トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

レトロな駅舎が続く、南海電鉄汐見橋線

2015年12月17日 | 日記

南海電鉄の汐見橋(しおみばし)駅に昭和30年代の「南海沿線観光案内図」が残っているというお話しをお聞きしました。さっそく行ってきました。写真がそのレトロな案内図です。

難波駅から南海本線の普通列車で岸里玉出(きしのさとたまで)駅に向かいました。岸里玉出駅は、平成5(1993)年に現在の形で開業しました。写真は南海本線のホームから見た汐見橋線のホームです。電車は黄色いビルの手前を左にカーブして汐見橋駅に向かっていきます。

汐見橋線のホームです。ホームの端には車止めがあり、行き止まりになっていることがわかります。汐見橋線は、南海電鉄高野線として、明治33(1900)年に開通しました。訪ねる汐見橋駅は、当時「道頓堀駅」と呼ばれていた、高野線の始発駅だったのです。しかし、現在では、このように南海本線から直行で行くことはできません。南海本線の支線のような存在になっています。

岸里玉出駅から汐見橋駅の間は4.6kmあります。写真は、ホームに入ってきた、汐見橋線を往復運転している電車です。2両の固定編成で、向こう側の汐見橋駅方面の車両が2232号車、手前の車両が2282号車です。4.6kmを、9分で結んでいます。

全長4.6kmという距離でしたので、汐見橋線に沿って歩いて汐見橋駅に行くことにしました。3階にあるホームから、2階のコンコースを経由して、地上部分にある、岸里玉出駅の難波駅側、岸里出口に出ました。駅前のスーパーの脇を抜けて進みます。

しばらく歩いて、岸里玉出駅方面を振り返りました。南海電鉄の本線と、分岐した汐見橋線の高架が見えました。左が南海本線で、右が汐見橋線の高架です。

汐見橋線の高架に沿って、道路の歩道部分を進んでいきます。

高架が少しずつ下っていきます。やがて、国道26号線に合流します。「西成区岸里3丁目」の標識がありました。写真は国道を跨ぐ汐見橋線の橋脚です。架線も見えています。

国道26号線に沿って進み、西成郵便局の先の交差点を左折します。左折した先にあった、大阪市営地下鉄四つ橋線の岸里駅への入口をみて、まっすぐ進むと・・

正面に汐見橋線の線路が見えました。高架下、2.5m。かなり下っています。ここからは、再度高架に沿って歩きます。

汐見橋線の線路は、この先で地上に降ります。その先で、左折して汐見橋線の線路を渡ります。

左折して正面に見えた「銀座商店街」です。昭和の香りを今に伝えるレトロな商店街です。

駐輪されている自転車を見ながら銀座商店街に入ります。アーケードのある商店街です。昼過ぎの時間でしたので、さほど人通りは多くありませんでした。お総菜を売る店や懐かしい昔ながらの喫茶店、雑貨屋さんが並んでいます。「NHKの朝の連続ドラマ『ふたりっ子』の舞台になった」そうですが、私は通勤時間のため、このドラマを見たことはありませんでした。

銀座商店街の途中で右に曲がります。商店街が続いています。「西天駅前商店街」という標識が見えました。「西天駅前」。汐見橋線の二つ目の駅「西天下茶屋駅」にちなむ商店街です。昭和の香りを味わいながら、まっすぐに商店街を歩きます。

線路の手前で、西天駅前商店街方面を振り返って撮影しました。右側が、歩いて来た西天駅前商店街からの道です。銀座商店街も西天駅前商店街も自転車が似合う通りでした。左側は西天下茶屋駅です。駅に接した建物の奥行きは1mぐらいしかありません。家と言うより壁と感じてしまいました。

汐見橋線は、もともと高野線として開業しましたので、複線になっています。ここは、汐見橋駅方面行きの駅舎の入口です。岸里玉出駅から、1kmのところにあります。1日の乗降客は284人(2012年)だそうです。

駅舎に入りました。コンパクトな駅舎ですが、事務室や天井の塗装にレトロ感が漂っています。周囲の町の雰囲気に溶け合っているような駅でした。

駅舎の手前の踏切を渡って岸里玉出駅方面に行く側の駅舎に向かいます。こちらが駅の正門入口だったのでしょうか。壁の塗装からレトロ感はさらに増します。この西天下茶屋駅は、汐見橋線の開業から15年後の、大正4(1915)年に開業したそうです。

駅舎内には改札口がありました。上りと下りに別々の改札口があるぜいたくな駅でしたが、残念ながら無人駅になっていました。

岸里玉出駅方面に向かって撮影しました。南海電鉄は軌間1067ミリです。両側の駅舎の向こうにホームが見えています。ここから、次の津守(つもり)駅に向かって歩きます。写真の右側に向かって進みました。

車1台がやっと通れるような静かな通りが続いています。「橘三丁目」から「松三丁目」そして「梅南三丁目」と花にまつわる通りを抜けていきます。

阪神高速堺線の下をくぐり国道26号線を渡り、津守浄水場に沿ってさらに進むと、広い西成公園が見えてきます。

その並びに大阪府立西成高等学校が見えてきます。この一帯には、かつて、大日本紡績(現ユニチカ)の広い敷地がありました、その跡地につくられたのが、西成公園と西成高校なのだそうです。

西成公園が途切れたあたりで、汐見橋線の線路とぶつかりました。踏切から見た津守駅方面です。

踏切の右側には、津守商店街のアーケードが見えました。

西成高校の向かいに、津守駅があります。津守駅は大正2(1913)年に開業しました。西天下茶屋駅から1kmのところにありました。1日の乗降客は約600人(2012年)で、利用者の大半が、西成高校の生徒や先生方だそうです。そのためでしょうか。レトロ感のないすっきりとした駅舎に建て直されていました。ここからは見えませんが、2面2線のホームをもっています。駅員さんは勤務しておられないようでした。

高校生が毎日通っている改札口。その先にホームの上屋が見えます。

津守駅を出て歩き始めたとき、折り返して岸里玉出駅に向かう、汐見橋線の電車が通過していきました。

津守駅から先は、市営住宅の中の道を抜けた後、木津川に沿って建つ工場の中を抜けて進みます。阪神高速の17号線が木津川を越えるあたりを歩きます。

阪神高速の下をくぐった後は、右折して進みます。この先に、次の木津川駅がありました。汐見橋線が高野線として開業した明治33(1900)年には、この駅と汐見橋駅の二つの駅があっただけでした。かつては、モダンな駅舎だったに違いありません。しかし、いかにも寂れた感じがします。空き地のまま放置されている駅前のようすから、余計に老朽化が目立っているのが残念です。津守駅から1kmのところにありました。ここも駅員の姿はありませんでした。

駅舎前から左に向かって進むと踏切がありました。線路から見た汐見橋駅方面です。明治33(1900)年に高野線として開業したときに設置されました。木津川駅という名前からも連想されるように、この駅は木材の集散地として栄えた花形の貨物駅でした。寂れたと書きましたが、1日の乗降客は86人(2012年)だそうです。汐見橋線を利用される方は、ほんとに少なくなっています。

木津川駅の構内を撮影しました。1面2線のホームの上屋が見えます。今は途切れていますが、手前に引き込み線がつくられています。この先に木材の集積場があったのでしょう。

この写真はホームから撮影しました。手前のフェンスで仕切られている先は、線路が撤去されていました。このあたりにかつての栄光を感じることができました。いま、雑木や雑草が生えている広い敷地が活用され、多くの人が集まる駅になってほしいと願わずにはいられませんでした。

木津川駅の踏切を渡り、公園の手前を左折して、汐見橋線を左に見ながら進みます。阪神高速15号線堺線に合流した先で、汐見橋線の踏切を渡ります。踏切から、木津川駅方面を撮影しました。線路の橋桁が見えました。2線それぞれに橋桁が着いています。さぞかし下には大きな川が流れているのだろうと思いましたが、下は埋め立てられていて川の姿はありませんでした。

ここは、琴江橋跡。現在は、琴江歩道橋が上に架かっています。踏切の脇に「琴江橋跡」の石碑が設置されていました。

琴江橋跡の踏切を渡り、再度、汐見橋線を右にして歩きます。芦原自動車学校の先を右折して進みます。芦原町の手前の踏切を渡ります。これは、踏切から見た、次の芦原町駅の2面2線のホームです。大正元(1912)年に開業した比較的新しい駅です。

線路の右側に、芦原町駅がありました。木津川駅から700mのところにあります。

無人駅でした。駅舎内の時刻表を見ると、やがて汐見橋駅行きの電車がやって来ます。ここからは電車で次の汐見橋駅まで行くことにしました。150円を支払い1駅分の乗車券を購入して改札を入りました。ちなみに、岸里玉出駅から汐見橋駅までの乗車券は210円でした。ホームにあった駅名表示。「芦原町」は「あしはらちょう」でした。ちなみに、1日の乗降客は181人(2012年)だそうです。

芦原町駅はJR大阪環状線の芦原橋駅から250mのところにあります。ホームの先で、JR環状線との立体交差がありました。環状線の赤い電車が走っていきました。光線の関係で黄色く見えていますが・・。

終点の汐見橋駅に着きました。到着した、1面2線のホームの端です。車止めがつくられています。明治33(1900)年に開業したときには、「道頓堀駅」と呼ばれていました。しかし、4ヶ月後に現在の「汐見橋駅」と改称されました。そして、昭和4(1929)年に、高野線が難波駅発になったため、それ以来、支線の扱いを受けるようになっています。現在の乗降客は、1日495人(2012年)だそうです。駅員がお一人勤務しておられました。

反対側のホームです。こちらも車止めが設置されています。その先に駅舎の屋根が見えました。

駅舎に入りました。改札口の上に、めざす「南海沿線観光案内図」がありました。しかし、案内図はレトロでしたが、内部はきれいに塗装が施されていました。

これが「南海沿線観光案内図」です。紀伊半島から四国東部、淡路島南部にいたる地域が描かれています。南海フェリーも描かれています。

ここも、同じ掲示物が貼ってあると言われていましたが、きれいに生まれ変わっていました。

汐見橋駅の外観です。かつては、貨物駅としての施設もつくられていたといわれています。駅前は千日前通りです。

隣は、阪神電鉄の桜川駅の入口です。

前を走る千日前通り。それと交差して、写真の向こうに側に向かう新なにわ筋の先に、道頓堀川にかかる汐見橋があります。かつてはここから汐の満ち干が見えたからと名づけられたといわれています。

南海電鉄高野線として開通した汐見橋駅と岸里玉出駅間は、開通してから29年後に高野線から離れた支線の扱いを受けるようになりました。現在も、30分ごとに2両編成の電車が片道9分かけてこの間を往復しています。レトロな駅舎が続く沿線は、駅舎と同じく昭和の香りがする町でした。
今回は、3時間ぐらいかけて、4.6kmの線路に沿って歩きました。私のように昭和を生きた者には何とも懐かしい気持ちにさせられる、楽しい旅でした。今後もときどき乗ってみたいと思った旅でした。



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