ板倉宿に向かいました。
吉備津彦神社への参道との分かれ道に、
一宮村の「道路元標」がありました。
さらに、中川橋を渡ります。中川の土手道に大覚僧正道の石碑があります。
「是より北五町 昭和7年8月朔日 三宅 」と書かれていました。
西辛川の信号の手前の左側に道標を見つけました。
「←岡山へ二里 →高梁へ十里」、
右横には「吉備津宮 馬屋上村 へ」と刻まれていました。
さらに、180号線を進みます。
この道路の先で、旧山陽道は左カーブします。
このカーブの右に行く道は、古代・中世の頃の山陽道です。
国道沿いに昭和の民家が残っています。
そして、国道がゆるやかに左にカーブする手前の左側に、
「境目」というバス停がありました。
境目集落。備前と備中の国境の集落です。
その先に国境を示す石柱が残っています。
石柱の先を流れる小さな川が国境だったそうです。
「是より東備前国」
岡山藩が立てた国境石です。
旧山陽道は、左カーブする180号線から分かれて、まっすぐ進みます。
50mぐらい進むと、真金一里塚です。
「岡山城下から2番目の一里塚(もう一つは万成一里塚)。
山陽道をはさんで塚を2つ築き、
北側に松、南側に榎が植えられていた」(案内板の説明)そうです。
当時の様子をよく伝えているといわれます。
これは、南側、2代目の榎の木です。
さらに、旧山陽道を進んだ左側には、大きな石の鳥居と松並木が見えます。
吉備津神社の参道です。
左下に、JR吉備津駅が見え始めると、道は下りになっていきます。
下りきると、JR吉備線を渡ります。
板倉大橋を渡ったところに、
「旧山陽道板倉宿」の案内板がつくられています。
川沿いに大きな石灯籠が残っています。
道標にもなっていて、
「金毘羅大権現 吉備津宮 瑜伽大権現」と書かれていました。
さらに進むと、再度、国道180号線に出合います。
旧山陽道は、180号線を横切って、その先もまっすぐ続いています。
その左に、道標がありました。
「右 松山江8里 足守江2里
南 庭瀬江30丁
西 井山宝福寺江 2里半」
ここは、真金十字路。
旧松山往来と旧山陽道の交差点でした。
ここから、JR吉備津駅に向かって引き返しました。
来るときには気がつきませんでしたが、鯉山コミュニティハウスに、
「江戸時代の板倉宿場図」が掲示されていました。
それを見ると、
このコミュニティハウスのあたりに「本陣」があったと説明されています。
しかし、その説明はどこにもなく、結局わかりませんでした。
岡山駅西口の「万町」から、JR吉備津駅の西の「板倉宿」まで、
約8キロの道を、説明を聞きながら歩きました。
部分、部分は、何回も歩いた道でしたが、
通して歩いたのは初めてでした。